フランスの軍備(二)
フランスは18世紀末の革命以来、民衆の動向に左右される、いわゆる「ポピュリズム」に動かされやすい国でした。
ナポレオン3世の帝政が始まったのもこの民衆の「熱意」によるもので、皇帝は民衆の力と「恐ろしさ」を正しく理解していました。
このため皇帝政府には、ルイ16世やルイ18世、ルイ=フィリップらが直面した革命〜退位や処刑を避けるためにも、その原動力となった国民と軍隊とは厳重に隔離しなければならない、国民に親しく軍が接すればいざという時に政府の命令に従わず、革命の熱に巻き込まれて反乱軍と化してしまう、との恐怖観念があったのです。
あの前陸相、ランドン元帥と軍の首脳部が「規模の小さな職業人だけの軍隊」との主張をしたのには以上の理由があったのでした。
この恐怖から逃れるため、皇帝政府=軍首脳が考えたことは軍の根幹に関わる重大なことでした。
軍に召集された兵士を、まるで別世界に拉致された人間のように市井から完璧に隔離してしまったのです。
まず彼らは軍の根拠地を定めないこととします。部隊の駐屯地を固定の部隊に割り当てず、短期間で部隊を全国の駐屯地間で移動させるという方法でした。
つまり、陸軍の平時における最大の集合単位を「連隊」とし、駐屯地を例外を除いて2年毎に移動することとしたのです。
一つの駐屯地に対し最大三千名程度に兵員の集中を留め、それを2年毎全国でシャッフルし、その土地・住民にお互い愛着なり信頼なりを植え付けないようにした、ということでした。
これは今日の基準で考えれば、軍の存在意義を根底から曖昧にして力を削ぐ悪法と言わねばならないでしょう。
確かに軍(兵隊)は潜在する革命勢力から護られるかもしれません。しかし、軍は国を護るために存在するとすれば、土地や人々に愛着を持たずして命を賭けることなど出来るわけがありません。国民も自分たちを護る軍というより潜在的弾圧勢力としてしか軍を見ず、不信感を拭えないこととなります。
しかし、皇帝政府にとってはこの「自分たちの意のままになる夜警的軍隊」こそ理想の姿なのですから仕方がありません。
これは同時期にプロシアが、潜在的に敵愾心を抱くザクセンやハノーファーの旧軍を身内に迎え入れ同化させた手腕と、鮮やかな対比とも言えるでしょう。北ドイツ軍とフランス軍は既にこの時点で大きな差が付いていたのです。
しかもこの制度によって普仏戦争の動員時、大変なことが起きてしまったのでした。
動員の召集を掛けられた予備役たちは、押っ取り刀で自分たちの連隊が武器弾薬を保管する補給厰に出頭します。そこでいざという時に自分たちに与えられる任務に沿った武器弾薬を配布され制服やブーツ、背嚢などを受け取ると、集合した仲間と一緒に連隊本部へ送られます。
ここまでは至って普通に見えますが、この連隊本部がクセものです。例の2年間で移動するルールによって連隊自体は各地を転々とするのですが、補給厰は最初から一歩も動かず、一定の場所に居座っています。ですからこの1870年7月14日の動員令発布時、自隊の補給厰が比較的近くにあった連隊は全体の半数以下で、歩兵100個連隊中65個連隊が補給厰から遠く離れた駐屯地にいたのです。
これではどうなったのかなど、想像に難くありません。
輸送の限界を遙かに超えてしまった鉄道は、十万以上の兵士を乗せて立ち往生し、列車に乗り遅れた兵士たちが街々で渋滞し、街道は延々と続く歩兵の行軍で埋まりました。
動員で召集される予備役たちは一年に数日しか訓練しないのですから、自分の連隊がとっくに知らない場所へ移動してしまい、不案内で一度も訪れたことのない町をさまよう兵士や、迷子になって途方に暮れる兵士がフランス中至る所で続出します。
こんな状態では実際の開戦(8月2日)までに所属連隊に到着出来なかった兵士も驚くほど多く、定員の半数以下で出陣しなくてはならなかった連隊も続出しました。
幸いにも騎兵や砲兵は歩兵ほど混乱がありませんでしたが、迷子が続出したのは歩兵と同じで、全く影響がなかったといえば嘘になるでしょう。彼らはその性格上平時の充足率(普段から備えている常備兵力率)が高かったために歩兵ほど影響しなかったに過ぎないのです。
少し先走り過ぎましたので、元に戻ります。
フランス軍は、皇帝たちが革命を恐れたため故意に平時戦力を押さえられていたことで奇妙な状態となっていましたが、これを危険だとして改革すべきと考える勢力も軍の一部にありました。その先頭にいたのが改革を進めた陸相のニールでしたが、残念ながら69年に死去し、交代したのが普仏開戦時の陸相エドモン・ルブーフでした。彼は自分の存在感を示すためかニール改革の中止を命じ、軍制改革は完全に止まってしまいました。
このようにフランス軍は政府から、そして政府の強力な「犬」となることを警戒された議会からも「小さいまま」で可とされ、しかも議会は5年現役兵すら「危険」として廃止、イザと言う時は市民から志願兵を募ればいい、等という時代錯誤な意見すら傾聴されていました。
国民も軍隊は小さいまま、軍需費は押さえたままがよいとの意見が主流でした。
「だいたいナポレオン3世皇帝は、この小さいままの帝国軍でクリミア、イタリアで勝って見せたではないか?」
世論はますます軍の規模拡大に慎重となるのです。
このロシアの要塞地帯とイタリアはロンバルディアの平原で大見得を切ったナポレオン3世は、偉大過ぎる伯父を真似て軍を陣頭指揮したりしますが、これも陸軍の改革・良識派を悩ました原因でした。
皇帝は軍の問題となるとくちばしを突っ込みたがり、しばしば陸軍大臣や軍の長老たちと衝突を繰り返します。
ところが実際のところ自分の指揮に自信はないものですから言を左右にして曖昧な態度となることも多く、将軍たちをいらつかせました。
ソルフェリーノでも感心出来ない指揮振りでしたが、相手の皇帝(オーストリアのフランツ=ヨーゼフ1世)の指揮振りも輪を掛けてひどいものでしたから何とか勝利を得ました。しかし残念ながら、今度の相手は泣く子も黙る百戦錬磨のプロシア軍でした。
普仏戦争の動員令が下され、嫌々ながらも戦争を決断せざるを得なかったナポレオン3世は、やるとなったら頑張ろうとばかり、よせばいいのに再び軍に口出しをするのです。
これにより戦闘序列を変更し、ウジェニー皇后から「発破」を掛けられたナポレオン3世は自らを司令官とし、陸相ルブーフを参謀長として前線へと出陣しました。しかし、これは最悪の結果を招くこととなってしまうのです(後述)。
ナポレオン3世は伯父ナポレオン1世が打ち立てた伝説に生きねばならない運命でした。政治家であっても決して根っからの軍人ではなかった皇帝が、ただでさえ複雑になり、それ専門に訓練されて来た参謀たちでも手を焼く近代戦の指揮を執らなくてはならないのです。
しかも皇帝の威光は指揮下の将軍たちを太鼓持ち程度に貶めるのです。
この後の展開を見るに付け思うことは、軍事的にクライシスを迎えた戦場で、ナポレオン3世は多分頭が真っ白という状態に陥ったのではないか、ということです。その時、その指揮下で実際に指揮を執るマクマオン将軍は負傷して後送され、皇帝が立ちすくむ中、幾人もの将星が皇帝を囲んでいたにも関わらず、その巨大な指揮権を替わる者は現れなかったのでした。
そんな天上の人々に率いられた軍人たちも悲惨な状況にありました。
長らく閉塞していた軍は、兵士ばかりでなく尉官を中心とする下級士官にも厳しい世界で、手柄を横取りするのが当たり前の士官に従う下位士官はみな昇進の機会を奪われて給料は安いまま、国民からは白い目で見られていました。
軍は人気のある職業であったためしがなく、無駄飯喰らいの軍隊でしか生きられない無能な士官ばかりが幅を利かせるのでした。
こんな状態では覇気などあるはずがなく、当然のように下士官も利己心ばかりで熱心さの欠片さえあるはずがなく、怠惰で諦め切った沈滞感が駐屯地を覆っていたのです。
こんな世界で暮らす人々は世間から鼻つまみ者扱いにされ、シャバに出ても受け入れて貰えないベテランの兵士や下士官たちは、再び現役兵に戻るべく兵営の門を叩いたのでした。
こうなってしまうともう建て直しは至難の業で、連隊と共に各地をさまよう老兵たちは世間に幻滅し、不平不満を抱え、新兵たちをいじめてうっぷんを晴らしたり、まともに教えず放置したりするのです。
このフランス軍の仕組みは他にも悪影響を及ぼしました。その最たるものは、平時が連隊単位でしか存在しないことです。
普墺戦争以前からプロシアが、常備軍の最大単位を「師団」、その上位司令部組織である「軍団司令部」も平時定員ながら組織していたことに注目していた一部のフランス将官たちが、「プロシアに対抗しフランスも常備軍団を配属すべきだ」と上申しました。しかし、その声は常に無視されるか弾圧される運命にありました。
フランス軍は平時「連隊」単位で存在し、動員を経てから連隊を組み合わせ「師団」とし、師団が組み合わさって「軍団」へと組織されます。これは革命勢力に使われるのではないかと心配する皇帝たちには好評で、普段の軍需費を大幅に減らす効果もあるので、左派にも受けがいい(弾圧勢力が小さいことはいいこと)のですが、軍事から見れば愚の骨頂と呼べる政策でした。
戦時に軍団を指揮する中将や大将といった高級指揮官たちは配下の部隊に対して一切何も知らず、大事な幕僚すら性格や顔すら知らないという馬鹿げたことになっていたのでした。これではいくら天才的な指揮官であっても自軍を使いこなすことなど出来るはずもなく、まずは戦って見ないと実力が分からない、という恐ろしいことにもなったのです。
5年現役を申し付けられた常備の兵士は準備万端ですが、他の動員勢力である予備役は著しく訓練不足で、しかも所属連隊に辿り着くのも困難、後備部隊の護国軍は数合わせの烏合の衆、指揮官たちは自分が指揮する部隊が全く見えていない。
これらをまとめて言えば、現代で言うところの「即応能力」がドイツ勢力に比べ著しく劣っていた、ということです。
普墺戦争でもオーストリアの欠陥がプロシアの欠陥を大きく上回っていたため短期間でのプロシア勝利となりましたが、この普仏戦争も準備万端のプロシア対準備すらままならないフランスの戦いとなったのでした。
この欠陥の多いフランス帝国軍の1870年普仏戦争開戦時における戦闘序列から陸軍の編制を見てみましょう。
フランスの軍制は良く言って非常にユニーク、悪く言えばそれはもう机上の空論の極致と呼べる代物です。
まず、常備軍を中核とし、予備役で定員を充足した100個の歩兵連隊を8つの軍団に区処します。前述した通り軍団・師団の平時編成はなく、演習時にも臨時に演習師団を編成し終われば解散する位ですから、この普仏戦争の動員令と同時に陸軍省が編成作業を開始し決定しました。これにより軍団8個の他、独立騎兵3個師団、そして軍の総予備として予備砲兵1個師団が編成されたのです。
このようにフランスはプロシアのような徴兵地区による地域軍団制ではありませんので、軍団は特に地方色などありませんでした。
その軍団には2種類があり、一つは大将が指揮を執る軍団、もう一つは中将が指揮を執る軍団です。
大将が指揮を執るのは、第1、3、6の3個軍団。歩兵4個師団・騎兵1個師団(3個旅団制)・砲兵8個中隊・工兵1個か2個中隊を基準とするものです。
中将が指揮を執るのは、第2、4、5、7軍団の4個軍団。歩兵3個師団・騎兵1個師団(2個旅団制)・砲兵6個中隊・工兵1個中隊を基準としました。
また、残る第8軍団を中将指揮の近衛軍団とし、歩兵2個師団・騎兵1個師団(3個旅団制)・砲兵4個中隊、工兵1個中隊とします。
軍団以下の基本編制は以下の通りです。
歩兵師団は歩兵2個旅団、猟兵1個大隊、砲兵1個大隊、工兵1個中隊からなり、臨機に軍団長の差配によって騎兵部隊を付属しました。
騎兵師団は2個と3個旅団編成の2種類があり、1個旅団は2か3個連隊、騎兵連隊は4個中隊からなります。ドイツ側と同じく騎兵に大隊編成はありません。
また、独立した騎兵師団には騎砲兵2個中隊・騎砲12門が付属し、予備砲兵師団は砲兵16個中隊96門の砲が配備されました。
このフランス軍の編制による7月下旬時点での野戦軍内訳は以下の通りとなりました。
○歩兵26個師団(332個大隊)
○騎兵11個師団(220個中隊)
○大砲924門(砲兵154個中隊)
○工兵37個中隊
この野戦軍は兵員およそ30万人となります。
また要塞、城、要地守備や予備兵力として約20万人が後置されます。
この7月末では未だ動員が続いており、最終的には野戦軍35万・予備軍22万が動員されることとなります。
この57万という数字は一国の動員数とすればまずまずと呼べるものです。しかし、相手が100万近い数を同じ期間に動員するのですから、まともな将軍なら戦う前から敗北を意識せざるを得ないこととなったのです。
しかもこの動員、これも前述しましたが所属連隊が駐屯地を転々とし、軍団の編成地はこれまた別、という複雑な移動で発生した混乱により絶望的なスローペースに陥りました。
この恐るべき遅れ(このままではプロシアが先に襲い掛かって来る!)に焦ったナポレオン3世は「集まった兵士から順次国境へ急行せよ!」などと無茶な命令を発したため、混乱は更に増し正にお手上げの状態となったのです。
陸相ルブーフは国会で「わが軍はゲートルのボタン1個1個まで準備万端整っている」などと大見得を切ったのですが、実態は制服すら無事に行き渡らなかった連隊が20個もあり、武器すら満足に手に出来ない兵士もまたかなりの数に昇りました。
普仏戦争は既にこの動員時点で勝敗の半分が決まっていた、と言っても過言ではなかったのです。




