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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・動員と展開
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フランスの軍備(一)

 フランス帝国軍は栄光に包まれた過去を持ち、王国の時代を含めればフランク王国のカール大帝までたどり着くという伝統を持つ軍隊でした。

 フランスは南西に連なるイベリア半島と共にヨーロッパの西端を作っています。国土は河川と山地が多く、肥沃な土地は農業生産に向き、国民は誇り高く行動派、そして高い水準の文化を尊ぶ先進国です。

 それは東欧の寒村に育まれ、この100年で急成長した新興国プロシアとは比較すらはばかれる、眩いほどの由緒と歴史に飾られた国でした。


 18世紀末の血塗られた革命を経てナポレオンという希代の英雄を擁してイベリアからモスクワまでを支配下に納めた19世紀初頭、フランスは陸海共に海峡を隔てたイギリスより進んだ軍備と兵力を誇る大国でした。

 しかし、内政には見るものがあったフランスも次第にナポレオン独裁の帝国が進むと共に、天才ひとりに全てが託される弱点が拡大、常に四方を敵に囲まれ、次第に力を付けた包囲諸国に追いつめられることとなります。1815年、ベルギーの寒村ワーテルロー(英名ウォータールー)の近郊で決戦が行われ、この最後の戦いにナポレオン1世はイギリス=プロシア連合軍に敗れ去り、英雄の時代は幕を閉じました。


 この後、フランスは革命への反動とブルジョアの全盛を迎えます。時代の空気を読めずに復古の時代を謳歌したブルボン家の支配はナポレオン皇帝とほぼ同じ15年で終焉し、「国民の王」として華々しく登場したルイ=フィリップが後を継ぎます。これも下層庶民の犠牲に成り立つブルジョアの時代で、またもや18年で終焉、1848年ヨーロッパを揺るがす革命に至りました。

 短い共和制を経て帝国を復興したナポレオン3世の時代は、このブルジョアジーへの敵対から生まれたもので、フランス人にとって忘れ難い栄光のナポレオン時代への回帰でした。


 しかし、既に産業革命の大波に乗っていたフランスにとって、ナポレオン1世当時そのままの独裁国家体制はそぐわないものがありました。なにしろ皇帝となったナポレオン3世自体が民族主義に大いに理解を示す人物で、イタリア独立に熱意を示していた位ですから、政権奪取当初こそ伯父ナポレオン1世と同じ強権により反対派を封じ込め一掃する強硬な政策を実行するものの、経済成長と国民の支持が圧倒的となるや国民に妥協し、民主主義的な政策を執るようになります。


 この間、軍もまた波乱に満ちた時代を過ごします。

 元よりフランス軍は革命以来義勇兵を尊び、傭兵の呪縛から逃れようとしましたが、そうそう革命の理想に燃えて自ら命を投げ出す人間がいる訳もなく、ナポレオン1世時代は徴兵を主として国民軍を組織しました。また、占領支配地が拡大し軍が肥大化してフランス本土からの徴兵が難しくなると、支配領域からの徴兵も積極的に行い、帝政末期、プロシアが解放戦争に入る1813年頃には総軍の三分の二が外国人だったそうです。当然のことですが外人が多ければ信用出来る部隊も少なくなり、敗戦などで規律が緩めば脱走や無法行為も増えると言うものです。

 そこにはかつてピラミッドの下や凍るボヘミアで戦った精鋭の姿はなく、最後は烏合の敗残兵として儚く離散するのでした。


 帝政が瓦解し、いわゆる「ウィーン体制(=王政復古)」となると、義勇志願制が復活し傭兵たちが集まり始めますが、それも年間わずか数百人程度。現代でも名高い「外人部隊」(現在では外国籍の義勇志願兵による少数精鋭部隊ですが、当時は金目当ての傭兵たちの部隊でした)もありましたがとても陸軍の常備兵を賄う数に達せず(全軍の四分の一)、やむなく平行して強制徴兵も行われます。しかし、傭兵や貴族ばかりの志願兵や士官の指揮下に入るこれら徴兵たちは、気の毒なことに奴隷と同然の軍隊生活となり、暴力や無理難題は日常茶飯事、陰湿ないじめに無意味なしごきなど当然といった状態でした。


 これでは徴兵のがれに必死になる国民ばかりとなり、政府は仕方が無く「代人」を認めることとなります。代人とは徴兵を指定された者の代わりに入隊する者のことで、金や借金のカタで代人となる者が多くいました。これでは傭兵と変わらず、この代人を仲介する専門業者まで現れて、当時のフランス軍の三分の一はこうした代人となってしまいます。しかも徴兵期間が終わって再びほかの徴兵者の代人を引き受け戻ってくるリピーターも多数いて、次第にフランス軍は長年軍を住処とする本物の傭兵たちとこれら代人のお陰で中年以上の「老兵」ばかりとなってしまいました。

 もちろんベテランが多いことは軍の強さにつながりますが、傭兵や代人のように金で軍に縛り付けられている者たちは得てして国を護るという気概に欠けているもので、愛国心の固まりのような団結心の強い「国民軍」には一歩も二歩も譲るものです(拙作「ミリオタでなくても軍事がわかる講座・貴族のボンボンが国民軍の指揮をする?」参照)。


 こうした環境のままナポレオン3世の時代を迎えると、伯父の姿を常に追っていた皇帝は軍を精強にしようと様々な画策をし、過去の栄光に習って鷲の紋章やらNや蜂の印章などを制服にあしらって復活させるなど、まずは「恰好」からと「ナポレオン軍」再生を謀りますが、先述通り時代は中流が主導権を握る民主主義の夜明けとも言える時代に入っており、帝政といえど強権ばかりではいつ反乱が起きるか分からない状態となってしまいます。ナポレオン3世はなんとか国民の反発を呼ばないように軍制改革を狙いますが、なかなかうまくいきませんでした。


 伯父にあこがれるナポレオン3世は、最初に手がけたクリミア戦争で泥沼の陰惨な戦いの中、必死で戦うフランス部隊に無理な目標や無茶な作戦を連発し密かなひんしゅくを買ってしまいます。しかし、セバストーポリの戦いを、多くの犠牲を出しつつ名高いマラコフ堡塁の奪取を外人部隊が行うなどの活躍でなんとか勝利を得ました。

 次はイタリア独立戦争で、辺境領土と引き替えにサルディニア王国に手を貸したナポレオン3世はオーストリアと戦い、これも驚くほどの犠牲を出しつつもマジェンタの戦いやソルフェリーノの戦いに勝利し、面目を施しました。

 これら二つの勝利でフランス陸軍の士気は上がり、フランス国民が抱いていた軍への不信感をぬぐい去ることが出来ました。


 しかし次の一手に失敗してしまうのです。これがメキシコ出兵で、およそ5年の長きに渡るゲリラ討伐戦は不名誉な撤退で終わりを遂げ、メキシコ皇帝に擁立したオーストリア皇子のマクシミリアンを見殺しにしてしまうという後味苦い結果となってしまいました。

 そしてナポレオン3世がメキシコという泥沼に脚(軍隊)をとられている5年間の隙を突くかのようにあれよあれよと言う間に強い軍隊を持つ大国へと成長した国がありました。プロシアです。

 

 デンマーク、返す刀でオーストリアと強敵を打ち破り、国土の北と南を固め、外交によって東(ロシア)を押さえたプロシアに残された憂いは西、フランスです。

 外交でもプロシア宰相兼外相のビスマルクに連戦連敗を喫し、追いつめられたナポレオン3世政府は、「サドアの屈辱」直後の66年秋、コンピエーニュ会議でプロシアに対する国家の方針を定め、軍隊を改革し精強なプロシア軍に対抗することを決します。

 しかしこれは正に同床異夢で、意見をとりまとめるのは不可能でした。


 皇帝とその取り巻きたちは、プロシアが実行する「短期間兵役」による選抜徴兵で常備軍をそろえよう、と主張し、

 陸軍大臣のジャック・ルイ・ランドン元帥と軍の首脳部は、あまり大きくなくとも完全に職業軍人だけの軍隊を目指そう、と主張します。


 徴兵を嫌う共和派や民主主義一派は軍の「職業軍隊」を支持します。その裏には完全徴兵によって軍が巨大化すると彼ら左側の人間が弾圧される可能性が増し、金で動く小規模な職業的軍隊ならコントロールも可能、と踏んだためでした。

 メキシコ出兵で軍が疲弊した直後で、軍需費と戦力が見直されている最中だったこともあり、皇帝も取り巻きもなかなか自己の主張(徴兵による本物の国民軍創設)を通し辛い時期でもあったのです。

 

 それでも軍の改革は待ったなしの状態でした。

 ぐずぐずしていると戦いに慣れたプロシア軍とフランスを叩き潰すチャンスを窺うビスマルクに先手を奪われてしまうからです。


 従来、フランス軍の徴兵は毎年徴兵適年齢に達した者から「くじ引き」で選抜徴兵が行われました。徴兵範囲は最大30万人で、その内肉体的・体力的に下位の10万人は不合格として除外、残った健康な者から様々な理由で軍隊に向かないクセ者2万8千人を「イワクのある者」としてふるい落とし、残った17万2千人の候補から必要数を徴兵したのです。

 現役(兵士である期間)は7年と驚くほど長く、予備役や後備兵制度などはありませんから、陸軍は定員30万人が兵員の全てでした。

 ですから67年時点でプロシア率いる北ドイツ連邦が現役45万、予備と後備30万以上という兵員を用意しているのを知る政府は焦っていたのです。 


 軍の改革を任されたのは、傭兵に囲まれた閉塞的な軍隊を主張し皇帝に更迭されたランドンに替わった新陸相、アドルフ・ニール大将(直後に元帥)で、当時(67年)はフランス軍にこの人ありと言われた逸材でした。

 ニールはフランス軍のありさまを赤裸々に綴った小冊子を発行して注目されていたルイ・ジュール・トロシュ少将などを片腕として軍の再編作業を開始、兵員充実のため陸軍の徴兵法を改正、7年だった現役期間は5年に短縮され、除隊後は従来なかった予備役として4年間の待機が命じられます。ところがここからがフランス軍のおかしな部分で、徴兵にはもう一種類あり、通常の5年現役兵より肉体的・性格的に下位の者は3年間、訓練期間として時折召集して兵の基礎を教え、これは合計5ヶ月間として、その後は現役兵終了後の予備役兵と同等の予備役として市井に置いたのです。

 ニール陸相はこれとは別に、ドイツ諸邦が常備していた「郷土兵(ラントヴェーア)」と同じ性格を持つ「護国軍(ギャルド・ナシオナール・モビール)」を用意します。

 これは徴兵を不合格となった例の13万人から作られ、5年間に毎年15日間訓練日に宛てられ、その時だけ兵隊の「まねごと」を教えられました。

 護国軍の定員は年毎に政府より定められて、最大50万の定員とされます。

 ニールは1875年には、この「現役兵」「予備役兵」で戦時に80万、護国軍50万を用意することが出来る、と豪語します。少なくとも5年後(72年)には常備軍(現役プラス予備役)で72万を確保する、としました。


 しかし、この案は議会の反対にあり、あやふやなものとなります。

 議会は、ニールと政府は「プロシアの兵員数を過大に読み」過ぎる、と非難し、さらに「予備役や護国軍などを置かなくともフランス男子たるもの有事には義勇兵の募集に応じるはず」だし、とにもかくにも「金が掛かり過ぎる」とニール案を突っぱねました。


 しかし「やり遂げなくてはならぬ」と皇帝も粘り、ようやく68年1月にニール案は議会と折り合いをつけて修正し可決され2月1日に発布されたのです。

 その修正案の犠牲となったのは護国軍で、一年の召集は1回のみ、期間は2週間以下として、しかも集合指定営地から移動24時間以上離れている者は召集を解除されると言う条件でした。これを利用して護国軍から逃れる者が続出し、また、2週間程度では教わったことも忘れてしまう者が多く、護国軍は有名無実となってしまうのです。

 実際に普仏戦争が始まった時、動員された護国軍は単なる武器を手にした烏合の衆に過ぎませんでした。

 

 人員数に劣るフランス陸軍には戦争前に新式のシャスポー後装閉鎖器付小銃が配備され、この銃は精強なプロシア軍が使用するドライゼ「針」銃に対し威力、射程、扱いなど全てに勝る強力な武器となりました。

 早速この銃を使った訓練が成されますが、その訓練法がいけません。旧来のマスケット銃と同じ立ち打ちや膝立て打ちでしか訓練されず、しかも敵を引きつけてからの斉射という方法は理論では正しいものの、有効射程が倍以上も違うのではせっかくの優位性も失われ、また腹這いになっても装填できる利点を理解しなかったので、伏せ打ちをする現在の当たり前な兵士の姿は、当時のフランス軍には見られませんでした。

 

 しかし真の問題は兵士の質や量、兵器の優越ではありません。

 それは軍隊を政府がどう見ていたか、に根本原因があったのです。



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