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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・動員と展開
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モルトケの作戦・フランス軍の編成

 モルトケはクラウゼヴィッツの「戦争論」を信奉していましたが、それは主として純粋な軍事戦略部分だった、と言えるでしょう。

 この普仏戦争における作戦を見ると、その思いが強く感じられます。


 モルトケが考えるクラウゼヴィッツ語るところの「政治の延長としての戦争」が目指す究極の目的は、敵の戦略意図を「完璧に」打ち砕くことにあり、「国家の道具」としての軍隊を「殲滅」し、敵の「政治中枢」である首都を占領することでクラウゼヴィッツ示す所の「戦争の三位一体」である「政治」と「暴力としての軍隊」を打ち破り、最後の「怒りとしての国民」を黙らせることが出来る、と考えたのでした。


 しかしそれはクラウゼヴィッツが戒めた「絶対戦争」、即ち国家が総力を挙げて敵の意図のみならず国そのものを滅ぼすことを目的とする「食うか食われるか」の戦いにつながる危険な思想でもあったのです。


 当然、モルトケもこの危険な「底なし沼」を理解しており、そのために一気果敢な「短期決戦」を重視した作戦を練りました。

 短期決戦では戦争の初期に敵主力を拘束して会戦を行い、一撃で決着を付け、進んで敵の首都を陥落させることを目指します。これにより敵の政府と軍は手痛い打撃を受けますが、国土や国民の犠牲は双方共に長期戦の比ではありません。

 また、ドイツは複数の敵を同時に相手するほどの国土も資源もありません。短期決戦はプロシア=ドイツのためでもありました。そのため、相手は常に「ひとり」、両面作戦を避けることも重視していました。

 この部分はプロシアの政治を担うビスマルクの哲学と一致しており、政府と軍部の乖離は、彼らの時代には発生することがありませんでした。


 これらは重大なことなので、この普仏戦争編の終段で再び考えてみたいと思います。


 さて、対フランスに動員した軍をどう動かすのか。モルトケ参謀総長は研究に研究を重ねました。過去の戦例は戦例として参考にするが、そこに定まった法則などない、とするモルトケは、自身の思考・自身の見たものを大切にする将軍でした。


 彼が平和な時期に行ったフランス対策で特筆すべきは「偵察活動」でした。モルトケは参謀本部の士官たちを「民間人旅行者」に扮装させ盛んにフランス旅行を行わせました。そこで士官たちは普段のフランス軍の状況や民間人の様子、政治志向や考え方などを観察し、特に仏独国境の地形と交通網の状態、街や要塞の様子、河川や橋、田園の様子などを調べ上げたのです。

 この貴重な情報は全てモルトケ配下の作戦部西方対策課の下に集められ、観察した士官たちも加わって検討されました。

 その結果が作戦に生きて来るのです。


 次に実際の作戦を練る時に問題となったのが「南部ドイツ諸侯」の態度でした。攻守同盟を結んでいるとは言え相手のフランスは大国であり、中立を宣言して日和見を決め込む可能性がありました。

 また、伝統的なプロシアとの対立関係と普墺戦争による「しこり」は完全に払拭されたとは言えません。


 そこでモルトケは全て作戦を二通り「南ドイツが敵となった場合」「南ドイツが味方となった場合」として考えたのです。


 更にモルトケは攻守同盟の会議と称して南部四ヶ国の軍事指導者をベルリンに呼び、なんと対フランス戦についての率直な意見と作戦を検討したのです。あまりにも率直で、また後ろに策士ビスマルクがいることを南部諸侯も知っているのでバイエルンやビュルテンブルクは疑心暗鬼だったと思います。しかし、モルトケは大真面目にこの信頼関係を築こうとしていました。それはビスマルクと同じ悲願の最終目的「南ドイツを含むドイツの統一」を念頭に置いてのことだったのでしょう。


 この会議によって南部諸侯はいざとなれば北ドイツ軍に参加するとの確証が得られますが、モルトケは更に念を押すかの様な考えを彼ら南部の軍人に披露するのです。

 最初にモルトケはフランス軍が採用することの出来るドイツ侵攻計画を二つ示し、それを「バーデン侵攻(南ルート案)」と「ベルギー侵攻(北ルート案)」としてそれぞれの解説を試みます。

 

 ……南ルート案はフランス軍が最も行いやすい作戦で、敵がラインを越えてバーデンに入った場合、貴殿ら南部諸侯はシュヴァルツヴァルトの山地に沿って防衛ラインを敷くことをお考えだろう。

 しかしこれはまずい作戦だ。なぜなら、この森林地帯は北ドイツが援軍を差し向けるのには遠距離であり、チューリンゲンから南方へは鉄道も少ないので北部からの補給が困難となるからだ。66年の戦争で我がマイン軍が南部へ進むに従って補給線が延びてしまい、速攻でバイエルン侵攻を行えず、フランクフルトへ目標を変えざるを得なかった前例を思い起こして欲しい。

 このため最善の策は、南北ドイツ軍が集中してプロシア領ザールとバイエルン領プファルツの地に至り、ここを拠点とすることである。この地より南部に侵攻した敵に対しライン川を右翼の守りとして南下、敵の左翼を側面攻撃、スイス方面に圧縮し叩くことが出来る。正面から寡兵で戦うよりも集中して側面を叩く方が有利なのはお分かりいただけるだろう。


 北ルート案はベルギーの中立をフランスが破る大胆な作戦だが、ナポレオン3世ならやりかねない。この場合敵はアントワープやブリュッセル方面よりベルギー軍の攻撃を受けねばならず、困難な作戦となる。しかし、それをはね除けてなおマース川を渡河し、ルクセンブルクを経てモーゼル川までやって来るとしたら厄介なこととなるだろう。この場合も敵正面であるケルン方面から対抗して西進するより、ザール=プファルツから北進しモーゼル川で敵と対した方が俄然有利であろう。なぜなら、敵は我が軍がザールから圧迫すれば南向するしかなく、ケルン方面からの別働隊により後方連絡線を脅かされ、パリからの連絡ルートを遮断される恐れもあるので、決戦に向かうしかなくなるのだ。

 このようにザール=プファルツを拠点とすることは合理的であり敵を御しやすいのである。万が一敵がスイスの中立を犯してから南部に侵攻しようと考えているのであれば、スイスは強力な民兵組織がある故に敵は多大な困難を背負うだけであり、我らはその結果を眺めていればよいだろう……


 こうしてモルトケは「ライン左岸」のザール=プファルツ地方に南北ドイツ軍を集中することで、フランスのどのような作戦にも対応可能である、と示し、南ドイツ諸侯の軍部を納得させました。

 しかしこの作戦には、南部諸侯に伝えられない裏事情がありました。バイエルンら諸候の軍属が帰った後、モルトケは参謀たちに作戦の真意を伝えます。


 ……先の二案があろうがなかろうが、私はフランス軍の今次作戦をこう読む。彼らはまず、その優秀な鉄道を利用して迅速な動員集中を謀ろうとするだろう。その場合、敵は大きく二つの集団に分かれるはずだ。

 集団軍のひとつはストラスブルク付近、いまひとつはメッツ周辺に集中するであろう。この内、メッツに集まる軍が主力となるはずだ。

 この集中の後に彼らは前進を開始し、ストラスブルクの軍はラインを渡りマイン川目指して突進し、我らドイツを南北に分断しようとするだろう。メッツの軍はザールへ突進し、ライン川までを占領する。ここまでが第一段階で、ここで南部ドイツ諸侯の懐柔に入り、甘い条件で占領を免除し味方に引き入れ、南部ドイツを補給策源地とするはずだ。こうして後方を固めた後に一気にエルベ河畔まで急進しようとするだろう。

 敵のエルベ突進を防ぐためには、やはりザール=プファルツの地において敵を拘束し決戦を挑むべきである。この地は防御だけでなく攻勢へ転移する場合に絶対に必要な土地でもある。プファルツ~ベルリン間は400キロ。同じくパリまでは370キロ余り。しかし我がプロシア領内は河川あり山岳ありで直線的な行軍は困難であり、逆にモーゼル川を越えることが出来ればパリまでは比較的平坦な丘陵と林が続くだけ。従って我らプロシアの有利は変わらない。

 ザール=プファルツの地に集中することで、ストラスブルクとメッツに分かれるフランス軍に対して我が軍は「内線」となり、内線作戦の要諦は「各個撃破」である。我らは敵の状況を見極め、どちらか非力な方を一気に攻撃し各個撃破をすべきだし、もし我らが敵よりも優勢な兵力であれば両面攻撃も可能なのだ……


 更にモルトケは敵の状況も読んでいます。


 ……敵はナポレオン1世の後、一部の動員を実施し外征を行ったことはあっても後備兵を含めた予備役の総動員を掛けたことはかつてない。

 敵は国土の鉄道網を完備しその車両数や輸送力も優秀、決して侮れぬものがあるが、既に総動員を経験し問題点を解決した我らに先んじて国境に十分な兵力を集中させることは困難であろう。敵としては速度を重視し野営地における兵の充足を待たずして平時編制のまま国境へ輸送するにしても、動員一週間後におよそ半分の15万を集中させるに過ぎないと考える。

 この時点では我が方も先鋒のみが国境に達する程度であろう。依然敵の方が優位ではある。

 しかしこの場合に陥った時には、我らはザール=プファルツの中央部を棄て、マインツ周辺の端末駅にて下車しこの地でライン川を背に態勢を整え敵を迎え討てばよい。

 ザールブリュッケン(国境の町)からマインツまでは戦闘行軍で六日間の行程であり、ここで動員2週間を迎える。ここまで長駆行軍を続ける敵がライン近辺に達する時、我が方の動員兵力集中はピークを迎えており、敵よりも上回る兵力がマインツ要塞を中心として展開出来ている。この差は日に日に拡大し、マインツで持久する間、動員18日目には我が方は30万を越え、敵に倍する数となる。

 この計算は敵が最も有利となった場合の計算が故に、実際は様々な困難が敵に襲いかかり、敵はもっと不利な状況で国境に向かうはずである。

 この点から、作戦はプファルツを中心に右翼をモーゼル川、左翼をバーデン領に置いて敵と相対し、先手を打てる場合は直ちに国境を越え、出来ぬ場合はプファルツで兵の充足を得るまで持久する、としたい……


 この素晴らしいモルトケの「読み」と作戦は、今まで「外線優位」「分進合撃」「包囲殲滅」を主張し得意として来た戦術とは性質を異とする「内線作戦」でした。ここに過去に影響されず先例を形式化しないモルトケの考え方が現れています。

 この普仏戦争序盤の作戦こそ、モルトケの用意周到、そして緻密な計算の上に立った彼の生涯最高の結晶と言えるでしょう。


 さて、これまで見て来たように、ドイツ側の作戦計画は全てプロシア参謀本部の立案と監修により細部まで練り上げられましたが、フランス側はどうだったのでしょう?


 この70年当時、フランス軍はプロシア率いる北ドイツとの迫る決戦を意識していたのでしょうが、実際に正式な作戦計画なるものが存在したかというと、そんなものはなかった、と結論せざるを得ない状況でした。

 もちろん、軍に影響力がある上級指揮官たちには腹案なり私案なりはありました。

 軍制改革を試みたアドルフ・ニール元帥は生前この対プロシア戦を「攻撃的な」作戦として計画し、その概要は「ティオンビル周辺から出撃しモーゼル川沿いに国境を越えザール地方・トリール方面へ侵攻、モーゼル川に沿ってコブレンツへ突進する」というものでした。

 しかしこの計画は軍の野戦軍指揮官たちから否定的に見られ、ニールの死後に葬り去られてしまいます。代わって取り上げられたのは有力な野戦指揮官であるバルテルミー・ルイ・ジョセフ・ルブリン中将(後の第12軍団指揮官)やシャルル・オーギュスト・フロッサール中将(開戦時第2軍団指揮官)らが提議していた「プロシア・ドイツから攻撃された場合の」防衛的な計画でした。

 フロッサールらの計画は単純明快で、「攻めて来た敵を国境付近にて阻止、機を見て反攻に転じる」という平凡なものでした。その「機」とはオーストリア=ハンガリー帝国の参戦で、普墺戦争で遺恨の残る老帝国は南部ドイツ諸候らを巻き込んで「報復の機会」を活かすであろうから、防御から侵攻へと転移したフランス軍主力は、バイエルン領プファルツから南ドイツを「友好的に」横断し、オーストリア=ハンガリー軍と合同し南部から北ドイツへ侵攻、ライン川に留まる後衛軍は折を見て東進する」というものでした。


 陸軍省は一応、この「最初に防衛・後に反攻」計画に基いて行動を起こします。

 しかし、70年の7月動員時におけるフランス軍の行動を見ると、「最初に防衛」ではなく「先手で攻勢」へと変わっているのが分かります。それも「軍は拙速を重んじる」という古来の軍事常識に則ったかのような急速な前線展開でした。


 その流れを追って見ると、「作戦目的」は「急ぎライン川を目指して進み、川自体が国境をなしている南部ライン(上流)ストラスブール付近から渡河、北ドイツと南部ドイツ四邦を分断、同盟を強いて北と対抗させるか局外中立を強いた後、第二段階として侵攻軍を左に転回、マイン川を渡河して小邦が固まるチューリンゲン地方から北ドイツへ侵攻し北ドイツ連邦軍を撃破する」ということとなります。正しくモルトケが読み切った作戦行動でした。


 この作戦自体はそんなに無謀でも悪いものでもありません。当初の計画にあった「オーストリア=ハンガリーの参戦」こそ望めない状況でしたが、南部諸侯の動きはポピュリズムに乗って一時的高揚から北ドイツ側との連携となったものです。民意は熱しやすく冷めやすいもので、もしフランス軍が急進撃を成功させ防衛する軍が敗退すれば、掌を返す事態も十分にあります。

 フランス軍が計画通りバーデンのカールスルーエから「黒い森」を越え、ビュルテンブルクのシュトゥットガルトを落としバイエルンに侵攻出来たのなら、南部諸侯は狼狽して防戦一方となり、北との合同に反対する勢力が盛り返して民意も反プロシアに傾く可能性もありました。


 この作戦のため、フランス陸軍は常備軍30万のうち20万の野戦軍を大小三つの軍に編成しました。

 マクマオン大将率いる6万の軍をストラスブール周辺のライン川沿いに集中させ、

 バゼーヌ大将の11万をメッス要塞周辺へ集中、

 カンロベル大将の3万を予備軍としてシャロンに待機させようとしました。

 

 こうして動員が落ち着き次第、敵の先手を打ってバセーヌ、マクマオンの両軍をストラスブール近郊で合流させ一気果敢にラインを渡河、カールスルーエ付近に橋頭堡を築こうとしたのです。

 また後方からカンロベル軍を前進させプファルツ=ザール方面からの北ドイツ軍の動きを牽制しつつ南ドイツへの侵攻軍左翼(北)を援護することとし、更に北ドイツを混乱に陥れるため、優越する海軍を活用、海兵や陸戦隊を使い北海沿岸を襲って敵の兵力を分散させようと計画しました。


 こう書き並べてみると実に「壮大で素晴らしい」作戦で、これがもしピタリ決まったのなら歴史はナポレオン3世を偉大な伯父や敵が誇るフリードリヒ大王と並び称したことでしょう。しかし、ここまでお読み頂いた読者のみなさんは、ヤレヤレと首を横に振るか肩を竦めることでしょう。


 この作戦を成功させるには一にも二にも、ある軍事要素が必須条件となります。それは「主動」と「速度」です。

 北ドイツの動員スピードを大きく上回り、かつ前線指揮官が自軍を完全に掌握してその衝撃突進力を維持しつつ敵を守勢に追い込むことが出来たなら、寡兵のフランス軍も勝利を得たものと思われます。


 モルトケもこの敵が「先手」を打った場合を想定し、その場合はザール=プファルツで持久し兵力充実を待って攻勢転移、と定めていました。

 実際にフランス軍では、なりふり構わず予備役を待たずして常備軍を先発させた部隊もあり、国境付近での兵力比がフランス優位となったことで、モルトケは作戦を「後の先」即ち「敵を受け止めた後で攻勢転移」としたために8月上旬の戦闘が発生したのでした(後述)。


 フランス動員時の計画戦闘序列は以下の通りです。


☆ライン軍 (戦闘員総計約22万人)

 司令官;ナポレオン3世皇帝(元帥)

 参謀総長・エドモンド・ルブーフ大将


 ○マクマオン軍(右翼)司令官・マリー・エドム・パトリス・モーリス・ド・マクマオン大将

 ・第1軍団/マクマオン大将直卒(四個師団等)

 ・第5軍団/ピエール・ルイ・シャルル・デ・ファイー中将(三個師団等)

 戦闘兵力約60,000人


 ○バゼーヌ軍(左翼)司令官・フランソワ・アシル・バゼーヌ大将

 ・第3軍団/バゼーヌ大将直卒(四個師団等)

 ・第2軍団/シャルル・オーギュスト・フロッサール中将指揮(三個師団等)

 ・第4軍団/ルイ・ルネ・ポール・ド・ラドミロー中将指揮(三個師団等)

 ・近衛(第8)軍団/シャルル・ドニ・ブルバキ中将指揮(二個師団等)

 戦闘兵力約110,000人


 ○カンロベル軍(予備)司令官・フランソワ・セルテーヌ・カンロベル大将

 ・第6軍団/カンロベル大将直卒(四個師団等)

 戦闘兵力33,700人


 ○南方予備(マクマオン軍予備)

 ・第7軍団/フェリクス・シャルル・ドゥエー中将指揮(三個師団等)

 戦闘兵力20,341人


 ○予備騎兵師団 (独立騎兵三個師団)

 ○予備砲兵軍団 司令官・コーヌ中将

 

 この他、スペインとの国境、ピレネー山脈の麓に一個師団を監視で残し、また治安秩序維持や政情不安に対応するため植民地のアルジェリア、イタリア・ローマ周辺の教皇領に治安部隊を、そしてパリやリヨンにも守備隊を残置しました。

 この後、皇后ウジェニーにせき立てられたナポレオン3世皇帝は、自らを元帥として出陣、陸軍大臣ル・ブーフ大将を参謀長とし、一人っ子の皇子|(ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト。当時14歳)を引き連れ前線(メッス要塞)に向かいました(7月28日)。


 皇帝が自ら出陣することで国民に帝国の意志強固・不退転の決意を見せ、南部ドイツに侵攻し、計画通り緒戦に勝利を得ることでデンマーク、オーストリア、イアリアなど中立で日和見を決め込んだ諸国を味方に付け、また攻略した南部ドイツを従えて北ドイツに対抗することで数的劣性を補おうと考えたのでした。

 しかし、これは全く見込みの薄い希望的観測というもので、フランス軍の「ドイツ侵攻作戦」は机上の空論に終わるのです。

 このことはナポレオン3世も心の奥底では分かっており、絶望と諦感を覚えていた様子で、宣戦布告(7月19日)の翌日、パリ在住で友人のイギリス人に「私は平和を望んでいたのに……フランスは私の政府から抜け落ちてしまった」と告げています。もちろん、友人の口からイギリス政府にナポレオン3世の様子が伝わり、フランスへの同情を呼び込もうとする策略でもあったのでしょうが、病気で気分の晴れない皇帝が嫌々前線に向かう様子もよく現れています。


 ナポレオン3世は世論の圧力の前に屈し、皇后や閣僚に担ぎ上げられ運命に流されるまま、東部国境に向かうしかなかったのでした。


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