普仏の開戦直前外交戦
フランスはビスマルクの誘いに物の見事に乗る形でエムス電報を真に受け、7月15日深夜臨時軍事債権発行を決定、ナポレオン3世皇帝政府は直ちに宣戦布告の準備に入り、19日、正式に布告しプロシア(=北ドイツ)へ通告します。プロシアはこれを受けるや同日直後に用意していた宣戦布告を行いました。
実際は14日深夜にフランス軍は動員令を実施、プロシア軍も15日深夜に動員令を発しましたので、この時点で戦争が確定しています。
既に動員令が発せられたのなら戦闘に入っても構わない、というのがハーグ陸戦協定(原案同意は1899年)のないこの時代の常識でしたが、お互いに兵力が揃わないまま、なし崩しに戦闘状態に入るのは軍部の統率からしてまずいので、まずはお互い命令にない偶発的な戦闘を避けるようあらかじめ国境地帯に展開していた部隊に指令が飛びました。
それでも小さな偵察部隊同士の接触はありましたが、戦史上、普仏戦争最初の本格的戦闘は8月2日にザール川河畔、プロシア領ザールのザールブリュッケンで戦われた「ザールブリュッケンの戦い」と言われています。
この日までは動員令が互いに本格化した7月16日からおよそ半月掛かっていますが、第一次大戦まではこの位時間が掛かるのは普通なことでした。
この3週間、フランスとプロシアは諸外国に対しこの戦争における自国の正当性を訴え、国際世論を味方に付け、そして「仲間」を求めて積極外交が展開されました。
フランスは、共同して北ドイツ=プロシアを叩こうとばかり態度未定の国々ばかりでなく早々と中立を宣言した国々にまで広く自国の主張と同盟の誘いを行ったのに対し、プロシアは自国の正当性(フランスの横暴)を訴えて同情と中立を訴えていました。
これに対し、周辺の各国はそれぞれの主張に耳を傾けながらも介入を避ける方向でほぼ一致していました。
「プロシア王家であるホーエンツォレルン家のスペイン王位立候補は、フランスを刺激してあのような反応となったのは分かるが、フランスが戦争にまで訴えるのは過剰だったのではないか」
中立を宣言した国々の考えは大体この辺りにあり、ここは両国がやり合った後で火の粉が中立国に及ぶ前に手打ちをするべきだろう、と傍観に入るのです。
イギリス王国は今回の両国の衝突に眉を顰めますが、普仏はいつか衝突するだろうと考えていた政府は7月19日、早々と非介入(=中立)を宣言し、これに対し普仏両国とも自国の正当性を主張をするだけで、調停などの要請は一切しないままに終わります。
「日の沈まぬ帝国」イギリスとしては、この戦争が引き分けに終わり、両国の戦争熱が冷めればよし、互いに軍事力が弱体化しイギリスに張り合うことが無くなればなお良し、といったところでした。
イギリスの気がかりはただ一点、苦心して中立国としたベルギーやルクセンブルクの扱いで、普仏両国に対しベネルクス地方を巻き込まず中立を尊重することと、イギリスの海上商運と海外権益に対し安全を保証することを要求します。普仏はこれを了承し、これによりフランス軍の「北ルート侵攻」は消えました。
イギリス政府はまた、エムス電報事件直後から戦争回避に向けた調停を訴えましたが、先述通り両国ともこれは不可能として乗らず、またベルリンとパリに普仏両国の外交団を残し、戦争がいつでも休戦へ動くことが出来るよう説得を行いますが、これも拒否されてしまいました。
結果、交戦国同士の旧来からのしきたり通り、普仏両国は16日に大使館を閉鎖して外交職員に帰国を命じます。ベルリン駐在フランス大使ベネデッティ、そしてパリ駐在プロシア大使ヴェルテルはほぼ同時にそれぞれの任地を離れ帰国して行きました。
外交攻勢にかけてはビスマルクのいるプロシア有利かとも思われましたが、フランスも負けじと積極的な行動に出ています。
フランスはデンマーク、オーストリア=ハンガリー、イタリアの三ヶ国に直ちに味方となるよう必死に外交攻勢をかけ始めました。
これら三国はフランスの味方となる要素があったからです。
デンマークは64年の第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争でプロシアにはぬぐい去れない恨みを覚えており、オーストリア=ハンガリーはもちろん66年の戦争で受けた屈辱を忘れるはずもなく、イタリアは統一戦争においてナポレオン3世に大きな借りがあったのです。
デンマーク王国はフランスが真っ先に味方にしたかった国でした。
ここでフランスとデンマークが手を結べば北ドイツの「裏庭」北海とバルト海側から攻められる公算が大きくなり、プロシア軍は後備軍ばかりでなく相応の正規軍も北海岸へ張り付けなくてはならなくなります。
このことは当然プロシアも心配していたので、ビスマルクの外務省もデンマークにせめて中立でいてくれるよう要請を繰り返していました。
デンマーク政府も困りました。戦争によりシュレスヴィヒを奪われた屈辱を忘れない国民はフランス支持を叫んでおり、王室はこれ以上国土を戦乱に巻き込みたくなく、また強いプロシア王家と仲良くした方が、何かと自由共和主義者が増え続ける環境でデンマーク王家を守るためにも得策と思えたからです。
デンマーク政府首脳はここは一つ普仏以外のヨーロッパ強豪国に相談しよう、とイギリス、ロシア双方の政府に相談しました。英露ともデンマークが介入することでバルト海方面が混乱することは本意ではないので、両国とも局外中立を勧めました。デンマーク政府はほっとして7月25日になって中立を宣言するのです。
イタリア王国も両国からの外交攻勢で複雑な状況にありました。
国王ヴィットリオ=エマヌエーレはフランスと同盟したことでイタリア北部の一王国(サルディニア)が統一王国となり、自身もその統一王国初代国王となったのですから、積極的にナポレオン3世と手を組もうと考えていました。
しかし、世論と政府は親仏・親普真っ二つに割れ紛糾していました。
親仏派は「マジェンタ」「ソルフェリーノ」でイタリアのために死んでいったフランス兵を忘れるな、今こそ恩返しの時だ、と叫び、親普派はオーストリアと戦ってヴェネトを得ることが出来たのはプロシアがいたからで、しかもフランスは未だにローマを「占領」しているではないか、とやり返しました。そう、教皇領問題は未だにフランスとイタリアとの懸案でした。
プロシアがイタリア王国に局外で留まるよう働きかけたのと違い、フランスは交渉団を送って寄越し、会談が繰り返されました。
当初は政府でも積極的にフランスとの同盟を図ろうとの意見が強く、13万規模の遠征軍をラインへ派遣する案まで飛び出します。しかし、最後にはローマ教皇領問題で妥協が成立せず、会談はついに中断してしまいました。
イタリアが要求したのは同盟と出兵の見返りにフランス軍は教皇領から撤退し、教皇領の処分をイタリアに任せる、という事実上のイタリア半島へのフランスの影響力排除でした。
因みにフランスは1849年4月から「カソリックの本山を保護する」との名目で度々ローマ教皇領に派遣軍を送り実質支配しています。これはローマを中心に共和国を成立させたマッツィーニとガリバルディ「二人のジュゼッペ」一派を潰すための派兵で、フランス国内のカソリック・保守派の票目当ての行動でした。また、1959年の「イタリア独立戦争」後、64、67年と2回に渡ってイタリア王国へ併合しようと侵攻したガルバルディらが率いるイタリア民兵軍を再び撃退していました。
このイタリアの要求に対し、フランスのグラモン外相は「ライン川で名誉を守る代償としてティベレ川(ローマ市内に流れる川)を渡すことは出来ない」としてイタリアの要求を拒絶、会談は物別れに終わり、結果イタリアは中立となりました。
この裏にはビスマルクの悪魔のささやき、「フランスがライン川で戦っている間教皇領は手薄となるはず」即ち、フランスが教皇領に手を出せないチャンスをうまく使いなさい、との示唆があったことも無視出来ないでしょう。
オーストリア=ハンガリー帝国は三ヶ国の中で一番揉めたと言えます。
この二重帝国はこの10年間でフランスと戦い(イタリア独立戦争)プロシアとも戦いました。どちらかと言えば、まだ4年前のプロシアとの戦争が因縁深く、特に軍部はぬぐい去れぬ屈辱感で復讐心の塊となっていました。
二重帝国政府はエムス電報直後にフランスから同盟が打診されると、直ちに御前会議を招集します。この会議には政府と軍から首脳陣が集まり、皇帝の御前で大激論となったのです。
基本的には政府も軍もフランス寄りではありました。ところが、世論の多数は、この帝国の核となる同じドイツ民族が宿敵「フランク」と戦う、というドイツ系新聞が煽りまくった戦いの構図に乗ってプロシア=北ドイツびいきとなっており、これを無視して簡単にはフランスと手を組めなかったのです。
また皇帝一族の中には、マクシミリアン親王がメキシコで見殺しにされた一件を忘れられないとする者が多くいて、フランスとの同盟に反対を表明し、普墺戦争の敗戦で結果的にオーストリア=ドイツ人と対等の権利を得たハンガリー人はプロシアに親しみを感じる者が多く、フランスとの同盟反対に回ります。
逆にプロシアに同胞が支配されている(ポーゼンやシュレジエンの一部)ポーランド人や伝統的にドイツ人と対立状態にあるチェック(チェコ/ボヘミア)人はフランス支持でしたが、如何せん彼らは被支配人種に当たり、影響力がありません。
ダメを押したのはロシア帝国でした。ロシアは伝統的にプロシアとよい関係を築いており、駐ペテルスブルク大使だったビスマルクはロシア帝室と政府外交官をよく知っていて「手玉」に取り続けていました。
またロシア政府はクリミア戦争の立役者ナポレオン3世を未だに快く思っていませんし、二重帝国自体、バルカン半島方面でトルコと共にロシアと三つ巴の関係にありました。
ロシア外交筋はオーストリア=ハンガリー政府に対し「万が一フランス側に立って参戦すればロシアも考えなくてはならないだろう」と暗に対決を匂わせてきました。
結果、オーストリア=ハンガリー二重帝国は中立の立場で推移を見守ることに決し、7月20日正式に中立を宣言するのでした。
南ドイツの四ヶ国については先述の通り、プロシア=北ドイツ連邦の宣戦布告前には全ての国がプロシア軍の巨大な機構の一部として参戦を決意していました。これら四ヶ国の動員はスムーズに行われ、それぞれの部隊は事前打ち合わせ通り、ほぼ自国の正面(西側)へ動いて行きました。ヘッセン大公国(第25師団として第9軍団・第二軍配属)以外の三ヶ国(バイエルン、ヴュルテンブルク、バーデン)はプロシア=ドイツ第三軍配下としてプロシア王国皇太子フリードリヒ親王大将の指揮下で戦うことになります。
こうしてフランスの同盟国を獲得する目論見は潰え去り、開戦前の外交戦はビスマルク外交の決定的な勝利(=フランスの孤立と周辺国家の局外中立)で終わりました。普仏戦争はフランス対ドイツという単純な構造で始まるのです。
フランス帝国の北ドイツ連邦に対する宣戦布告に当たり、フランス皇帝ナポレオン3世がフランス国民に宛てた詔勅の要旨解釈(1870年7月23日発布)
「今回、フランス帝国においてその名誉・屈辱に関する国際間の問題が発生し、国民は憤激し最早その怒りを押さえる事は誰にも出来ない状態となった。
フランス帝国は普墺戦争以来、プロシアに対しては終始一貫して親睦につとめ好意を持って遇して来た。しかし、プロシアはフランスの寛容と好意を無視して頻りに侵略を匂わせる政策を推し進め、また配下の各国に過剰な軍備を強要し、遂にヨーロッパの一大軍事国と化し、自らの人民のみならず近隣諸国にまで不安の種を蒔いて来た。
今回の問題は、これが二国間の問題ではなくヨーロッパの一大問題であることを示すものである。フランスはプロシアが新たに示した冒涜に対し、果敢に抗議した。しかし彼らは言を左右し更にフランスを侮辱する行為に出た。これに対し帝国臣民は激高し、敵愾心はふつふつと沸き立ったのだ。ここに至ってフランス帝国民は国運を武力に託すほかはない、との考えに至った。
朕はフランスの独立意志を尊重し、傲慢な北ドイツ連邦に対し戦いを宣する。
フランス帝国民が望むところは、ドイツを構成する諸侯が自由に国運を定め、フランスと恒久の平和を確保することにある。この戦いは現在の普仏の対立事情を解消する行為にほかならない。
フランスに挑戦するものに対し、翩翻と翻る幾多の名誉が刻まれた三色旗は、かつて我が大革命が世界の文明思想を変革した由緒あるものである。
この旗は我らが主義を代表するものであり、フランス帝国民をして発憤させるものであり、忠義心を鼓舞するものである。
フランス臣民よ、朕は義勇愛国の精神をもって我が忠勇なる軍に赴き、統帥に任ぜんと欲する。フランス軍は己の実力を知っている。かつて四方に遠征し数々の事績を挙げたことがその理由である。朕はまだ幼い皇子を軍陣に伴おうと考えている。これにより、皇子が己の義務と祖国のために奮闘する諸君とその安危を共にすることで誇りを得ることを願う。
臣民の労敬に天恵のあらんことを願っている。正義を全うしようとする大国は、何も恐れることはなく破れることはない、という古来よりの真理を信じよう」
プロシア王国のフランス帝国に対する宣戦布告に当たりプロシア国王ヴィルヘルム1世が南北ドイツ諸国民に宛てた詔勅の要旨解釈(1870年7月25日発布)
「フランスは過去において度々ドイツ民族の名誉と権利とを侵害して来た。しかし、ドイツ民族がこのフランスの侮辱に対し、なんら報復的行動をしてこなかったのは、ドイツ民族が諸侯分裂状態にあったからで、今回のフランスによる非礼と傲慢な態度に対しては、我らドイツ民族はついに一つとなってこれに対抗することとなった。
スペインがジグマリンゲンのレオポルト公を王として迎えることは、プロシアが関知するところではない。しかし、フランス皇帝はこれをもって非礼なる行動に及び無理難題を押し付け、これを朕が断れば宣戦を布告するという行動に及んだ。これは歴史上でも前代未聞の暴挙である。
かつてナポレオン1世は兵を起こして近隣諸邦を蹂躙し、平和を大いに乱して功名に走り、戦いに明け暮れた。これによりドイツ民族は戦禍を被り、国土は荒廃し、その屈辱は未だ晴れてはいない。この敗戦の原因はドイツ諸邦が小邦分裂によって各個に戦い各個に敗れたためであった。
今日、この時の反省に立ったドイツ民族は、南北誓い合って一つとなった。ドイツは内も外も心を合わせ、上下大小の差をなくし、興廃の運命を共に歩むことを、力を合わせ進んで敵を打ち破ろうと決心した。
戦端が開かれればこれはドイツだけでなくフランスの人民も等しく苦しむところとなるが、フランス政府はそれを無視し、戦功を夢見て近隣友好を望むことなく、軍を挙げて戦いを挑んで来た。プロシア政府は屈辱に耐え戦争を回避しようと努めたがその願いは適うことがなかった。
南北のドイツ人よ。プロシア国王たる朕を扶助し、勇敢にして忠義と愛国を保ち、攻め、防ぎ、敵を後退させ、味方は進撃、武力と徳とをもってドイツ民族を発揚せよ。さすればドイツはフランスを打ち破り、ドイツの独立と統一を獲ることが適い、永くヨーロッパに安泰を招くことになるであろう」




