プロシア・ドイツの軍備(後)
貧弱な海軍の状況とは鮮やかな程の対比で、陸軍の状況は全く逆と言える状態でした。
それは単純な人員数の比較だけでも証明されます。1870年7月末の動員陸上総兵力を見ると、フランス軍の56万7千人に対しプロシア軍は倍近い98万2千人の動員に成功するのでした。
この内、実際に敵と激突する野戦軍の兵力は、フランスの33万7千に対しプロシアは43万3千人。また、フランスの動員数は植民地に派兵する兵力まで含んでいるのに対し、プロシア側は野戦軍以外全て後備軍として戦場で使える兵力で、その数は29万6千5百人に登ります。フランスが用意出来た予備補充兵力はその半分程度の15、6万人と考えて良さそうです。
これだけではありません。ナポレオン3世政府の無策とビスマルクの活躍で、本来はプロシアと相容れない南ドイツ諸侯(バイエルン、ヴュルテンベルク、バーデンなど)もプロシア側に荷担したので、その野戦軍8万5千5百人、後備兵力6万9千1百人がプロシア軍と連合したのです。
これによりプロシア軍は野戦軍51万9千1百、後備軍36万5千、馬匹25万頭に膨れ上がりました。
このプロシア陸軍の編制を見てみましょう。
プロシアの軍制では、全国(北ドイツ連邦)を12の軍管区と北ヘッセン師団管区*に分け、これに南ドイツの4ヶ国、バイエルンの2軍管区、ビュルテンベルク、バーデンを各1個師団区として、南ヘッセンを北ヘッセン師団管区に加え、14軍管区3個師団区制として普仏戦争に臨みました。この他に別枠でプロシア王国近衛軍団があり、プロシアの軍制は1軍管区1軍団制なので、15個軍団と独立3個師団が野戦軍となりました。更に独立騎兵師団8個と後備軍から歩兵師団4個とを編成し、大本営直轄の予備としました。
軍団以下の基本編制は以下の通りです。
軍団は歩兵2個師団、直轄砲兵6個中隊で編制。
歩兵師団は歩兵2個旅団、騎兵1個連隊、砲兵4個中隊。
歩兵旅団は2個連隊。歩兵連隊は3個大隊。歩兵大隊は4個中隊。
騎兵師団は2か3個騎兵旅団。騎兵旅団は2か3個連隊。騎兵連隊は4個中隊(平時は5個)。
砲兵旅団は2個連隊。砲兵連隊は2個大隊。砲兵大隊は4個中隊。
工兵は大隊編制が4から6個中隊で、各編制部隊に中隊単位で所属。
歩兵や工兵の1個中隊定員は250名前後。従って1個大隊では1,000名前後で、大まかに考えれば歩兵連隊は3,000名、旅団は6,000名、師団は12,000名前後の歩兵定員となります。
騎兵の1個中隊は160騎前後。騎兵連隊は620騎前後。騎兵旅団は1,250騎から1,900騎前後。騎兵師団は最小2,500騎から最大5,600騎となります。
砲兵中隊は各種大砲6門を基本装備としました。1個中隊の砲兵はおよそ130から140名。従って砲兵大隊は24門550名。一個連隊で48門1,150名前後となります。
(ただし、南ドイツから参加した部隊はヘッセン大公国以外それぞれの国の軍制により編制されていたので、若干数に増減があります)
このプロシア軍式の編制による北ドイツ連邦の野戦軍内訳は、
○歩兵・37個師団(他独立部隊を含め474個大隊)47万人
○騎兵・独立8個師団(歩兵付属部隊含め382個中隊)戦闘騎馬6万頭
○大砲 1,584門(264個中隊)
○工兵 53個中隊
また、要地・要塞守備隊や後備補充兵、後置予備部隊の兵力は、
○歩兵及び工兵 33万人
○馬匹 3万6千頭
○大砲 500門
単純に合計すれば戦闘部隊は約80万、馬10万頭、大砲2千門という数になりました。これに南ドイツ諸邦の軍勢を入れて先の戦闘部隊約90万超という数となるのです。
歩兵は普墺戦争後の再編成で完全に近代化され、「フュージリア(銃兵)連隊」や「擲弾兵連隊」などの尊称が付く部隊も実態は普通の歩兵部隊として編成されています。
更に諸邦の軍隊が加わったことでドライゼ銃が全体に行き渡り、20年に及び使いこなした古参兵が生み出した使用方法が訓練で伝授され、フランス兵の持つ新式のシャスポー銃と相対するのでした。
プロシア軍の基本的な歩兵戦術は、歩兵中隊を一単位とする数本の縦隊で行軍し、戦闘に至ればこの中隊単位の縦隊を横に数列(大隊なら四列)並べて制圧射撃を行い、機を見て銃剣突撃に移るという方法でした。
これは射撃を行う兵士の数は限られるものの、突撃に至る場合に有利であり、いかにも速戦即決を尊ぶプロシアらしい方法でした。
騎兵は普墺戦争での活躍の場が限られたことで、本来なら偵察、追撃、浸透戦術などに特化した訓練や武器の工夫を行うべきだったのでしょうが、この時代はまだ騎兵がエリートとして幅を利かせていたので、特に普墺戦争での反省を活かした対策は取られていません。彼らは相変わらず騎馬戦闘訓練を行い、乗馬術に熱中していました。しかしこれは相手側のフランスも同じであり、既に先が見え始めた騎兵部隊はそのまま過酷な近代戦の戦場で戦うこととなります。
プロシア騎兵部隊の特徴として、騎兵中隊長の役割が挙げられます。中隊長は中隊の馬の飼育、医療衛生、訓練全てに実権と責任を持ち、極力異動を止めて同じ部隊で長期に渡って指揮を執ることが普通に行われていました。もちろんですが、大きな失敗や被害があった場合は中隊長は責任を取らされ左遷されます。
中には十三年間同じ中隊を指揮する者もいて、中隊の予備も入れた200頭余りの馬全てに熟知した隊長の下、騎兵たちは馬のことは心配せず安心して戦いに臨めたのです。
砲兵は前述通り普墺戦争の反省に立ち、大砲を更新し訓練に励みました。その戦術としては、クルップ後装旋条砲の特色を生かし、敵の大砲の射程外に砲列を敷き砲撃戦で敵を制することとされました。
しかし、ケーニヒグレーツ戦で軍所属の直轄砲兵隊(予備砲兵とも言います)が戦場から離れ過ぎ、流動的な戦場の移動について行けず遊軍と化したことを反省点とした砲兵指揮官たちは更に工夫を施します。
軍直轄砲兵を戦場の後方に配置するのは止め、普墺戦争までは師団砲兵隊として1個大隊24門だった砲兵隊に軍の直轄砲兵(60から120門程度)を分配し増員させるか、各軍団長の直属部隊とし戦況によって前線に送り出す方法としました。この方法がうまくいったかどうかは、今後の戦記で語らせて頂きます。
プロシア軍の士官たちは自信に満ち溢れていました。デンマーク、オーストリアと立て続けに短期決戦で打ち破った経験は彼らに貴重な教訓を与え、ヨーロッパ各国では類を見ない演習は、各レベルでの指揮官たちを研ぎ澄ませて部隊を掌握させ、また下士官兵たちを大いに鍛えました。
また天才と呼ばれるモルトケ参謀総長の存在は大きな安心材料となっていました。兵士たちもかつてないほど訓練が行き届いており、動員によって増員される予備役たちの戦意も非常に高いものがありました。
こうしてプロシア軍は準備万端、動員初日の7月16日を迎えたのでした。
附録
○1870年7月の北ドイツ連邦及び南ドイツ4諸邦の軍管区
1軍管区1軍団制で、軍管区番号が軍団番号となります。
以下、軍管区(徴兵地域名/軍団司令部所在地)・所属歩兵師団(所在地)となります。
☆第1軍管区(オストプロイセン州/ケーニヒスベルク)
・第1師団(ケーニヒスベルク)・第2師団(ケーニヒスベルク)
☆第2軍管区(ポンメルン州/シュテッティン)
・第3師団(シュテッティン)・第4師団(ブロンベルク)
☆第3軍管区(ブランデンブルク州=ヴェストプロイセン州/ベルリン)
・第5師団(フランクフルト・アン・デア・オーデル)・第6師団(ブランデンブルク・アン・デア・ハーフェル)
☆第4軍管区(ザクセン州=アンハルト=アルテンベルク/マグデブルク)
・第7師団(マグデブルク)・第8師団(ハレ・アン・デア・ザーレ)
☆第5軍管区(ポーゼン州=ニーダーシュレジエン/ポーゼン)
・第9師団(グローガウ)・第10師団(ポーゼン)
☆第6軍管区(シュレジエン州/ブレスラウ)
・第11師団(ブレスラウ)・第12師団(ナイセ)
☆第7軍管区(ヴェストファーレン州/ミュンスター)
・第13師団(ミュンスター)・第14師団(デュッセルドルフ)
☆第8軍管区(ライン州/コブレンツ)
・第15師団(ケルン)・第16師団(トリール)
☆第9軍管区(シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州=メクレンブルク=ハンブルクほか/アルトナ)
・第17師団(シュヴェリーン)*・第18師団(フレンスブルク)
☆第10軍管区(ハノーファー州=オルデンブルク=ブラウンシュヴァイク/ハノーファー)
・第19師団(ハノーファー)・第20師団(ハノーファー)
☆第11軍管区(ヘッセン・ナッサウ州=チューリンゲンの諸邦/カッセル)
・第21師団(フランクフルト・アム・マイン)・第22師団(カッセル)
☆第12軍管区(ザクセン王国/ドレスデン)
・第23師団(ドレスデン)・第24師団(ライプツィヒ)
☆独立師団管区
・第25師団(ヘッセン大公国北部/ギーセン)**
☆近衛軍管区(プロシア王国全域/ベルリン)
・近衛第1師団(ベルリン)・近衛第2師団(ベルリン)
☆バイエルン第1軍管区(バイエルン王国/ミュンヘン)
・バイエルン第1師団(ミュンヘン)・バイエルン第2師団(アウグスブルク)
☆バイエルン第2軍管区(バイエルン王国/ヴュルツブルク)
・バイエルン第3師団(ニュルンベルク)・バイエルン第4師団(ヴュルツブルク)
☆ビュルテンベルク王国師団(シュトゥットガルト&ウルム)***
☆バーデン大公国師団(カールスルーエ&フライブルク)***
☆ヘッセン=ダルムシュタット師団(ヘッセン大公国南部/ダルムシュタット)**
*第9軍管区は普仏戦争で第9軍団として出征した際、第17師団を独立師団として後備軍へ渡し、代わりに第25師団(ヘッセン大公国)を加えて「混成軍団」として運用しました。
**第25師団は、北ドイツ連邦下では定数不足のため名目上の師団とし、実際は旅団クラスで運用して将来のヘッセン合同に備えました。普仏戦争に南部ヘッセン(ダルムシュタット政府)が加わったことで南北ヘッセンを統一し本格的に第25師団として運用します。
***普仏戦争の実質開戦時(70年8月)からはビュルテンべルク王国軍とバーデン大公国軍を一個の軍団として運用(ビュルテンべルク=バーデン合同軍団)しました。
ドイツ統一・普仏戦争後の71年12月以降は、ビュルテンべルク王国は第13軍管区(第26師団と第27師団)、バーデン大公国は第14軍管区(第28師団と第29師団)として運用します。
バイエルン王国の2個軍団は統一ドイツ陸軍内でも特別扱いで、第1次大戦直前(1914年)まで独立運用が認められ、参謀本部も唯一独立して置かれていました。




