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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・動員と展開
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開戦直前のドイツ軍(三)

 7月31日。北ドイツ歩兵第40連隊を中心とする守備隊が国境でフランス第2軍団と対峙するザールブリュッケンでは、街の西、すぐ先の国境付近で敵フランス軍の活発な活動が目撃されていました。

 斥候や前進哨兵の報告によれば、敵はザールブリュッケンに面したスティラン=ウェンデルの高地に新たな部隊を迎え入れ、鉄道の末端駅では背嚢を担いだ兵士たちが列車から続々と降り立っていました。砲兵を従えた長い縦列がサン=タヴォルからフォルバックへと続き、逆にシエルク=レ=バン(モーゼル川ドイツ・ルクセンブルク国境)にいた部隊が消え、ビッチュよりアンヴィレ方面の敵は増強されてヴォージュ山脈の北端に当たるプファルツ南部に面するフランス側の高地では塹壕や鹿柴(ろくさい)を設置する工兵の姿が観察されていました。


 それは明らかに敵がプファルツとザール南部から攻勢に移ろうとしている姿に相違ありませんでした。

 ロタ川(プファルツとフランス国境)のフランス側では宣戦布告当初、税関監視兵のみが目撃されていましたが、次第に増える敵の不気味な動きにより詳細な偵察行が必須となります。

 この事態を受け、バーデン大公国野戦師団長グスタフ・フリードリヒ・フォン・バイヤー(バイエル)中将は、ヴュルテンベルク王国からバーデン軍に派遣されていた貴族の参謀大尉に対し「越境して敵の動向を偵察せよ」との命令を下しました。若い伯爵はバーデン軍士官3名と竜騎兵3名を引き連れ、7月24日にローターブール(独名ラウテルブルク)付近から越境、ゼルツバッハ川(ライン川支流)沿いに進みニーデルブロン=レ=バンでフランスの猟騎兵連隊が駐屯しているのを発見します。しかし翌25日にシルルノフ(ニーデルブロン南東8キロ)付近で休息中、敵に発見されてしまい交戦、伯爵のみ離脱に成功し、他の者は戦死か捕虜になってしまいました。この時に戦死したバーデン王国の騎兵士官ヴィンスロー少尉は普仏戦争ドイツ側最初の戦死者と思われます。


挿絵(By みてみん)

シルルノフの遭遇(ツェッペリン伯の偵察隊)


 その後伯爵は単身敵中を突破し無事に帰還、ヴォージュ山中北東側には敵の集中はわずかであることを報告しました。バーデンは裏付けを取るため重ねて偵察行を繰り返し、この情報を確すると敵の侵入を妨害するため国境の町ローターブールを占領し敵の電信線を切断しました。

 また、これと平行してプファルツのバイエルン軍も盛んに越境偵察を繰り返し、ビッチュからダムバッハ(ニーデルブロン北北西)、更に国境に近いステュルゼルブロンヌに敵の部隊が駐屯しているのを確認しています。ホルンバッハ(ツヴァイブリュッケンの南・独領の部落)とシェーナウ(ステュルゼルブロンヌの東・独領の部落)は越境したフランス兵に占領されたことを確認しています。


挿絵(By みてみん)

旅荘裏手から逃走するツェッペリン伯


 余談になりますが、この若き参謀大尉の伯爵こそ後に飛行船で有名となるフェルディナント・アドルフ・ハインリヒ・アウグスト・フォン・ツェッペリン伯爵その人で、この時32歳でした。

 伯爵は由緒ある貴族の御曹司としてバーデン大公国コンスタンツで生まれます。父親がお隣のヴュルテンベルク王国の国務大臣を務めていた関係からヴュルテンベルク軍に参加、アメリカ南北戦争に観戦武官として派遣された後、普墺戦争では国王カール1世の副官として参加し勲章を得ています。この普仏戦争での敵中長距離偵察行はプロシア軍でも有名となり、後にドイツ帝国陸軍中将まで昇進した後に退役、飛行船の研究・製造へと移って行きました。


挿絵(By みてみん)

伯爵フォン・ツェッペリン大尉


 これらの偵察情報は直ちにベルリンの参謀本部へ送られ、この情報を転送された第三軍参謀長ブルーメンタール中将は、既に普墺戦争からの長いコンビとなった軍司令官フリードリヒ皇太子と合議します。皇太子名で出された命令(25日付)はバーデンからプファルツ南部にかけての自軍管区内国境線での防御を命じたものでした。


「プロシア第5並びに第11軍団は、ランダウ及びゲルマースハイムの周辺に宿営し、これを第三軍本営が前進するまで第5軍団長ヒューゴ・エヴァルト・フォン・キルヒバッハ中将の指揮と為す。敵が前進来たればクリング川(ジルツ~クリンゲンミュンスター~ゲルマースハイム南のヘルト付近へ流れるラインの支流)の線を固守せよ。また敵がストラスブールよりラインを渡河した場合、第11軍団はゲルマースハイム付近で右岸(東)へ移動しオース付近(バーデン=バーデン西郊)のバーデン軍を援助せよ。この場合、ライン右岸にある兵力はカールスルーエで待機する第三軍本営付将官伯爵カール・フリードリヒ・ヴィルヘルム・レオポルド・アウグスト・フォン・ヴェルダー中将の指揮下となるべし。

 敵がもしライン左岸(西)を前進して来た場合、バーデン並びにヴュルテンベルク両師団はマッソウ(カールスルーエ西郊ライン河畔)及びゲルマースハイムでラインを渡河してクリング川の線まで進むこと。ここに至ってなおバイエルン第1軍団が動員未了で参戦出来ない場合、大本営は集合中のプロシア第4軍団をマンハイムにて下車させ援助に向かわせる算段である」


 この25日、フランス軍は第7軍団のベルフォール集合が未だ完了せず、逆にマクマオンの第1軍団のうち2個師団がストラスブールに入り、残り2個師団がブリュマト(ストラスブール北北西12キロ)を経由する鉄道沿いに野営していました。

 プファルツの国境森林地帯を偵察した複数の斥候報告によれば、フランス軍部隊はビッチュ周辺からヴァイセンブルク方向(東)に移動しつつあり、ヴァイセンブルクの東郊アルタンスタットにはこの25日には既に歩兵1個連隊・騎兵2個連隊・砲兵1個中隊からなる支隊が駐屯しているとのことでした。

 バーデン軍の前線哨兵からは、ストラスブールからライン川沿いに北上しロテ(ラウター)川=国境へ向かう敵の縦列が観察されており、占領したローターブール(ラウテルブルク)の南方には大量の架橋資材が集積されていることが発見されました。

 これらの情報から前線の部隊は、フランス軍が近日中にライン左岸(プファルツ)にいるドイツ第三軍を攻撃するか、あるいはローターブール付近を攻撃してロタ川とライン川の合流地点付近からラインを渡河しカールスルーエ南方からバーデン攻撃に移るか二つに一つの攻撃に入るものと判断し上層部へ「敵の攻撃がひっ迫している」との緊急報告をするのです。


 ヴォージュ山脈からストラスブール付近に展開するマクマオン大将のフランス第1軍団が、プファルツ正面に展開していると思われるファイー中将の第5軍団と合同してライン左岸を攻撃すれば、その兵力はおよそ8万人と予測されます。これが直ぐにでもプファルツへ押し寄せるような雰囲気を漂わせる報告が相次いでいたのでした。


 この情報に慌てたバイエルン第4師団長ボートマー中将は26日、ちょうどランダウに到着したばかりの北ドイツ第11軍団第22師団長フォン・ゲルスドルフ中将と協議、ランダウ郊外に集合した第11軍団との共同作戦について取り決めようとしましたが、直後に「敵の動きはプファルツ方面ではそのように切迫していない」との否定的な報告が届き、両将軍はほっとして通常通りの兵力集中を続けることとして、北ドイツの兵士たちは宛がわれた宿営地で待機に入るのでした。


 プロシア皇太子フリードリヒ親王は第三軍本営を率いてこの7月26日にベルリンを鉄道で出立、自らが率いる事となる南ドイツ四諸候君主を次々に表敬訪問し、「陛下の軍をお預かりします」と挨拶、同盟国との「絆」を確かめ合います。ミュンヘン~シュトゥットガルト~カールスルーエと、東から西へ、国の「格」順をきちんと守っての訪問でした。

 バイエルン王国、ヴュルテンベルク王国、バーデン大公国それぞれ一日ずつの訪問後30日にシュパイヤーに本営を構え、ここでヘッセン公と会見した後、バーデン師団をカールスルーエ、ヴュルテンベルク師団をグラーベン(=ノイドルフ)へ集合させるよう命令を下しました。


 この皇太子訪問の際、ヴュルテンベルク王国陸軍大臣のフォン・スコウ中将はプロシアの皇太子にあるお願いをします。

 中将曰く「ビュルテンブルク国民はフランス軍が侵攻して来ると怖れおののいております。この国民の恐怖心を取り除き安心させたいのですが……」

 フリードリヒ皇太子はスコウ大臣の案を聞くと「直ちに実行してください」と快諾し、スコウ大臣はヴュルテンベルク軍のフォン・ゾイベルト大佐を呼び、ある命令を与えるのでした。


 ゾイベルト大佐はヴュルテンベルク師団が出征した後で本国を警備する歩兵第6連隊の連隊長でした。大佐は命令に従い自身の歩兵連隊に後備騎兵一個中隊、後備砲兵一個中隊を加えて「遊撃隊」を組織します。

 遊撃隊は鉄道に乗車すると華々しくシュトゥットガルトを出発、プロッヒンゲンを経て王国の東端ウルムまで行き、列車を乗り換えて今度は王国の南端トゥットリンゲンまで行くと越境し、バーデン大公国のドナウエッシンゲンに到着します。ここで下車すると徒歩行軍の部隊とわざわざ農家から借り受けた馬車に乗る乗車隊とに分けて、シュヴァルツヴァルトの森を通過してライン川東岸へ進出しました。

 わざわざ国の端から端まで部隊を動かし、鉄道沿線でこれを見た人々は賑やかで勇壮な部隊の様子に勇気付けられたことでしょう。


 この7月下旬、ドイツの動員はほぼ完了し、それぞれ指定された地区への移動が最盛期を迎えています。


 第一軍は真っ先に動員を完了し26日には補給末端駅から徒歩行軍でモーゼル川からザール川へと配置についている最中、第三軍は動員が続く中、南ドイツ諸侯の軍を中心にライン川沿いに集合し、バイエルン軍の一部と第11軍団がプファルツへ急速に展開中でした。

 遅れていた第二軍の動員も順調に進んでおり、23日の命令により続々とマインツ周辺とその前方に展開し始めていました。

 

 このマインツ周辺は既に10万近い部隊が集中していたので、後に続く部隊の野営地が不足し始めていました。第二軍司令官カール王子は後続部隊の渋滞を避けるため、最初に集合した部隊を更に西へ、国境へと動かすことに決めます。既に第二軍の後方輸送も順調に進んでおり、プロシア東部で待機する第1軍団や第6軍団にも移動の準備号令が掛かっていました。


 このマインツより西、ザール=プファルツではいつフランス軍と遭遇してもおかしくない状況でした。しかし正確な参謀本部情報ではプファルツのほぼ中央に当たるアルツァイ~グリューンシュタットまでは横一列で前進しても安全、即ち敵はこの線に8月5日までには到達出来ないだろう、となっており、兵士たちを緊張で疲れさせたくない指揮官たちはゆっくりと部隊を密集させず前進させるのでした。


 この第二軍では7月30日に第9並びに第12軍団の正式な配属が決定し、後の8月5日には第1軍団と第6軍団の半分を加えることとなります。その戦闘兵員数は19万4千を数え、文字通りドイツ軍の主力部隊となりました。


こぼれ話・軽騎兵ヘルマンの活躍


 ヘルマン・ヴァイナハト(1845バイエルン~1905カナダ/トロント)は、普仏戦争で若きバイエルン・シュヴォーレゼー騎兵として参戦し、1870年8月1日、独仏国境付近のステュルゼルブロンヌ(プファルツ地方ピルマゼンスの南16キロ)にて仏軍のパトロールに見つかって窮地に陥った普驃騎兵を助け、友軍の前線まで脱出に成功し、一躍有名となります。この武勇伝はバイエルン王国軍の美談として語り継がれ、後にバイエルンの戦争画家ルイ・ブラウンがプロシアとバイエルンの絆を表すものとして描き、これは絵葉書の原画や多くの複製画となり、非常に多くの人々が目にするところ(つまりはプロパガンダの成功例)となりました。


挿絵(By みてみん)

 ルイ・ブラウンの原画写真


 普仏戦争の宣戦布告から8月2日の「ザールブリュッケンの戦い」までの間、ザール川沿岸からプファルツ地方の国境付近において、独仏の勇敢な騎兵たちは盛んに越境し偵察活動を行いました。この中で有名なのが先述のツェッペリン伯の偵察行ですが、その他にも多くの名もなき騎兵斥候たちによる偵察行が行われていたのです。


 バイエルンの農夫の子として生まれたヘルマン・ヴァイナハトは、十代でバイエルン軍に入隊し、1870年7月18日、24歳でシュヴォーレゼー(軽騎兵)第5「オットー王子」連隊第2中隊所属の1騎兵となります。連隊は開戦時よりピルマゼンスに駐屯しました。

 7月31日午後5時、プロシア軍の驃騎兵第12「チューリンゲン」連隊が町に到着、翌8月1日早朝、男爵マクシミリアン・フォン・エグロフシュタイン少佐率いる第2中隊は、フォン・パリー少佐率いるプロシア驃騎兵中隊と共に越境して国境付近の街道沿を偵察することとなりました。

 ところが、ステュルゼルブロンヌ付近の田舎道において仏軍の小部隊と遭遇し、仏軍部隊は最初恐慌状態となるものの、やがて落ち着きを取り戻し、一時激しい銃撃戦となります。双方に死傷者が出ますが、やがて数とシャスポー銃によって有利となった仏軍は独の騎兵を圧倒し始め、騎兵たちはばらばらとなって付近の峡谷へと逃走に入ります。この時、馬を撃たれて落馬した一人のプロシア驃騎兵を見付けたヘルマン・ヴァイナハトは、仏軍の猛銃撃の下、戻って馬上から手を差し延べ驃騎兵を後ろに引き上げ、この際に鞍を失うものの愛馬を走らせて「虎口」を脱出するのでした。二人とも無事に帰還することが出来ました。


 四年前には普墺戦争で死闘を演じたバイエルン軍とプロシア軍、ということもあり、普仏戦争の初期にはそのためかやや緊張した状態にありましたが、このヘルマン・ヴァイナハトの無私の行為が新聞や出版物によって大々的に宣伝されるとたちまちに緊張は氷解し、「同盟軍」として直後のヴァイセンブルク、そしてヴルト戦へと向かったのです。

 ヘルマン・ヴァイナハトはこの行為により、この戦争でも最初期に第二級鉄十字章を授けられました。

 ヘルマンは戦争直後に結婚すると除隊して仕立屋を営み、カナダへ移住しました。1905年、トロントにて60歳で亡くなっています。


 現在、ブラウンの原画はインゴルシュタットのバイエルン軍事美術館で保管されています。


挿絵(By みてみん)

 ステュルゼルブロンヌの戦闘 複製画


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