開戦直前のフランス軍(一)
フランス常備陸軍(予備役を含む)の総数は、この普仏宣戦布告の1870年7月中旬時点で56万7千名ありました。しかし、この数には69年度に徴兵された初年兵(つまり訓練未熟な者)およそ5万名が含まれており、また68年度徴兵(2年生)8万2千名も含んだ数でした。予備役(4年間)兵は11万2千5百名、現役(5年間)兵は39万3千5百名となります。
しかし、この数には以下の兵員も含まれていました。
*非戦闘員 5万名(馬の調教兵、担架兵、経理兵など)
*憲兵隊 2万4千名
*補充隊 2万8千名
*内国衛戌兵 7万8千5百名
*アルジェリア植民地軍 5万名
以上23万5百名
このため、実際に前線へ繰り出す野戦軍は33万6千5百名ということになります。プロシア参謀本部クラウゼ少佐の作業班が予測した「フランス軍が野戦軍に供出出来る兵力は34万3千名」という数字が実に近いものだったことが分かります。
しかし実際の動員となると、連隊の兵営と補給廠が離れていたことや鉄道や道路が大渋滞を起こしたことなどにより、このおよそ34万名というゴールも動員担当者にとっては遠いものとなってしまいました。
とはいうものの、フランスの兵器は概ねドイツ側より優秀なものが多く、また備蓄も豊富であり、優秀なシャスポー小銃など海軍用に3万丁渡してもまだ34万名の野戦軍全員が一人3丁持てる計算になるほどでした。
兵役も5年と長い(プロシアは3年)ので一部兵士の訓練は行き届いており、様々な問題を抱えるとはいえ個々の兵士を比較すれば侮り難いものがありました。
しかし前段で幾度も記して来た通り、フランス軍は代人制度による徴兵の形骸化で老兵中心となり、過去の栄光に縋る誇り高い貴族や軍人一族の支配により才気ある者は潰され、コネと誤魔化しで昇進したりおいしい地位を得たりする者も多くいたりで最悪の状態にありました。
国民の気質も誇り高く熱しやすく、諸外国を根拠なく下に見る傾向があり、特にここ十数年で急激に発展し成熟したドイツという「地方」を警戒しながらも鼻で嗤うのでした。それは国軍の中級以上の士官たちに共通した傾向でもあり、名門サン=シールの士官学校を卒業した彼らエリートは諸外国からフランスに学びにやって来る士官たちを見下し、彼らがフランス語を必死で学んで話し掛けると横柄に自国語で返し、自らは決してドイツ語や英語等を学ぼうとはしませんでした。勿論、その間にプロシアのキャリア士官たちが仮想敵フランスのことを必死で学び、自国と同じ位フランスを知る努力をしていたことなど想像だにしなかったことでしょう。
このフランス軍が70年の7月15日(動員1日目)を迎えた後の苦難については先述の通りですが、更に詳しくその状況を見てみます。
陸軍は歩兵100個連隊に対し戦時体制に移行するため、兵員の損害を補填するための補充大隊と、当てにならない「護国軍」と共に後方任務に当たる第4大隊の新設を必要としました。この第4大隊は第二波となる新たな軍団を編成する時の中核ともなるのです。
平時の歩兵連隊は普通それぞれ8個中隊からなる3個大隊で構成されていました。この1個連隊中の第2と第3大隊から各第8中隊を抽出し、この2個中隊を中核に補充大隊を創設、更に250名の予備役兵からなる2個中隊を迎え入れ、補充大隊は4個中隊制となりました。
また、第4大隊は3個の大隊から第7中隊を抽出、この3個中隊に第1大隊の第8中隊を加え、4個中隊とします。これで連隊は第1、第2、第3大隊(各6個中隊)となり、これに補充大隊が隷属しました。第4大隊(4個中隊)はまず内国警戒のため全国に展開することとなります。因みに戦時のフランス歩兵1個大隊(第1から第3大隊)の定員は約800名でした。
これを全国の連隊が行った訳ですが、更に上級組織として旅団、師団、軍団を編成したのですから混乱は最初から予想されていました。
フランス軍建て直しの中心となった故ニール元帥が生前計画したところによれば、フランス軍は動員12日目に予備役全てが所属部隊駐屯地へ被服装備と共に到着し、前線への出発準備が完了することとなっていました。フランスは国民の怒りに押され煽られて迅速な動員と戦時編成を迫られたのですが、元々そのように突然の動員と軍団編成など誰も予測していなかったのです。
動員後最初に軍団「らしい」集団が出来上ったのは第8軍団とされた近衛兵の軍団で、彼らは普段よりパリやその近郊に駐屯して人員もほぼ定員に達しており、その補給廠も駐屯地至近にあったので当たり前といえば当たり前でした。
次に集合が完了したのは植民地のアルジェリア軍ですが、残念ながら彼らは集まった後に地中海を越えて本土へ上陸した後、国土をほぼ縦断しなければ戦線にたどり着かず、開戦に間に合うはずもありません。
次はパリ市内やシャロンの野営地に集合した部隊で、彼らも近衛兵らと同じくパリやフランス北東部に駐屯していた部隊でした。これに南部フランスのリヨン周辺に集合した部隊が続きますが、ここで既に動員一週間が過ぎようとしていました。
ニール元帥の計算では動員12日後、即ち7月28日には全ての軍団が出征準備となるはずが、この日までに前線へ向かったのは補給廠が駐屯地の近くにあった35個連隊に過ぎず、残りの部隊は未だに被服や物資、武器弾薬を手に入れるため奔走していたのです。
今日ではばかばかしく見える一例を挙げれば、第87歩兵連隊は南仏のリヨンに駐屯しその補給廠はサン・マロ(ブルターニュ地方・レンヌの北、イギリス海峡に面した港町)にあり、第98歩兵連隊はダンケルク(ドーバー海峡に面したベルギー国境の港町)に駐屯していましたが補給廠はリヨンにありました。
まるで当然のように98連隊と87連隊の間で補給物資を「臨機応変に交換しよう」などという話し合いなど行われませんでした。87連隊の兵站・主計士官は目の前にある他部隊の補給物資を見て何を考えていたのでしょうか?多分、何も考えていなかったと思います。そこにある資材は宇宙にあると言ってもいいほど彼らにとっては「ないもの」だったことでしょう。
軍隊もお役所、残念ながらそういうものです。
結局、どこの動員担当士官たちも予備役から動員された兵士たちを所属の連隊に送るのではなく、まず連隊の補給廠に向かわせ被服装備を受け取らさせた後で連隊へ送るという面倒な方法を取らざるを得なかったのです。
また、武器や輜重、車輛は集積され限定された補給廠に収められており、これを受け取るには陸軍大臣の特別命令を受けねばならないという不自由もありました。ナポレオン3世皇帝の意向もあり、結果ほとんどの連隊は装備や武器、車輛や馬匹の不足に喘ぎながら予備役を待たずドイツとの国境へと向かったのでした。
この歩兵連隊の苦渋をよそに、騎兵と砲兵は常備軍から十分な装備と人員、馬匹の充足を得ていました。従って動員時も歩兵と比較して混乱は少なかったようです。
また、騎兵と砲兵の主力は北フランスやベルギー~ドイツ国境付近に駐屯していたので、動員後も素早く国境付近に到達していました。
各歩兵師団に配属される砲兵は、ライットシステムの4ポンド砲6門を有する1個中隊を直ちに秘密兵器のミトライユーズ砲に交換するよう命令されます。これにより歩兵師団には6門のミトライユーズ砲が配備されますが、極秘に訓練を重ねて新兵器の取り扱いに習熟した特別な砲兵たちは、何も知らされていなかった動員担当者たちによって仕分けられてしまい通常の砲兵として出征して行き、代わりに配属されたのは初めてこの砲を見る砲兵という愚かなケースが続出、せっかくの新兵器も宝の持ち腐れとなってしまうのでした。
ドイツと比べて明らかな優勢にあったフランス海軍はその指揮下に「海軍陸戦隊」を組織していました。これは帆船の時代からこの19世紀に掛けて存在した「海兵隊」から発展した歩兵で、元来海兵は艦船のマストや艦尾楼などから接近した敵艦上の士官などを狙撃することや艦船の警備や敵の港湾を奇襲することなどを任務としていたことから、船に精通しなおかつ射撃や陸兵式の教練を受けていたので、陸兵に先駆け上陸するのにはもってこいの兵種でした。
フランス海軍はこの陸戦隊を4個連隊、合計136個中隊持っており、開戦時64個中隊は海外での植民地警備に就いていましたが、残り72個中隊は国内におり、その戦闘兵員数は9,600名でした。同じく上陸用の海軍砲兵隊は28個中隊あり、20個中隊120門の砲が国内にありました。
彼らは歩兵36個中隊・砲兵8個中隊で旅団を編成、この2個旅団と予備騎兵2個連隊により緒戦で北海沿岸のドイツ領を襲う計画でした。
ナポレオン3世はプロシアを中心とするドイツの軍勢を55万と予想しており、30万のフランス軍よりほぼ倍と考えていました。
このまま正面衝突すればフランス必敗と考えた皇帝はドイツ側の動員を「スピード」で上回り、20万の軍勢で南部ライン川マックスアウ(カールスルーエ西郊)付近を急襲して南部ドイツに侵攻、南北ドイツの分断を目指したのでした。
しかし、プロシアを恐れたナポレオン3世のこの作戦も「事実に目をつぶり敵を侮る」フランス軍の悪い癖を発揮したものと言えます。
プロシアは既に普墺戦争で迅速な動員を達成しているにもかかわらず皇帝はこれを無視、南ドイツの諸侯も予断を許さないとは言えフランスと組むかプロシアと組むかの二者択一で、最終的にはフランス側に下るものと端から信じていた、いや、信じたかった節がありました。
ナポレオン3世がライン軍として組織したのは、
歩兵311個大隊、猟兵21個大隊、騎兵220個中隊、砲兵924(うちミトライユーズ砲140)門、工兵37個中隊
でした。
また、スペイン方面を全くがら空きには出来ず、歩兵第22、34、58、72連隊(12個大隊)猟騎兵第8連隊、同第7連隊の2個中隊を1個師団に編成してピレネー山脈の麓トゥールーズに駐屯させました。
同じく歩兵第35、42連隊と猟騎兵第7連隊の残り2個中隊、砲兵2個中隊(12門)をイタリアは教皇領の重要な港町チヴィタヴェッキア(ローマ西北西60キロ)に駐屯させ、どさくさ紛れにイタリアがローマへ入城しないよう睨みを利かせました。
植民地対策としてはアルジェリアに歩兵第16、38、39、92連隊、外人部隊歩兵連隊(3個大隊)、アルジェリア軽歩兵1個連隊(3個大隊)、驃騎兵第8連隊、猟騎兵第1、9連隊、アフリカ猟騎兵3個連隊、そして砲兵8個中隊(48門)を残留させます。
頼りにならない護国軍はおよそ千名を1個大隊定員とする100個大隊と砲兵1万名を動員する予定でした。
平時編制のフランス軍(70年7月上旬)
☆近衛兵(歩兵24個大隊・騎兵24個中隊・砲72門)
○歩兵
・擲弾兵3個連隊(9個大隊)
・戦列歩兵3個連隊(9個大隊)
・ズアーヴ兵1個連隊(2個大隊)
・猟兵1個大隊
○騎兵
・胸甲騎兵1個連隊(4個中隊)
・カラビニエ騎兵1個連隊(4個中隊)
・槍騎兵1個連隊(4個中隊)
・竜騎兵1個連隊(4個中隊)
・教導騎兵1個連隊(4個中隊)
・猟騎兵1個連隊(4個中隊)
○砲兵
・野砲兵1個連隊(6個中隊)
・騎砲兵1個連隊(6個中隊)
☆野戦軍(歩兵344個大隊・騎兵228個中隊・砲912門/要塞砲除く)
○歩兵
・戦列歩兵100個連隊(300個大隊)
・猟兵20個大隊
・ズアーヴ兵3個連隊(9個大隊)
・アルジェリア軽歩兵1個連隊(3個大隊)
・アルジェリア・ティライヤール歩兵3個連隊(9個大隊)
・外人部隊1個連隊(3個大隊)
○騎兵
・胸甲騎兵10個連隊(40個中隊)
・驃騎兵8個連隊(32個中隊)
・槍騎兵8個連隊(32個中隊)
・竜騎兵12個連隊(48個中隊)
・アフリカ猟騎兵4個連隊(16個中隊)
・スィパヒ騎兵3個連隊(12個中隊)
・猟騎兵12個連隊(48個中隊)
○砲兵
・野砲兵15個連隊(160個中隊)*
・騎砲兵4個連隊(32個中隊)
*野砲兵各連隊の第1から第4中隊は要塞砲中隊・野戦砲兵は90個中隊
○工兵
・3個連隊
☆常備軍総計
・歩兵368個大隊
・騎兵252個中隊
・砲984門(要塞砲除く)
・工兵3個連隊
*ズアーブ兵/1831年制定のアルジェリアやチュニジア人からなる歩兵。
*カラビニエ兵/「カービン(騎兵)銃を持つ兵士」の意味で、驃騎兵や憲兵などを示す。名誉尊称。
*ティライヤール兵/アフリカ植民地ベルベル人やチュニジア、モロッコ人などを徴募した軽歩兵。
*スィパヒ騎兵/元来はオスマントルコ騎兵の意。フランスでは1834年からアルジェリアで徴募された原住民で組織した騎兵。




