開戦直前のドイツ軍(二)
モルトケは、この7月22日前後でフランスの兵力が南北ドイツの動員より早く国境で進攻するに足る兵員を確保するだろう、と見極めました。
第一軍は予定通りモーゼル川トリール付近に集中すべく東より徒歩行軍を続け、その右翼をルクセンブルクの中立に保護されてコブレンツ周辺からトリールへと速やかに展開します。
また、第三軍はバーデンとプファルツ南端に集中すべく急速に行軍しますが、参謀本部情報ではストラスブールの敵は割合に小さいもので、敵が先にラインを超えるとは考え難いものがありました。
問題なのは第二軍でした。
カール王子指揮の第二軍は近衛軍団(ベルリン)を始め、第3軍団(ベルリンやフランクフルト)第4軍団(ザクセン州やマグデブルク)第9軍団第18師団(メクレンブルク)第12軍団(ザクセン王国)と遠方から鉄道で運ばれる軍団ばかりで、第10軍団(ハノーファー)と第9軍団第25師団(ヘッセン大公国)だけがマインツ要塞周辺に集まっていました。このままでは中央突破を受けかねないと感じたモルトケは王と相談し、事前の計画から敵が先んじた場合の第二案へ移行、第二軍に属する部隊はマインツ後方の前線集積駅にて下車し、ライン川に沿って展開することを決し、7月23日国王の名を以て発せられるのでした。
この命令によりケルン~コブレンツ~ビンゲン・アム・ライン鉄道を使っていた第3と第10の両軍団はビンゲンにて下車し、クロイツナハ及びマインツに向け徒歩行軍して行きました。また近衛と第4の両軍団はマインツ付近の補給端末駅で下車し、マインツ周辺で野営に入ります。
第3軍団全体と第4軍団の前衛はクロイツナハ~バート・デュルクハイムの線に進出して待機し、両軍団の境界線付近は相互連絡のため、竜騎兵第5連隊(ライン竜騎兵)が守りに入ります。
しかしこの移動により、第9軍団と第12軍団が指定されていた初期野営地区にまで第3、第4軍団が入り込んでしまいました。仕方なく第9と第12軍団はマインツ要塞地区で野営に入るのでした。ヘッセン部隊の第25師団はヴォルムス周辺を指定され7月26日に宿営を始めました。
こうして第二軍が後方に展開すると、フランス国境に前進していた右翼の第一軍の第8軍団に対し参謀本部は「万が一後退する場合は短期日後に第二軍が前進突破することを想定し、鉄道の破壊は短時間で修理可能なレベルで押さえること」と命令されるのです。
第二波として動員中の第1軍団は動員完了後にベルリン郊外に前進して待機し、第6軍団はゲルドリッツとブレスラウにて待機せよとの命令が下ります。
この第二軍への命令を含め7月23日に参謀本部から下された移動命令は以下の通りです。
☆第一軍
○第7軍団・第13師団は27日までに鉄道でカル(ライン州ベルギー国境付近)に達し、以降徒歩行軍にて31乃至8月1日までにトリールへ到着せよ。
第14師団は26日まで鉄道でアーヘン及びシュトルベルクに達し、以降徒歩行軍にて8月1日乃至2日までにトリールへ到着せよ。
○第8軍団(第15・16師団)は主にモーゼル川右岸を徒歩行軍、北方より集合する部隊はベルンカステル=クース付近でモーゼルを渡河して一同8月2日ザールルイからヘルメスカイル(トリール南東20キロ)までの間に布陣、或いは命令によっては7月28日から31日までにキルヒベルク(コブレンツ北西15キロアンダーナッハ郊外)付近に集合せよ。
☆第二軍
○第3軍団(第5・6師団)は25日から28日までに鉄道でビンゲン・アム・ラインへ到着せよ。
○第10軍団(第19・20師団)は29日から8月5日までに鉄道でビンゲンへ到着せよ。
○第4軍団(第7・8師団)は26日から29日までに鉄道でマンハイムへ到着せよ。
○近衛軍団(近衛第1・2師団)は30日から8月5日までに鉄道でダルムシュタット或いはマンハイムへ到着せよ。
○混成第9軍団・第25師団(ヘッセン)は26日までにヴォルムスへ前進し、第18師団は28日から8月2日までに鉄道でマインツ付近に進出・下車して指示を待て。
○第12軍団(第23・24師団)は27日から8月2日までに鉄道でマインツ付近まで進出・下車して指示を待て。
☆第三軍
○第11軍団(第21・22師団)は25日から27日までに鉄道でゲルマースハイム及びランダウへ到着せよ。
○第5軍団(第9・10師団)は27日から8月3日までに鉄道でランダウへ到着せよ。
○バイエルン第1軍団(バイエルン第1・2師団)はシュパイヤーにおいて8月3日までに戦闘準備を完了し9日までに作戦を実行出来るよう準備を成せ。
○バイエルン第2軍団(バイエルン第3・4師団)はゲルマースハイム付近において8月3日までに戦闘準備を完了し9日までに作戦を実行出来るよう準備を成せ。
○ヴュルテンベルク師団は27日乃至28日にカールスルーエ付近に集合し戦闘準備を完了せよ。先行して騎兵10個中隊が22日現地へ輸送されたことは確認済みである。
○バーデン師団は既にラシュタット以北にあり。そのまま駐屯待機とせよ。
☆予備軍
○第1軍団(第1・2師団)は27日より8月5日までにベルリン西方地方まで鉄道で移動せよ。
○第2軍団(第3・4師団)は26日より31日までにベルリンまで鉄道で移動せよ。
○第6軍団は徒歩行軍により25日乃至26日以降、第11師団はゲルリッツ付近に、第12師団はブレスラウ付近に集合・待機せよ。
○第17師団は26日から28日までにハンブルク付近に到着せよ。
○近衛後備師団は28日から8月3日までにハノーファー付近に鉄道にて到着せよ。
○後備第2師団は29日から8月1日までにブレーメン付近に鉄道にて到着せよ。
○後備第1並びに第3師団は8月5日までに部隊毎にシュナイデンミューレ(ベルリン北120キロ)、マグデブルク、シュチェチン、グローガル(現ポーランドのグウォグフ)、ポーゼン(ポズナン)、チルジット(現ロシア・カリーニン州ソヴィェツク)付近にてそれぞれ鉄道に沿って野営・待機せよ。
要塞守備隊の戦時定員充足期限は以下の通りとする。
○ザールルイ 7月22日既に完了せり
○マインツ 7月28日
○ケルン 8月1日
○コブレンツ 7月30日
○北部沿岸地方堡塁 7月29日乃至30日
こうして南北ドイツ軍の集合は着々とスケジュール通りに実行されました。
この動員・集合・展開の中、最前線となったザール=プファルツ地方では元来国境守備に就いていた部隊がそのまま敵の侵入に備え、緊張していました。
ザール地方ではトリール駐屯の歩兵第40連隊のうち2個大隊がザールルイとザールブリュッケンに一個ずつ差配され、追って動員のなった連隊は驃騎兵第9連隊と共にトリールを守ります。
トリールからの一個大隊を加えたザールルイ要塞は第69と70連隊が守り、ザールブリュッケンは槍騎兵第7連隊(一個中隊はザールルイに)と先述の歩兵一個大隊を加えて守備、更にザール川上流(南)のブリースカステルには竜騎兵第5連隊が駐在、敵と相対します。このライン州の騎兵部隊は、先述通り第3軍団と第4軍団との連絡を行う任務の他、ルートヴィヒスハーフェンからホンブルクまでの貴重な鉄道線の守備も行い、また、その南、プファルツで守備に就くバイエルン部隊との連絡もこなすという大活躍を見せました。
バイエルン王国の飛び地でフランスと接するプファルツ地方には、元よりバイエルン第8旅団がヨーゼフ・マクシミリアン・フリードリーン・リッター・フォン・マイリンガー少将指揮の下展開していました。ほぼ北ドイツと同じ軍の編制に変わりつつあったバイエルン軍で、この部隊もプロシア式に旅団は歩兵2個連隊(バイエルン第4、8連隊)と騎兵、砲兵、工兵、そして猟兵一個大隊で構成されていました。
これに7月に入って応援としてバイエルン歩兵第7連隊の一個大隊と同騎兵第5連隊が加入され強化されていました。
また、ヴィンデン(ランダウ南15キロ)にはバーデンから一個騎兵中隊が増援に駆けつけています。
しかし、フランス軍が本気を出してこの地を攻撃したらこれでは役不足なので、7月22日、バイエルン軍は更に歩兵第5連隊と第7連隊の残り、更に猟兵2個大隊、騎兵第2連隊、砲兵2個中隊を動員完了を待たず常備兵と間に合った予備役だけで追加増援を行いました。これでプファルツにはバイエルン軍一個師団強が展開することととなります。これは騎兵第5連隊以外、元来の第8旅団含めて全てバイエルン第4師団の所属部隊で、23日、第4師団長フリードリヒ・グラーフ・フォン・ボートマー中将が本部と共にプファルツへ移動し、最前線の指揮を掌握します。
しかし、その歩兵部隊は定員の三分の一程度で順次動員中、騎兵部隊も平時定員のまま動員を待っている状態であり、砲兵部隊は牽き馬が足りないまま苦労しつつ大砲を進ませるのでした。
バーデン大公国の南部、カールスルーエから南はライン川がそのまま国境となり、対岸を臨めばそこは敵の領土となります。ライン川は大河で、アルプスを水源とする底の深い川です。古来より水運が発達し、川船による輸送も普通に行われて来ました。この川を渡るには多くは渡し船による方法が採られ、渡舟場は各地に存在しました。
常設の橋は水運のためにほとんどありませんでしたが、フランスの要塞都市で軍が集合すると思われるストラスブールの対岸、ケールの街からストラスブールに掛かる旋回橋を始めいくつかの国境に掛かる橋もありました。その多くは舟橋でしたが、今回の危機が本格化した16日には早くもバーデン軍は独自にライン川の交通を困難にする方策を採り、この舟橋を撤去し、渡船を回収して重要なケールの旋回橋を一部破壊、川自体には廃船を沈めてフランスの河川砲艦が動き難いようにし、同時に国境沿いの電信線を切断しました。バーデンは戦争になれば真っ先に自分たちが狙われるということを知っており、油断することはなかったのです。
ライン川上流の舟橋で唯一最後まで破壊や撤去されなかったのはマックスアウの橋で、この橋はその南東5キロにあるカールスルーエとバイエルン領プファルツをつなぐ重要な橋でした。プファルツ防衛のバイエルン第4師団はこの橋が補給線となり、プロシア参謀本部はこの橋の撤去に待ったを掛けていました。この橋の援護のため、バイエルンとバーデンの工兵たちは共同して橋の両端に陣地を作り、バーデン軍は蒸気河川曳船を二隻用意、いつでも橋を下流のゲルマースハイムまで牽いて行く準備をしました。そしてゲルマースハイムでは後方のブルッフザールから即席で鉄道新線を街道脇に突貫工事で敷設し、これは開戦直前の7月30日に完成するのです。
普仏国境の町、ザールブリュッケン一帯ではフランス軍の進出が始まるや否や、8月2日のザールブリュッケンの戦いを前に偵察部隊や国境守備隊同士の衝突や遭遇戦が頻発しました。
早くも7月19日にはプロシア槍騎兵第7連隊第3中隊が偵察のためザールブリュッケンから北西の仏領フォルバック方向に進み、国境上のプロシア側税関(税官吏は既に撤収し無人)に達した時、フランス猟騎兵中隊が現れ、プロシア騎兵が襲撃隊形を取ると退却して行きました。翌日にはアンリ・ジュール・バタイユ少将率いるフランス第2軍団第2師団が早くも国境に集合していることが確認されます。
この日(20日)、ザールルイから派遣された偵察斥候隊が国境付近でフランス税関監視兵から狙撃されプロシア側が馬二頭を失いました。この事態に対し24日、プロシア側は報復として越境し、シュルックラン(ザールルイ西十数キロ)にある税関事務所を襲い、フランス兵2名を殺害4名を拉致、金庫を略奪します。プロシア側は少尉1名が負傷しただけでした。
このような小規模の攻防はザールからプファルツにかけての国境線付近で多発し、次第にエスカレートして行きました。
プロシア槍騎兵第7連隊のフォン・フォイヒト少尉は24日に数騎を伴い出撃、ブリーズブリュック(サルグミーヌ東)付近でフランスの鉄道を破壊しようと企てましたが十分な成果を得られず、諦めきれない少尉は度々越境しては線路を破壊、26日には国境のラインハイム部落周辺でフランス国境守備隊に見つかり、防戦一方となりますが駆けつけたバイエルン騎兵に救われました。
これらの小さな遭遇戦から、フランス軍は国境付近、特にザール正面に厚く布陣・野営していることがドイツ側に分かってきます。プファルツ正面ではヴォージュ山脈の北側を越えてストラスブールへ進む動きも確認され、いよいよ南ラインを越えてのバーデン侵攻と、ザールブリュッケン付近からのザール=ライン侵攻が現実味を帯びて来ました。
7月27日にはサルグミーヌとフォルバックからそれぞれまとまった数の部隊がザールブリュッケンへ動くのが観察され、フランス軍はサルグミーヌの北から越境しジッタースヴァルト周辺の森を占拠、付近を警戒していた北ドイツ第40連隊の前衛と銃撃戦となりましたが、双方に被害はありませんでした。
28日にはザールブリュッケンのザール川以南にフランス軍が越境侵入、砲撃も加えました。これは一時ザールブリュッケンの第40連隊前衛と、これも一時激しい銃撃戦となりましたが、両軍共直ぐに射撃を中止し戦闘は拡大せずに収まります。
このようにザールブリュッケンには北ドイツ第40連隊の歩兵一個大隊と槍騎兵第7連隊の三個中隊が守備隊としてがんばっており、『ライン』槍騎兵連隊長フォン・ペステル中佐が指揮を執っていました。ペステル中佐は参謀本部より直接の指示を受け、万が一敵が侵攻して来た場合は無理をせず退却しても宜しい、とされています。これはザール後方に位置する第二軍の進出が未だなっていない状態だからであり、援軍を差し向けようにもこの時点では手一杯だったからです。
しかし、31日にペステル中佐の遥か上官、第8軍団長のアウグスト・カール・フォン・ゲーベン大将が第31旅団長グナイゼナウ少将に第40連隊の残り2個大隊に旅団の2個大隊を加えて支隊を編成しザールブリュケンに向うよう命令、また部隊の退却に備えてレーバッハー(ザールブリュッケン北西郊外)付近に後衛部隊を配置させると、いよいよフランス軍との衝突が秒読みとなって行きました。
ペステル中佐は援軍を得て勇気百倍、ザールブリュッケン死守を決意し、またゲーベン将軍もザール防衛のために前線を固守することを参謀本部に上申しました。
モルトケとしては、敵の方が早く国境に集中したことで一旦退き、敵をザール奥深くへ誘い込んで叩こうと考えていたのですが、作戦を指示した後は前線指揮官の考えに任せる「委任命令」により、ここはゲーベンやその上司の闘将・第一軍司令官シュタインメッツ大将に任せるとするのです。
シュタインメッツの部隊がカール王子・第二軍より先に国境付近へ進出していたのは、第一軍は元よりフランスに近い軍管区(ラインとヴェストファーレン)から編成しており、他の部隊より素早く動員集合が完了し、7月23日の参謀本部命令によりザールルイまで進出していたためです。このこと自体は問題ではありませんでしたが、問題は前線で張り切る指揮官たちにあります。そしてこのことがこの先一週間の混乱の元となってしまうのでした。




