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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・動員と展開
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開戦直前のドイツ軍(四)

 7月29日頃になるとモルトケにもメッスからサルグミーヌに集中するフランス軍より、ドイツ第一、第二軍の方が既に兵力では勝っていることを確信し、第二軍のザールブリュッケン方面への進出を許可します。

 しかし、ザール川では既に第8軍団第16師団を中心とした第一軍の部隊ががんばっており、なおも後続部隊が前線へ急行していました。この7月末時点で前線にいるのは定員のおよそ一個師団半分の兵士、後続部隊が配備に就くにはもう4、5日が必要であり、第二軍の前進にもそのくらいが掛かります。

 モルトケは、未だ敵より少ない状態のまま第一軍が単独でフランス軍と戦い始めるのを危惧し、第一軍の集中速度を一旦緩めて第二軍と肩を並べるような運動に変えようとしました。


 7月29日、モルトケはシュタインメッツ第一軍司令官に対し軍主力をヴァーダーン~ロースハイム・アム・ゼーの線に再展開するよう命じ、またカール親王第二軍司令官には第3、第4軍団宿営地をアルツァイ~ゲルハイム~グリューンシュタットの線とするように命じました。

 また、第9、第12の両軍団もマインツ周辺からラインを越えて前進させ、後からやってくる第1、第6軍団のために場所を空けるよう命令、また編成したばかりの第5、第6の騎兵師団は集合後直ちにザールブリュッケン~ビッチュ間の国境沿いに展開するよう命令が下ります。


 これを見ると、モルトケは第一軍をモーゼル川沿いに展開させフランス軍左翼がコブレンツやケルン方面へ突破することを防ぎ、第二軍の騎兵師団をプファルツ国境に置いて、その後方に第3、第4軍団、その後ろは第9軍団、更に第12軍団と続進させ、軍団を厚い重層構造にして敵主力をプファルツで迎え撃つ考えだったことが分かります。


 モルトケは更に皇太子の第三軍に対し、「バーデンとヴュルテンベルク師団を迎え入れた後、直ちにライン左岸に沿って南進し敵を求めて会戦することをヴィルヘルム国王は期待している。これは敵をしてライン川南部で架橋し南部ドイツに侵入することを防ぐことが狙いである」と、国王の名を借りてストラスブールのフランス軍を撃破することを要請しました。

 しかし皇太子とブルーメンタール参謀長は31日、「バイエルン軍を含む部隊は未だ動員が完結せず、攻撃はしばらく延期されたい」と報告、この攻撃は延期されました。この裏には、せっかちに敵を先制するより南からライン左岸への敵の攻撃を防御し第二軍の左翼を護る方が容易で理にかなう、とのブルーメンタールの冷静な判断があったものと想像されます。


 こうして7月が終わり、8月が始まります。7月末におけるドイツ軍の展開を以下に整理しましょう。


☆第一軍

○第7軍団

 第13師団はカルにて鉄道を下車しトリールまで徒歩行軍、この31日に現地に到着。第14師団はアーヘン及びシュトルベルクで鉄道を下車しベルギーとルクセンブルク国境沿いに徒歩行軍、同じく31日にトリールに達しました。軍団砲兵並びに輜重補給段列は本体からほぼ一日遅れの行軍を続けていました。

○第8軍団

 第16師団本体は31日、ヴァーダーン~ヘルメスカイル付近にあり、国境のザールルイ、ザールブリュッケンなどザール川に沿って歩兵連隊を中心とした「支隊」送り込んでいました。特にザールブリュッケンの後方には歩兵第31旅団を中心とするブルーノ・ナイトハルト・フォン・グナイゼナウ少将(あの改革者グナイゼナウ将軍の息子です)の支隊がおり、街では一個大隊を指揮するペステル中佐が敵とにらみ合いを続けていました。

 第15師団はコブレンツで鉄道を降りるとモーゼル川沿いに徒歩行軍し31日にはタールファング~ビルケンフェルド付近、つまり第16師団の後方数キロに展開していました。軍団砲兵並びに輜重補給段列は一日乃至二日の行軍分モーゼル川方面にいました。


 第一軍司令シュタインメッツ大将はこの31日の参謀本部命令を受け、8月3日までに両軍団本隊をヴァーダーン~ロースハイム・アム・ゼーの線へ集中させようと第7軍団長ツァストロウ大将と第8軍団長ゲーベン大将に命じます。これは敵に対し横二列となった軍を縦にする機動で、田園や森林、丘の続くザール地方では少々厄介な布陣変更でした。

 また、敵に後背を突かれぬよう国境の町ペルルとトリールを結ぶ街道の監視をもツァストロウ大将に命じ、同じくゲーベン大将にはザールルイ要塞の維持と連絡を絶たぬよう命じました。


☆第二軍

〇第3軍団

 この31日に本隊がヴェルシュタットに到着、前衛を騎兵が集まるフュルフェルト(バートクロイツナハ南方)まで前進させています。軍団砲兵や工兵、輜重補給段列はビルケナウ(マンハイムの東)で下車中で全軍の集合は8月3日とされました。

〇第4軍団

 既に一部の輜重補給段列以外配置に就き、本隊はホッホシュパイヤー~バートデュルクハイムに宿営し、前衛はカイザースラウテルンにありました。

〇第10軍団

 ビンゲン・アム・ライン周辺で野営し、遅れてやって来る軍団砲兵や歩兵6個大隊を待っていました。全軍集合は8月2日予定です。

〇近衛軍団

 フランケンタール(ヴォルムスとマンハイム間)周辺に展開、待機していました。近衛第1と第2師団は歩兵4個大隊や砲兵、騎兵の一部が未着でしたがこれも8月1日にマンハイムに到着予定でした。

 軍団砲兵と近衛騎兵師団はハノーファーから鉄道で輸送中で、8月3日にはカイザースラウテルン着の予定でした。8月4日には全軍がカイザースラウテルンに前進・集合の予定です。

〇第9軍団

 第18師団はモスバッハで鉄道を下車、徒歩行軍中で31日にはライン川を越えて集合指定地オッペンハイムに入りつつあり、第25『ヘッセン』師団もヴォルムスから徒歩行軍でオッペンハイムへ向かっていました。

〇第12軍団

 強豪ザクセン軍団は第9軍団のすぐ後方から進んでおり、モスバッハで鉄道を下車すると南ヘッセンの地を徒歩行軍、この31日にはラインを渡河しマインツの南西ニーダー=オルム周辺に野営しました。


 第二軍司令カール親王大将は30日に本営をアルツァイに前進させています。前日の29日には騎兵第5、第6師団の統括指揮を騎兵第5師団長フォン・ラインバーベン中将に任せ、同日下った参謀本部の前進命令により国境地帯への展開を命じました。

 ラインバーベンは騎兵第6師団に対し現在集合地のフュルフェルトからマイセンハイムを経てノインキルヒェンまで進むよう命令します。自身率いる騎兵第5師団に対しては二つの支隊に分け、レーデルン旅団とバルビー旅団はバート・ゾーベルンハイムからバウムホルダーを経てフェルクリンゲン(ザールブリュッケン西)へ、フォン・ブレドウ旅団をデュルクハイムからカイザースラウテルンを経てホンブルクまで前進するよう命じました。

 31日にはこれら騎兵は、騎兵第6師団はマイセンハイム付近、レーデルン=バルビー支隊はゾーベルンハイム、ブレドウ支隊はデュルクハイム付近とスタート地点にありました。ラインバーベン中将はブレドウ支隊と共に進み、8月3日には国境付近に達するものと思われました。


☆第三軍

〇バイエルン軍

 第1軍団(第1・2師団)はシュパイヤー周辺で宿営し、第2軍団の第3師団はノイシュタット(アン・デア・ヴァインシュトラーセ)付近で集合完結を待っていました。ボートマー将軍の第4師団は前進してプファルツ南部プフェルツァーヴァルト(ヴォージュ山脈の北に続く山地)のビリヒハイム=インゲンハイムからバート・ベルクツァーバーンにかけて展開していました。第4師団を含めて動員が完了しておらず、特に第1軍団は歩兵11個大隊、騎兵連隊、砲兵部隊が全て到着しておらず、輜重補給段列も未だバイエルン国内にありました。第2軍団はまだマシでしたが、砲兵部隊主力は未だ到着していませんでした。

〇第11軍団

 この軍団はほぼ動員集中が完了しており、ゲルマースハイム周辺に展開、宿営していました。軍団本営はランダウにあり、第21師団司令部はクニテルスハイム(ゲルマースハイム西)に、第22師団司令部はベルハイム(同じく)にありました。なお、歩兵第42旅団を中心とする支隊をラインツァーバーンに、フォン・レックス大佐の支隊(歩兵1個連隊主幹)をアンヴァイラー(アム・トリーフェルス)に、それぞれ派遣しています。

〇第5軍団

 ランダウの南方に展開、宿営。本営はインスハイム(ランダウ南方)にあり、部隊はその西側に集中していましたが歩兵第19旅団だけは更に南、バイエルン第4師団と連絡しロアバッハ~ビリヒハイム=インゲンハイムまで展開していました。この軍団も未だ完全ではなく、騎兵部隊と軍団砲兵、輜重補給段列はまだ遙か後方を行軍中でした。

〇ヴュルテンベルク師団・バーデン師団

 両国野戦師団は動員集中が全て完了しており、皇太子の命じた通り31日にはバーデン師団がカールスルーエ、ヴュルテンベルク師団がグラーベン(=ノイドルフ)で宿営・待機していました。


☆北部海岸防衛後備部隊

〇第17師団

 既に7月28日に動員集中が完了、31日にはハンブルクの街で宿営・待機していました。また支隊をリューベックとノイミュンスター(キール南西)へ派遣しています。

〇後備第2師団

 動員集中はほぼ終わり、ブレーメンに到着し始めていました(8月1日に完了)また支隊をオルデンブルクとブレーマーハーフェンへ派遣しています。

〇後備近衛師団

 動員はほぼ終わり、ベルリン周辺からハノーファーへの鉄道輸送と一部は徒歩行軍の最中でした。8月3日に配置完了の予定です。

〇後備第1師団

 動員中で、8月12日までにヴィスマルからリューベックに掛けて展開する予定でした。

〇後備第3師団

 動員中で、ポーゼンから東プロシアのバルト海沿岸に展開する予定でした。


 ハノーファーからホルシュタイン周辺に集中した後備部隊を指揮するメクレンブルク=シュヴェリーン大公国フリードリヒ2世=フランツ大公(プロシア軍大将)は30日、その本営をハンブルク北東郊外ウーレンホルストに設けます。

 また、この正規軍後備部隊以外の旧・ラントヴェーアを指揮するファルケンシュタイン大将の下には歩兵77個大隊、猟兵5個中隊、騎兵33個中隊、野砲兵17個中隊、要塞砲・海軍砲兵48個中隊、工兵11個中隊という大軍(戦闘兵員およそ9万名)が動員・配備されつつありました。


 プロシア軍大本営は31日、各軍本営に対し「フランスとの合戦準備完了期日は何日となるか」と質問します。三つの軍からは異口同音に「8月3日」との回答が届き、これを以て大本営は「作戦準備完了は8月3日と定めた」と各部隊に達しました。


 同じ7月31日の午後、ヴィルヘルム1世国王はドイツ全軍を統括指揮するため、ビスマルク宰相、モルトケ参謀総長ら大本営を率いてベルリンを発しました。市内では国王の勅語を印刷した号外が配られていました。


「 臣民に告ぐ

 朕はドイツの名誉と王家の至高の財宝を護らんがため、交戦する目的を以て本日、軍陣に赴くに当たり、臣民が一致して奮起せることを鑑み、国事上の重軽犯罪者を赦免することとした。朕は内閣にこの意を命じ詔勅の案を出すように命じている。

 朕の臣民は朕と共に平和の錯乱も対敵の行為も全て朕の責任にないことを知っている。しかし、既に挑戦を受けたからには朕は朕の父祖の如く神を信頼し祖国の危急を救わんがため、決起して奮闘することを決心したのである。

 1870年7月31日 ベルリンに於いて ヴィルヘルム 御璽」


 ウンターデンリンデン大通りを馬車で駅に向かう国王を、正装したベルリン市民は歓呼で見送り、窓と言う窓からは赤・白・黒の北ドイツ連邦旗と白に黒のプロシア国旗が翻っていました。国王は夜にはマインツ要塞に至り、ここに大本営を構えます。

 

 ドイツはいよいよフランスの挑戦を受ける用意がなったのでした。


挿絵(By みてみん)

ヴィルヘルム1世の出陣(1870.7.31)

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