表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
Eine Ouvertüre(序曲)
12/534

第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争/ヴランゲル元帥の暴走


☆オイーヴァセ(ザンケルマルク)の戦い(1864年2月6日)


 デ・メザ将軍の英断でダネヴェルクの防衛線からフレンスブルク方面へ撤退したD軍ですが、独軍がこの撤退に気付いた時には撤退開始から8時間が経過していました。

 前述通り午前4時頃撤退に気付いた墺軍ですが、ガブレンツ将軍は直ちに追撃を命じたものの、慎重な前線指揮官たちが実際に動き出したのは、ダネヴェルクの堡塁群に到着した偵察隊が「もぬけの殻」と報告し、シュレスヴィヒ市に進駐した大隊から「市街に敵なし」の報告を受領した後になってしまいます。

 従って墺軍の追撃先鋒がD軍の殿に追い付き本格的な戦闘に至った場所は、シュレスヴィヒ市の北北西22.5キロにあり、もう9キロ北上すればフレンスブルクに至るオイーヴァセ付近でフレンスブルクへの街道沿いにあったザンケルマルカー湖畔(オイーヴァセの北1キロ)となってしまいました。


 墺軍は前述通り戦列歩兵第6連隊がシュレスヴィヒ市を占領した後、連隊の偵察隊が北上してD軍の撤退の痕跡を探り、その撤退方向を調べました。「敵はフレンスブルクへの街道を北上した模様」との報告を受けて追撃に出立したのは、ノスティッツ旅団の猟兵第9「シュタイアーマルク」大隊と戦列歩兵第27「ベルギー国王」連隊、そしてリヒテンシュタイン驃騎兵連隊の数個中隊で、第27連隊長の公爵ヴィルヘルム・ニコラウス・ヴュルテンベルク大佐が率いていました。


挿絵(By みてみん)

ヴュルテンベルク大佐


 墺軍驃騎兵は前回の戦争で激戦地となったイトシュテット(シュレスヴィヒ市の北9キロ)を過ぎるとその先のヘリクベク(イトシュテットの北西3.3キロ)で初めてD軍を発見します。これはシュレスヴィヒ市の東から最後に撤退を始めたD第8旅団の最後尾部隊で、殆ど同時に相手を視認した両軍部隊は短時間の銃撃戦を行った後、D軍側が戦闘を打ち切り北上を再開しました。


 軽装備のため数と武装に劣っていた墺軍驃騎兵隊はこれ以上無理をせず追跡するだけに止めますが、正午頃に追撃へ駆り出された野砲小隊が驃騎兵に追いついたため、墺驃騎兵隊はD殿軍を攻撃することに決し、鬨を上げた墺軍騎兵は直後に方陣を作って防戦するD軍歩兵に突撃するのです。しかしD軍は落ち着いてこの攻撃を裁き、墺軍騎兵は損害を受けて後退しました。その直後、準備のなった墺軍砲兵は方陣を狙って砲撃し、D軍も損害を受けて四散してしまいます。ここで態勢を整えた墺驃騎兵が再びD軍に襲いかかり、D軍が応戦するという戦闘が繰り返されるのです。

 この戦闘はD軍が撤退しつつ北上しながら断続し、やがてザンケルマルカー湖の東側に広がる森の前面に至りました。

 ここには追撃戦闘で同僚第8旅団が苦戦していることを知ったD第7旅団が展開し待機していたのです。


 戦い疲れたD第8旅団後衛は、本隊が同僚第7旅団が展開する森を越えるまで墺軍と戦い続け、やがてD第7旅団に収容されます。戦闘はそのままD第7旅団が引き継いだのです。


 D第1連隊とD第11連隊から編成されたD第7旅団は旅団長カール・マックス・ミュラー大佐に率いられ、ダネヴェルクから暗闇の中静粛行軍に入ると、オイーヴァセ付近で一足先にフレンスブルクに至ったデ・メザ将軍の本営から「追撃する墺軍を迎撃・阻止してD野戦軍の後退行軍を援護・収容するよう」命じられます。

 ミュラー大佐は麾下2個連隊をオイーヴァセの北、フレンスブルク街道がザンケルマルカー湖とその東側高地森に狭まった小高い峠道に布陣させ、疲弊した同僚が続々と街道を抜けてフレンスブルク方面へ消えて行くのを見送りました。

 ミュラー大佐はD第8旅団から敵の対応を引き継いだ時、部下にこう呟いたとされます。


「敵を待ち受けるまでもない。こちらから攻撃に出よう」


挿絵(By みてみん)

ザンケルマルカーのミュラー大佐


 それはD後衛を追い続け、ようやく追いついて展開し始めていた墺軍のフォン・ヴュルテンベルク大佐たちも同じ思いでした。お互いに積極的攻撃を欲したこの戦闘は、極寒の白い森を背景に鮮血が凍結した大地に血溜まる短くも凄惨な戦闘になります。


 ミュラー大佐は湖の直前、東側から高地森が迫る街道を挟んだ狭い場所に第1連隊を展開させ、その200~300m後方の森林内に第11連隊を展開・待機させました。

 墺軍は午後3時30分、このD軍第1連隊の前線に向かって砲撃を行い、戦闘が開始されます。砲撃が止むと間を置かず墺驃騎兵が襲撃隊形でD軍散兵線に突撃を敢行しますが、D第1連隊は中隊毎に急ぎ方陣を作って突進する騎馬群に射撃を集中し、そのため墺軍驃騎兵は大損害を受けて撤退し、二度と戦場に現れることはありませんでした。戦闘はそのまま墺軍歩兵に引き継がれたのです。

 ミュラー大佐もヴュルテンベルク大佐も強気に兵を繰り出し、両軍とも断続的に銃剣突撃を敢行しますが、その都度防御に回った側から激しい銃撃を浴びて互いに失敗を繰り返してしまいます。

 D第1連隊は前述通りザンケマルカー湖を背後に文字通りの背水の陣で展開していました。地勢はD軍に有利でミュラー大佐の能力が窺えますが、ヴュルテンベルク大佐が後方から増援を呼び寄せると、幾度と知れない突撃の最後にこれまでで最大の突撃が敢行され、D軍の前線は突破されて白兵に及びました。当時は方々で凍結した湖沼が見られたものでしたが、ザンケルマルカー湖は未だ凍結していなかったため、D第1連隊の退路は街道の東、北東側の森しかありませんでした。しかしこれは墺軍も一緒で、散兵線の左翼(東)を突破されたD連隊は湖を背に包囲され掛かり、D軍将兵は白兵戦を行いつつ何とか東側へ脱出を試みましたが、最右翼(西)で戦っていた中隊は孤立してしまい多くが捕虜となってしまいます。両軍ともこの白兵戦で命を落とした者が多かったと伝わります。


挿絵(By みてみん)

ザンケルマルカー湖畔の死闘


 ミュラー大佐は第1連隊の前線が突破された時、森の中で待機していた第11連隊に反撃を命じました。

 同連隊は墺軍が森に入り込んだ時に突進して接近戦を開始し、それは短時間で激しい白兵戦となりました。この夕闇迫り暗い森の中でもわずかな時間でしたが凄惨な戦闘となります。森は互いの銃撃でたちまち刺激臭が目に痛い硝煙が濃く漂い、それは氷点下の寒気で中々消えず、まるで霧中のようになります。戦いは前述通り5分前後で終了し、頃合いを見たD軍は一斉に後退しました。ヴュルテンベルク大佐は逃げるD軍を森を抜けたビルシャウ部落(ザンケルマルカー湖東端の北1キロ)まで追いますが、ここで周囲は完全に夜陰に沈んだため戦闘は中止されました(午後5時)。


挿絵(By みてみん)

ミュラー


 僅か1時間半余りの戦闘で、墺軍は28名の士官と403名の下士官兵に損害が発生(D軍の戦記では戦死95名・負傷311名・捕虜27名)し、負傷者の一人はヴュルテンベルク大佐でした。D軍では前線で督戦中負傷したスタインマン師団長を含む18名の士官と944名の下士官兵が損害を受けました(同じく戦死53名・負傷157名・捕虜763名)。


 この戦闘はD軍が主力を無事に第二戦線へ退かせることに成功した一因として賞賛されるもので、墺軍側はD軍が後退したことで勝利を得たと喜びましたが、今日ではD軍に時間的猶予を与えた「墺軍の戦術的勝利・D軍の戦略的勝利」と言われています。

 確かにミュラー大佐らの奮戦により貴重な時間を稼いだD軍主力はデュッペル堡塁群や更に北方フレゼレシア方面へ退いてしまい、これは普軍モルトケ参謀総長が最も恐れていた事態でした。


 この戦いでは「世界初」と言われる出来事も起きました。それはオイーヴァセの老舗宿屋に開設された野戦病院で、ここに本格的な戦争では初めて赤十字旗が翻ったのでした。

 この野戦病院は墺軍の第1野戦病院隊が開設し、宿屋は「ヒストリッシャー・クルーグ」(直訳すれば歴史的な水差し)といい、14世紀から記録に残るという居酒屋兼旅荘で、前回の戦争でも負傷者を収容していました。この時、フレンスブルクから誕生して間もないデンマーク赤十字社から赤十字の腕章を付けたボランティアが駆け付け、近隣住民の手も借りて墺軍軍医や看護手を手伝い、敵味方関係なく負傷者の手当を行ったのでした。


挿絵(By みてみん)

オイーヴァセの戦い記念碑


☆ カール王子軍団のシュライ渡渉(1864年2月6日)


 ミスズンデの戦いの結果、シュライ・フィヨルドを渡ることが出来なかった普軍は別の方法を探るため直ちに斥候を各地に放ちますが、やがて報告を吟味したカール王子はヴランゲル元帥に許可を取るとシュライ・フィヨルドがバルト海につながるカッペルン(ミスズンデの北東20キロ)目指して主力を北上させました。カール王子はシュライを渡るにはフィヨルドが最も狭まり海に近いため凍結もしていないこの場所しかない、と考えたのでした。

 しかしD軍がこの行動に気付けば妨害するに決まっており、カール王子は迂回作戦を偽装し、墺軍との間を突かれぬようにするためミスズンデ前面の高台に2個旅団の歩兵と砲兵とを残し、2月3日以降も緩慢な砲撃を続けさせるとともに夜には無数の焚き火が現れ、D軍に軍団規模の部隊が野営していると思わせるのです。 


 この2月3日に発生した墺軍とD軍の衝突「ケーニヒス・ヒューゲルの戦い」は独軍に「重大な勝利」として認識され、本営では祝杯を挙げゴンドルクール旅団は「鉄旅団」との異名を捧げられ賞賛されますが、その大きな損失(旅団規模5,000名中432名。損失率約9%)は独軍の今後の作戦に微妙な影響を与えました。ヴランゲル元帥の本営では積極攻勢に対し慎重な意見が交わされ、本営と普墺双方の軍団間による意見交換(4日)では作戦計画変更が真剣に検討されました。

 それによると、3日まではダネヴェルク堡塁群への攻撃はゼルク~ヤーグの戦線が確保された翌日から開始される、とされていたところ、墺軍の損害が予想以上に大きく、直ぐには砲撃を開始出来ないことがガブレンツ将軍から報告されました。このためヴランゲル元帥の本営はカール王子の普軍団による「敵左翼への側面攻撃」とガブレンツ将軍の普墺混成軍団による正面攻撃を同時進行させることが決定され、カール王子には改めて「シュライ・フィヨルドを渡渉可能な地点からの速やかな前進」が命じられたのでした。


 しかし、これはモルトケ率いる普参謀本部が計画していた作戦から大きく逸脱するもので、そもそもモルトケはダネヴェルクを正面から攻撃することを計画しておらず、そこには敵を拘束するだけの兵力を残し、独軍左翼(墺軍団と普近衛師団)はもっと左翼(西)側へ進撃しフリードリヒシュタットの東側で行軍不可能と思われていた湿地帯(モルトケは凍結していることを予測していたはずです)を越え、フースム(シュレスヴィヒ市の西33.5キロ)方面から北上しD軍主力を迂回・片翼から包囲を謀る作戦だったはずです。カール王子の軍団も時間を掛けずにシュライを渡りフレンスブルクへ突進して敵がセナボー方面(デュッペル堡塁)へ逃げ込むのを阻止する計画でした。カール王子軍団はシュライの渡渉で大きな損害を受けるはずですが、ここは損害を恐れず突進し敵の後退路を塞いでしまえば、敵の第二防衛線(デュッペル堡塁)で受けるはずの損害より相当少ない犠牲で戦争に勝利出来ると踏んだのです。

 つまりこの時点まで(開戦から4日目)にモルトケの考えていた作戦は反故にされたのでした。


 カール王子の本隊は3日から4日にかけてシュライの南方を北上し、折からの吹雪と霧の中でD軍に悟られることなくアルニス(カッペルンの南3.2キロ)からカッペルンに掛けての対岸に進み、ここで森の中に隠遁します。

 カール王子はアルニスの対岸から工兵によって架橋させ、更に北のエレンベルク(カッペルンの対岸・東へ800m)からドトマルク(同南郊外)に向けては手漕ぎボートによって渡渉しようと考えました。このボートは遥々キールやエッカーンフェルデで徴発し運ばれて来た釣り船でした。渡渉の援護は砲兵がカッペルン市街を砲撃出来るよう砲台設置も計画されます。


 実際の渡渉は2月6日の午前4時、第11旅団をエレンベルクからボートで先行させカッペルンに渡し、第12旅団が第11旅団のカッペルン占領を見るか増援を要請された時に同じくボートを使って後続することが決定されます。

 この渡渉の指揮は両旅団を束ねる第6師団長のフォン・マンシュタイン中将が執り、渡渉前に師団は工兵第7「ヴェストファーレン」大隊を加えてシュライ湾口のシュライウーファー(カッペルンの東5.5キロ)までを制圧し5キロ四方の橋頭堡を確保する計画でした。

 同時進行でアルニスに向け工兵第3「ブランデンブルク」大隊が浮橋を架けることとなります。


 この渡渉作戦を援護する砲台は4ヶ所に造られました。


◯エレンベルクとエレンベルガー・ホルツ(エレンベルクの北1.5キロに広がる森。現存します)の間・シュライ沿岸

 12ポンド青銅製前装滑腔カノン砲

◯ロイトマルク付近(エレンベルクの南500m)

 12ポンド青銅製前装滑腔カノン砲

◯コッパービー(カッペルンの南2.5キロ)の南・アルニスの対岸

 クルップ鋼鉄製6ポンド後装施条野砲

◯シュヴォンスブルク(アルニスの南750m)付近

 12ポンド青銅製前装滑腔榴弾砲


 6月5日の夜、独軍の野営では零下を相当下回る極寒の中、敵に発見されるため焚火で暖を取ることも出来ず声も発することなく、それは偶然にも司令官と同名のカールスベルク城館(アルニスの南東1.9キロにあるデンマーク王家グリュックスブルク家所有の領主の館。現存します)の本営でも同様、ランプの灯火さえありませんでした。

 ところが午後9時、地元住民の一人がマンシュタイン将軍の前哨の下に現れ、「D軍将兵が対岸から撤退した」と注進しました。確かにこの辺りの住人はドイツ語話者で、独連邦や独人に友好的でしたが完全に信用出来るかと言えばそうでもなく、指揮官たちが迷っていると「それでは私が」とヴェストファーレン大隊の一工兵軍曹が偵察に出ることを申し出、許可されると軍曹は闇に紛れて一人手漕ぎボートでシュライを渡るとドトマルクの丘へ接近、そこでD軍の砲台を発見すると大胆にも大砲の脇まで進み、砲台は無人で大砲の火門には大釘が差し込まれているのを発見したのでした。


 工兵軍曹の報告を受けたカール王子は午前3時、諸隊に焚火を許可し工兵第7大隊に対して直ちに軍用浮橋を設置するよう命じました。

 ヴェストファーレンの工兵たちは250mの浮橋を2時間30分で完成させましたが、D軍から一切妨害を受けなかった代わりに浮氷と海から吹き付ける強い北東風に苦しめられました。

 シュライ・フィヨルドは凍結こそしていませんでしたが薄い氷と海から来た流氷が浮橋の両側を埋め始め、工兵たちは浮橋を撤収する際、流氷を押し退けると言う苦行を強いられるのです。幸いだったのは架橋作業が行われていた6日の朝にはD軍(第1師団の一部)がとっくに去っていた事で、もしアルニスにD軍が居座っていた場合、普軍工兵は全滅を覚悟して銃砲撃の下、架橋する羽目になっていた所でした。


挿絵(By みてみん)

シュライの渡渉・指揮を執るカール王子


 この日一日で約26,000名の普軍将兵がシュライを渡渉しアルニスやカッペルンへ渡りました。アルニスの浮橋だけでなくエレンベルクでは予定通り手漕ぎボートも使われ、ここでも邪魔されることなく大した支障もなく将兵は無事に対岸へ達しました。結局普軍砲兵は一発も発射することなく砲台を撤収しています。

 シュライの渡渉は午前9時45分から午後4時30分までおよそ8時間掛かりました。

 この作戦実行中にヴランゲル元帥は、D軍が密かに前線を離脱し6日午前1時頃にはシュレスヴィヒ市やミスズンデからも消えていた、との報告を受けました。これにより、わざわざ迂回したカール王子たちの努力も殆ど時間の無駄になってしまいます。

 しかしシュライ沿岸の住民たちの喜びは大きく、カール王子麾下の将兵は手放しで歓迎され、アルニスの部落では貴重な備蓄食料(ベーコンだったと言います)が住民自らの手で根こそぎ回収され、全て普軍に手渡されたと伝わります。


☆ シュレスヴィヒの完全全域占領とユトランド州への侵入(1864年2月7日から2月17日)


 ダネヴェルクから後退したD軍はフレンスブルクに留まることなくこの地から二手に分かれ、主力は東・デュッペル堡塁群と僅か180mの海峡を隔てたアルス島セナボー市へ、残りは北上を続けオベンローを経てコリングへ向かい後退を続けます。

 これを追った墺軍と普軍は2月7日に無血でフレンスブルクを占領すると、今後の方針に付き、普墺両軍首脳が本営に集まり会合を開きました。


 この7日、D軍主力はデュッペル堡塁群に到達しており、当初から堡塁群攻撃に反対していたモルトケ参謀総長はローン陸軍大臣の許しを得て急遽フレンスブルクに駆け付けてヴランゲル元帥の下を訪ね、状況を確認しました。

 モルトケの当初の作戦計画には、シュレスヴィヒ北部からデンマーク本国のユトランド州東部へ侵入し、コリングからフレゼレシアまでを占領する部分があり、シュレスヴィヒ公国から更にデンマーク本国に侵入すれば英・仏・露やスウェーデンを刺激するとして、ビスマルクを始めとする普王国政府や墺皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が反対し、この作戦案は「お蔵入り」になっていました。モルトケは、コペンハーゲンへの「入口」となるフュン島の「玄関」・フレゼレシアを押さえることで、デンマーク国民に動揺と厭戦気分を惹起させることが出来、更にデュッペル堡塁群に引き籠る前にD軍主力を包囲することが出来れば戦争に勝利する、と考えていたのです。

 しかし現実にはD軍主力がデュッペル堡塁群に籠もってしまい、モルトケはこうなってしまった以上デュッペル堡塁群は監視に留め、ユトランド州に侵攻して半島全域を占領し、デンマーク本国を島部だけに孤立させることで敵の戦意喪失を謀るしかない、と考え始めます。これはデュッペル堡塁群のD軍主力を「遊軍化」させることにもなる作戦案でした。

 この後の展開を見ると、この時モルトケはこの腹案をヴランゲルに明かしたのかも知れません。


 しかしヴランゲル元帥はシュレスヴィヒ全域の占領と同時にデュッペル堡塁群の攻略も志しており、2月10日、カール王子の軍団にデュッペル攻囲を命じ、シュレスヴィヒの占領はガブレンツ将軍の墺軍と普混成近衛師団に任せるとの命令を発するのです。


 この2月中旬、独軍が直ぐに攻撃を仕掛けなかったため、D軍主力はデュッペルからアルス島のセナボーに掛けて展開し、出来る限り防御力を高めるための準備を進めました。

 デーン人が殆どを占めるシュレスヴィヒ北部とユトランド州の防衛は、カイ・デトレフ・ヘーガーマン=リンデンクローネ中将が率いる第4師団が行うこととなりますが、この師団は二線級部隊の集合体で、既に北部シュレスヴィヒからユトランド州へ退避しフレデレシア方面にあったため、ガブレンツ将軍は殆ど抵抗無しで2月17日までに東部海岸線を除くシュレスヴィヒ全域の占領を完了するのでした。


挿絵(By みてみん)

ヘーガーマン=リンデンクローネ


 一方、オーストリア政府から連絡要員として現地に派遣されていた外交官たちは2月14日、シュレスヴィヒから国境を越えデンマーク本土に足を踏み入れれば普墺に不利な外交問題となることを軍参謀長のフォーゲル・フォン・ファルケンシュタイン中将と普軍の政府連絡員に警告しました。ファルケンシュタイン将軍は直ちにベルリンのビスマルク首相に連絡し、ビスマルクもまた同様、国境を越えることに変わらず否定的なことを確認します。

 元よりビスマルクとオーストリア政府が取り決めた今回の連合軍協定では占領範囲がシュレスヴィヒ公国までと定められており、それは英・仏・露やスウェーデンが黙っている理由でもあり、デンマーク本土に普墺軍が侵入した途端、この四ヶ国が普墺を非難して介入、再び元のロンドン協定書の状態に逆戻りしてしまうのではないか、との恐れがあったのです。

 ヴランゲル元帥が「前のめり」になっているのではないか、と怪しんだベルリン駐在墺大使のハンガリー人外交官アロイス・カーロイ・フォン・ナジカーロイ伯爵もビスマルクに対し、国境を越えることがないよう念を押しました。

 こうした状況により、墺軍団がシュレスヴィヒ北部を席巻中の2月15日、ヴィルヘルム1世の名でヴランゲル元帥に対し「当面の間シュレスヴィヒ国境を越えての作戦は考えていない」との命令が与えられます。


 この命令が届いた翌16日、ヴランゲル元帥はガブレンツ中将が墺皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から直接、「普軍がユトランド州に侵入しても墺軍を侵略に参加させてはならない」との主旨の命令を受けていたことを知ります。墺皇帝はまたこの命令をガブレンツに与えたことをヴィルヘルム1世普国王にも知らせていたことも知るのです。

 ウランゲル元帥自身も確かにシュレスヴィヒ公国を占領するとの命令しか受けておらず、ユトランド州への侵入も届いた命令により明確に禁止されましたが、普墺連合軍の総司令官として国王から「作戦を一任する」として「白紙委任」を受けたと感じていたプライドの高い元帥は、彼の頭越なしに麾下(ガブレンツの墺軍)へ命令が下されていた事実に我を忘れるほど激怒してしまうのです。


挿絵(By みてみん)

“パパ”ヴランゲル


 老齢の元帥はこの歳まで「猪武者」さながら粗野で政治や外交など我関せず、ガムシャラに突き進んで来ました。前の戦争時(1848年)では国家の危機を救い英雄と称えられ、その栄光が頭から離れていません。その時はシュレスヴィヒ以北への侵入制限などはなく、ヴランゲルを継いだボニン将軍はフレゼレシアからオーフスにまで至っていました。

 怖い者知らずのヴランゲル元帥は頭に血が上ったまま副官にも計らず、暗号化もされない平文でヴィルヘルム1世国王に向けて不平不満をぶちまける電信を送ってしまいます。その電文の末尾にはヴランゲルを尊敬していた国王ですら眉を顰める乱暴な言葉が記されていました。


「至玉の作戦計画を妨害する輩は絞首台こそふさわしい」


 翌2月17日、ヴランゲル元帥は直接、普近衛擲弾兵旅団のフォン・ベントハイム少将と混成騎兵旅団(実体は連隊クラスです)のモーリッツ・フリース大佐に対し「至急オベンロー(フレンスブルクの北29キロ)とハザスレウ(オベンローの北23.5キロ)を経て北上せよ」との命令を交付しました。ハザスレウは北シュレスヴィヒ最北の主要都市で、その先コリングはユトランド州です。

 次第を知った本営副官が急ぎフレンスブルクのカール王子に知らせ、王子はファルケンシュタイン将軍に問い正すと、参謀長はこれを事実と認めました。「これままずい」と焦ったカール王子は旧知のフリース大佐に向けて「命令は無効」との主旨で電信を送り、フリース大佐は慌てて麾下を止めますが、命令を受けた最上級者のベントハイム将軍は既に国境を越えており、ベントハイム将軍がフリース大佐から一時的に指揮権を委譲されていた近衛驃騎兵連隊は逃げるD軍を追って北上しコリングでD軍守備隊を撃破してしまいました。結局この日の独軍はギリギリシュレスヴィヒ領内のクリスチャンフェルド(コリングの南15キロ・ハザウレウの北12キロ)とハザスレウの街を占領して宿営に入ったのでした。


 ここでようやくヴランゲル元帥は占領地よりの撤退命令を出しますが、占領した地域から急ぎ撤退するという行動は兵士の士気や将軍たちの沽券にも関わると考えたカール王子は、近衛驃騎兵のみ占領地に残るよう命じ、ここでどたばたの一日は暮れるのでした。


挿絵(By みてみん)

普軍の兵士(1864年)



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ