フランスの軍備(四)
フランスの軍備を見て行く中で、どうもプロシアと比べて軍制面で劣っていること、国民の軍に対する支持が弱かったこと、政府に軍を近代的な運営へ刷新する力と理解が足りなかったことなどを大きな問題として取り上げてきました。
どうも戦う前から勝敗が分かり切っている状態に見えますが、それでもフランス軍は当時自他共に世界最強の軍のひとつと思われており、また、最強と思われた理由もありました。
その理由の最たるものは、強力な海軍、大陸軍の「伝統」、そして実戦慣れしている兵士たちにありました。
フランスはナポレオン1世以降も植民地獲得でアフリカ、アジアへ進出し、中米でも共和派反乱勢力と戦いました。通常の戦争もクリミア、イタリアで勝利し、負けと呼べるのはメキシコ(フランス側から見ればあくまで自主的撤退ですが)くらいです。その間、例の7年現役制度による予備役・後備なしの軍隊ですから、長く同じ部隊にいる兵士たちは実戦で鍛えられ、連隊は全員古参兵で、同期・戦友の絆は深いものがありました。
陸軍にはナポレオン以来の最強軍隊というプライドと自信があり、また戦う相手も密かに恐れを抱くのでした。政府の軍という目で見ていた国民も、いざプロシアと戦う段になればこの「ナポレオン軍」が負けるわけがない、という自信に満ちあふれていたのです。
しかしこのナポレオン1世時代の栄光は、その甥のナポレオン3世ばかりでなくその陸軍自体をも縛っていました。
中級士官以下は実戦で自ら覚えた自軍の長所・弱点をよく知り、それを次の戦いに生かすことに積極的でしたが、それ以上の高級士官たちは自軍の勝利に溺れ、欠陥を省みることをしませんでした。これは政府も全く一緒で、この伝統に奢ったことが後の悲劇最大の原因と言っても過言ではないでしょう。
それでも海軍と同じく、陸軍でも「技術力」のフランス軍は健在でした。しかも仏軍にはドイツ側にはない新兵器が存在していました。
まずは「シャスポー銃」で、後装ライフル銃として普墺戦争の年1866年に登場し、その性能はドイツ側ドライゼ小銃を凌駕する優秀な小銃でした。
それも当然、シャスポー銃はドライゼ銃を知ったフランスがそれを元に欠点を徹底的に研究し改良して完成させた小銃でした。
フランスはドライゼ銃のもっとも問題とされた欠陥を解決しました。
その問題とは、「ガス漏れ」です。
前装填銃の構造は、乱暴に言ってしまえば後ろ側が完全に塞がった一本のパイプで、このパイプの中に火薬を詰め、その前に鉄の玉を置き、火薬に火を点けることで玉をパイプの先から弾き飛ばす、ということです。
火を点けるには火薬が火に触れるための構造が必要ですが、前装填銃の場合、ほんの小さな穴をパイプの後方に開け、そこに火を点ける構造(火打ち石や火縄、後に雷管)を備え、火がこの小さく細い穴から火薬に飛び込んで火薬が燃えて爆発、鉄玉を前へと吹き飛ばすのです。
ですから、構造上穴は玉を入れたり出したりする前側以外、後にほんの針穴程度が開いているだけ、火薬の爆発したガスはほとんど前へと進んで玉を押し出す力となります。後ろの穴からもガスは飛び出しますが、この穴は小さいのでそこに顔を当てていない限り射手には影響がなく、また玉を押し出す力にも大した影響がありません。
これに対し、後装填式は両端が開いたパイプの後ろに閉鎖器と呼ばれる器具、乱暴に言えば「フタ」を付けた状態で、この「フタ」を開いて玉を入れフタを閉めます。玉自体にも工夫がしてあり、玉の後ろに火薬を詰めた紙の筒を付けてあります。このパイプには閉鎖器の他に撃発装置とよばれる火薬を点火させる発射装置が付いていて、これが引き金を引くことで作動して火薬に爆発するだけの「衝撃」を与えて火薬を爆発させ、玉を前に弾き飛ばすのです。
「衝撃」の与え方にもいろいろありますが、この当時方法として撃針と呼ばれる特殊な薬品を先端に塗った針を火薬の詰まった紙筒に突き刺し、その中に仕込んだ雷管(発火用の起爆薬)を突き刺すことで発火させる方法が取られていました。
この後装填の閉鎖器付き小銃はその構造上、後ろ側にも「隙間」がいろいろ出来てしまう欠点がありました。閉鎖器は爆発の衝撃に耐えなくてはならず、それは「針」の付いた発射装置もそうです。それだけでなく、パイプ(銃身)に組み合わせるので隙間なく取り付けたいところですが、技術上ピッタリ隙間なく合わせることが難しく、この隙間から火薬の発射ガスが漏れて発射の力を削ぐと共に、射手に高温のガスを浴びせさせ火傷させるという危険もあったのです。
ドライゼ銃はこの問題を構造上の工夫でガスを安全に前へ導く細工をして防ぎますが、ガス漏れを完全には防ぎ切れませんでした。そこで単純な解決策が採られます。ガスがどうしても漏れるなら火薬の量を少なくして漏れても危険がないようにしてしまえばいい……ということで、ドライゼ銃は火薬の量が少ない=弾を飛ばす力が弱い=射程が短く威力も弱い、となったのです。
火薬が少ないことを少しでも補うため、銃身をあんなに長くします。銃身が短く発射火薬が少ないと、弾は勢いが付けられずに銃身から飛び出す=初速が低いので、射程は短く、また真っ直ぐに飛んでくれない=命中率が低くなってしまうからです。
ドライゼ銃の改良品を参考に製作されたと言っても良いシャスポー銃は、このガス漏れ問題をほとんど解決してしまいます。「隙間」をなくすため部品にゴム製のパッキングを付けるというやり方で、これで発射火薬の量を多くすることが出来、ガス圧が高まるので弾の発射速度=初速が早くなり、勢いがあれば真っ直ぐに遠くまで飛ばすことが出来る=射程が延び命中率もよく威力もある、となったのです。これにより銃身もドライゼ銃ほど長くなくてもよくなり、取り扱いも楽になります。
当然ながら火薬や弾にも工夫があり、ドライゼ銃より口径を小さくする(弾丸を軽くすることにもなる)ことと強力な発射火薬を増やすことで、射程距離と命中精度はドライゼ銃を大幅に上回ることとなりました。
ドライゼ銃には他にも長い撃針が発射薬で腐食し折れやすく、戦場で交戦中でも交換しなくてはならない、という重大な欠点がありました。
これもシャスポー銃は改良し、薬莢の火薬の先に雷管を付けていたドライゼ銃の銃弾を、シャスポー銃では後ろへ取り付け、撃針を短くすることに成功します。これにより兵士が撃針を戦場で換えるなどと言うことは無くなりました。
結果、シャスポー銃は、口径15.4mm、初速280m/秒、射程560mのドライゼ銃に対し、口径11mm、初速420m/秒、射程1,100mという圧倒的な優位性を誇るのです。*
歩兵はこの銃の弾を90発携行するのを基本とし、予備の84発は輜重の銃砲段列が保管しました。
70年当時にはこの新式銃が100万丁も準備されており、工場からは月産3万丁が軍に納品されていました。従ってまともに戦えばドイツ側は、普墺戦争当時に前装ライフル銃であるローレンツ銃を使っていたオーストリア軍の苦難をそっくりそのまま味わうことになったはずでした。
しかし、残念なことに前述通りフランス側はマスケット銃などの前装小銃と同じ軍事操典をいまだに使っており、シャスポー銃の利点を理解せず歩兵を二列に並ばせて公互射撃を行わせる隊が続出し、逆に長射程の性能に頼り遮蔽物に身を隠しながらの射撃や塹壕からの射撃を多用したりと、いざ白兵戦となった場合に初動が遅れるなどの問題も発生しました。
また、シャスポー銃の弱点は発射火薬を内包する薬莢の作りが悪く、湿気に大変弱かったことがあげられます。これは当時の小銃に共通した弱点と言えましたが、中でもシャスポー銃は雨などで湿気ると不発が多く発生したと言います。
とはいうものの、全般の性能はシャスポー銃優位で変わらず、フランス歩兵はこのすばらしい銃を手に戦ったのでした。
そしてフランス軍には文字通りの新兵器、ミトライユーズ砲があったのです。
機関銃(マシンガン)とはまた別の連射銃として独自の発展をした多銃身斉射銃(バレーガン)として有名なこの「砲」を、フランス軍は開戦時に210門用意していました。これは砲兵士官だったナポレオン3世がぞっこん惚れ込んだ秘密兵器で、国家機密として厳重な管理下のもと限定した将兵にのみ訓練を施していました。
ところが秘密が過ぎたのか、この砲のことを知らない動員担当者がミトライユーズ砲の操作法を取得していた将兵を全く関係のない部隊に配属してしまう、という事態が続出し、逆にこの特殊な砲に不慣れな将兵がこれを扱うという理不尽が発生しました。
元来、ミトライユーズ砲はベルギー陸軍のファハンプ大尉が1851年に発明したもので、ベルギー軍はこれを改良し63年、開発した銃職人の名をとって「モンティニ・ミトライユーズ(モンティニの速射銃砲)」という名称で採用します。口径は11mmで37本の銃身を束ねたものでした。
フランス陸軍はこれを65年に秘密裏に輸入し更に強力に改良、これを66年に「ミトライユーズ」として正式化して部隊配備を始めました。
フランスのミトライユーズは13mm口径の銃身を25本束ね、引き金の代わりとなるハンドルを回すと推進火薬が爆発し25発の銃弾を連続発射、その初速は500m/秒とシャスポー小銃より速く、射程もなんと3,400m、有効射程も1,500から1,800m程度ありました。
ところがこの長射程は、ミトライユーズ砲の秘密の中でも最も極秘に当たるものとして操作する兵士にも伝えられないことが多く、更に前述の通り実際の戦場でこの砲を扱ったのがこの砲を初めて見る砲兵たちだったものですから、その形状から単に小銃を束ねたものと思いこんだ砲兵たちは、本来なら小銃の射程ぎりぎりから「戦列」歩兵を「なぎ倒す」はずだったこの「砲」を、小銃の有効射程である五百メートル内外という短距離で使用することが多発、もったいないことに敵の大砲により撃破されたり、騎兵や歩兵の突撃で制圧されたりするケースが続出してしまいます。
もっともミトライユーズ砲自体も過渡期の兵器にありがちな欠点があり、中でも目立った欠陥として、余りにも小銃弾の直進性が優れていたため、有効射程まで飛んでも弾丸が拡散せず、広範囲に被害を及ぼすことが出来なかった、ということがあります。重量も砲架を入れて900kgに近く、20世紀の機関銃のように撃ちながら振り回すことはほとんど不可能でした。
つまりは密集した敵に対し発射しても、集中し過ぎる銃弾は千m先のたった一人の敵に十数発も当ってしまい、逆に周辺の敵は無傷だった、というケースもあったようで、面を制圧する後世の機関銃とは性格を別としていたのです。
ミトライユーズと砲兵
このミトライユーズ砲やシャスポー小銃がライバルの小銃や新しい兵器に対する偏見に打ち勝って採用された裏には、ナポレオン3世の尽力がありました。
皇帝はシャスポー小銃の増産と配備を急がせ、66年の正式化からわずか2、3年でほとんど全ての歩兵連隊がこの新式銃を手に入れ、戦争に突入しました。あのドライゼ銃が開発から二十年以上掛けて全軍に行き渡ったことを考えると、これは皇帝の強権がなければ不可能だったことです。
また、当初は海のものとも山のものとも分からなかったミトライユーズ砲の開発を促進し、隙あらば軍備予算を削減しようとする下院がついにこの新兵器の開発費捻出を否決した後(シャスポー銃製造に予算を使い切ったから、との説もあります)、ナポレオン3世は自らの宮廷公費から支出させたのでした。
フランス軍の軍備の最後に騎兵と砲兵を見てみましょう。
フランスの騎兵はプロシア軍に劣らず勇猛果敢が売り物で、栄光のナポレオン戦争ではここぞというタイミングでの一糸乱れぬ突撃で敵の翼側を攻撃、騎兵を蹴散らし歩兵の縦列を粉砕したものでした。
それは普仏戦争当時も変わらず、フランス騎兵のパレードは華麗で勇壮な見せ物でしたが、一方その実体は実戦慣れしておらず、集団での突撃や対騎兵戦は見事に訓練されていましたが、この時代の騎兵が一番活躍する場面である偵察や長距離連絡など少数独立した任務には不慣れであり、この点は普軍の騎兵に劣りました。
しかも騎兵はこの集団運用の戦術重視によってこの時代も騎兵部隊単体で存在し、プロシア軍と違って歩兵師団には配属されませんでした。従って偵察任務や敵地浸透などが必要となった場合、その都度歩兵部隊に出向したため命令が行き届かず、また余りにも集団運用に慣れた騎兵には個々人による自主独立の気運もなかったので、行動は全て命令を待ってから、という後手後手に回ることが常となってしまうのです。
砲兵にも問題がありました。
フランス軍砲兵は現皇帝の伯父ナポレオン1世が本来砲兵士官だったため、革命戦争からナポレオン戦争にかけて重用され、栄光の戦場で数々の偉業を打ち立てていました。
この伝統を引き継いだナポレオン3世は、伯父に倣って砲兵士官となり、皇帝になって後は先のミトライユーズ砲を配備するなど砲兵を優遇していました。
ところが、普墺戦争を研究し尽くしたはずの部隊は、何故か20年以上前の発明品である前装填旋条砲の「ライット・システム青銅砲」を主力兵器としていたのです。
ライット・システム砲とは、旋条を刻んだ砲身に対し丸い円盤状の「瘤」が付いた砲弾を発射するタイプの「ガイド付き」大砲のことです。
発射は、装薬(発射火薬)を先に砲口から奥へ押し込み、次に瘤の付いた砲弾を砲口に填め、この瘤が旋条にピタリはまって回転しながら奥まで押し込まれます。この状態で装薬を発火させると、砲弾は旋条をガイドとして回転、直進性を与えられて飛んで行くのです。
しかし慣れ親しんでいるとは言え、これは北ドイツ軍が標準化している鋼鉄製後装旋条砲の「クルップ砲」とは格段の差がある旧式砲でした。ちょうどドライゼ銃を使う北ドイツ軍とシャスポー銃を使うフランス軍の関係の反対で、これは普仏戦争に大いに影響することとなります。
フランス軍はこのライット砲を3,800門、先のミトライユーズ砲を200門、12ポンド・ナポレオン砲などの旧式前装滑腔青銅砲を5,400門持っていましたが、常備軍の数からしてこれをフルに活用する事が出来ず、普仏戦争ではわずか1,000門前後が使用されたに過ぎませんでした。
先述の通り、砲兵はナポレオン3世から優遇され、指揮官も優秀な人材を優先配置され人員も最高の者たちが送られていました。
また工兵も伝統的に大切にされていた兵科でしたが、それは逆に歩兵科の士官が相対的に劣っていたことの証左に他なりません。
また、フランス軍で輜重や輸送が重視されたことは、ナポレオン1世に仕え「戦争概論」を記したアンリ・ジョミニがあれほど兵站の重要性を訴えたにも関わらず、ナポレオン戦争以降ついにありませんでした。
ナポレオン3世が1870年7月にプロシアやその他ドイツ諸侯に対抗させ国境に送ったフランス軍は、その相手に対して訓練、指揮官、戦術、軍備、インフラ全てに劣っており、そして何より敵の半数しか戦闘員を確保出来ませんでした。
それでも幾多の戦争をくぐり抜けた「大陸軍」は自国民から戦上手と確信されており、また自分たちもドイツ人如きに破れるなど露ほども思ってはいませんでした。
現実を見ずに根拠無く敵を軽んじ、自らの欠陥に目を瞑り、自尊心ばかり高く、武器の優位に依存して訓練は十分でなく、また戦術は時代に追従出来ず……プロシアの士官はみな質実剛健、軍の運用に長け、参謀本部が示す実戦的な戦略を理解していたのに比べ、フランスの士官は戦術の研鑽を怠り、格好ばかりを気にして時代の流れを無視し、部下の下士官を苛め、社交界で貴婦人に色目を使うのでした。
また、フランス軍の参謀士官と実戦士官とは互いに馬が合わず、参謀は実戦部隊に理解がなく、実戦士官は大局や戦略を理解しようとせず、互いを貶しあっていたのです。
これは昭和の日本帝国陸軍ではなくフランス帝国軍の話です。
余談ですがこの話を記しながら、余りにも昭和の日本軍に近いフランス軍に改めて驚き、そして普仏戦争を徹底的に調べ上げ、フランスの敗因を学んだであろう日本の秀才参謀たちに改めて怒りを覚えました。
いずれにせよ、このような状態のフランス陸軍が準備万端のプロシア・北ドイツ軍に向かって行くのです。
『彼を知り己を知れば百戦して殆うからず』
孫子の言葉です。
『彼を知らず己を知らずは百戦して殆うい』
逆もまた真なり……1870年のフランス軍は必敗だったのかもしれません。
ドイツとフランスが普仏戦争に使用した主要兵器の諸元
大砲
ドイツ軍
○4 Pfünder Feldkanone C/67 4ポンド野砲C/67(クルップ社製/後装填旋条砲身鋼鉄製)
口径・7.85cm 砲身長・1.935m 砲身重量・301.5kg 砲車重量・785.5kg 接続砲車重量・1572kg 携行弾数・49発 曳馬数・6頭 砲手数・5名 榴弾/炸薬量・166.6g 榴弾/弾量・4.34kg 榴散弾/子弾数・90個 榴散弾/弾量・4.6kg 散弾/子弾数・48個 散弾/弾量・3.75kg 初速(榴弾)341m/sec 最大射程・榴弾3,800m榴散弾2,200m 散弾400m
○6 Pfünder Feldkanone C/64 6ポンド野砲C/64(クルップ社製/後装填旋条砲身鋼鉄製)
口径・9.16cm 砲身長・2.04m 砲身重量・432.5kg 砲車重量・1018.5kg 接続砲車重量・1835kg 携行弾数・34発 曳馬数・6頭 砲手数・5名 榴弾/炸薬量・250g 榴弾/弾量・6.9kg 榴散弾/子弾数・180個 榴散弾/弾量・7.33kg 散弾/子弾数・41個 散弾/弾量・5.25kg 初速(榴弾)323m/sec 最大射程・榴弾3,800m 榴散弾2,200m 散弾400m
※バイエルン軍・ビュルテンブルク軍は独自の4ポンド・6ポンド・9ポンド砲を使用した。
フランス軍
○Canon de 4 rayé de campagne modèle 1859, La Hitte ライット・システム4ポンド野砲(前装填旋条砲身青銅製)
口径・8.65cm 砲身長・1.43m 砲身重量・330kg 砲車重量・728kg 接続砲車重量・1272kg 携行弾数・44発 曳馬数・4頭 砲手数・4名 榴弾/炸薬量・200g 榴弾/弾量・4.335kg 榴散弾/子弾数・85個 榴散弾/弾量・4.718kg 散弾/子弾数・41個 散弾/弾量・4.725kg 初速(榴弾)325m/sec 最大射程・榴弾3,160m榴散弾1,500m 散弾600m
○Canon de 12 rayé de campagne modèle 1859, La Hitte ライット・システム12ポンド野砲(前装填旋条砲身青銅製)
口径・12.13cm 砲身長・2.29m 砲身重量・610kg 砲車重量・1189kg 接続砲車重量・1937kg 携行弾数・18発 曳馬数・6頭 砲手数・3名 榴弾/炸薬量・500g 榴弾/弾量・11. 5kg 榴散弾/子弾数・150個 榴散弾/弾量・17.9kg 散弾/子弾数・98個 散弾/弾量・11.22kg 初速(榴弾)307m/sec 最大射程・不明
○Canon de 8 modèle 1828, Valée ヴァレ・システム8ポンド野砲(前装填滑腔砲身青銅製)
口径・10.61cm 砲身長・1.84m 砲身重量・575kg 接続砲車重量・1830kg 携行弾数・24発 曳馬数・6頭 砲手数・6名 榴弾/炸薬量・410g 榴弾/弾量・7. 36kg 榴散弾/子弾数・140個 榴散弾/弾量・8.75kg 散弾/子弾数・70個 散弾/弾量・8.1kg 初速(榴弾)不明 最大射程・榴弾4,060m榴散弾1,880m 散弾600m
※他にCanon obusier de campagne de 12 cm, modèle 1853(いわゆる12ポンドナポレオン砲)も常備されていた。
☆小銃
ドイツ軍
○Dreyse M-41 『ドライゼ銃』(後装撃針ボルトアクション式)
口径・15.43cm 銃身長・91cm 全長・142cm 重量・5.083kg 薬莢重量・40g 薬莢長・53mm 弾丸重量・31g 弾丸長・28.5mm 装薬量・4.85g 初速285m/sec 有効射程・562m
※バイエルン軍は前装旋条銃を後装に改造したWerder小銃を使用した。
フランス軍
○Chossepot M-66 『シャスポー銃』(後装撃針ボルトアクション式)
口径・11cm 銃身長・79.5cm 全長・131cm 重量・4.05kg 薬莢重量・31.8g 薬莢長・68mm 弾丸重量・25g 弾丸長・24.6mm 装薬量・5.5g 初速420m/sec 有効射程・1,100m




