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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・動員と展開
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プロシア・ドイツの軍備(前)

 1866年9月。普墺戦争も各国との休戦協定や講和条約が次々に結ばれて一応のカタが付き、プロシア軍に報償が与えられる時が来ました。

 この戦争で野戦軍を率いた高級士官たちはそのほとんどが昇進するかプール・ル・メリット勲功章、赤鷲、黒鷲などの勲章を授与され、下級士官も昇進や授勲が相次ぎました。


 この普墺戦争での指揮官たちの内、年齢的に限界を迎えた指揮官たちは名誉職に付いて一線を退き、若い次世代の時代がやって来ます。

 エルベ軍を率いたビッテンフェルト大将やマイン軍からボヘミア占領軍司令官となっていたファルケンシュタイン大将らは地方の知事へ就任、野戦指揮官としての引退を迎え、序列ではカール王子とフリードリヒ皇太子が野戦軍指揮官のトップとなります。

 また、各指揮官に付いて作戦伝達・指導を行って来た高級参謀たちも一個上の階級に進級するものが多く、平時編制となった各軍団の指揮官や参謀長として残る者がほとんどとなります。


 更に普墺戦争中、参謀本部の命令を遵守しなかったり活躍の見られなかった将軍たちは予備役や名誉職的な軍政畑へと下げられ、中には引退に追い込まれたりもしました。

 このパターンでは歯痒い戦いを続けた第1軍団のアドルフ・フォン・ボーニン大将などが筆頭にあげられます。同様に緒戦での動きが鈍く、シュタインメッツ将軍の第5軍団がひとり戦う羽目となる原因を作った第6軍団のムーティウス大将は、66年8月占領地でチフスのため亡くなりましたが、もし生きていたとしたら、(ケーニヒグレーツ戦での活躍はあったものの)体よく引退させられたのかも知れません。


挿絵(By みてみん)

ムーティウス


 こうした一連の動きは参謀本部には大変ありがたいことで、この時点で既に普墺戦争時に表面化していた、参謀本部の命令がスムーズに実行に移されなかったという問題が解決されました。

 この上位下達がうまく決まらなかった原因は、大きく分けて次の二つが考えられます。


 ひとつは、参謀本部(ひいては参謀総長)を信じ切れなかった将軍たちの慎重な采配です。


 ケーニヒグレーツの戦いでは参謀本部が、エルベ、第一、第二の三個軍が「分進」しクルム高地で敵を「包囲」し「合撃」、敵を「殲滅」する、との作戦を命令しました。

 しかし、第二軍は遠距離からの進軍だったためにタイミングが間に合わなかったこともありますが、最終段階で敵を追い込めなかった理由は指揮官たちが参謀本部を信用せず、各個撃破を恐れて進撃にブレーキをかけたから、と言われています。

 このような信頼関係の希薄さは戦争の勝利によって解消しました。また、参謀本部から派遣される参謀たちは、昇進した指揮官たちから真の理解を得ることが出来、その後は参謀本部命令は絶対だ、という命令遵守の姿勢が指揮官たちに出来上がったことで解決します。


 もうひとつの原因、それは、

 一・参謀本部の作戦方針を厳守しつつ流動する戦場の状況に併せて戦術を「自分たち」で変更し実行するという「委任命令」と、

 二・参謀長は指揮官と共に作戦結果に責任を持つという「共同責任」を、

 理解・実行しようとしなかった老齢の指揮官や、それに追従する頑迷保守的な指揮官たちにありました。


 ナポレオン戦争を青年時代に経験したこれら60代から70代の高齢指揮官たちは、「ナポレオン後」にグナイゼナウやクラウゼヴィッツが推進したこれら二つの「大前提」をとかく無視しがちであり、彼らが一線を退くことで、「ナポレオンの戦場を知らない」40から50代の指揮官が自由に腕を振るえることとなり、更に普墺戦争で自分たちが率いる部隊の利点と欠点を見極めた旅団や師団長クラスが師団長や軍団長に昇進し、張り切って部隊を鍛え上げたことでプロシア軍は更に磨きがかけられたのでした。


 この普墺戦争後の変革期に、60代後半から70代という引退時期にあってなお第一線に残った将軍もいましたが、その双璧とも言えるのが、あの「ナーホトのライオン」シュタインメッツ大将とプロシア参謀本部参謀総長モルトケ大将でした。


 シュタインメッツは普墺戦争中、ケーニヒグレーツ戦直前にヴィルヘルム国王自ら赤鷲勲章大十字章と黒鷲勲章を同時に授けるという、解放戦争でも受けた者がいない大変な名誉を与えられています。この「一人でケーニヒグレーツの戦いのお膳立てをした」功績は引退させるには余りにも惜しい功績だったため、将軍はそのまま上級の野戦軍を率いる指揮官となるべく平時の軍に残ることとなり、普仏戦争を迎えます。

 そして参謀総長のモルトケは普墺戦争の結果、短期決戦に勝利したその作戦指導力によりその名声が一般人の間にも鳴り響くこととなり、最早「モルトケとは誰だ」と師団長が首を傾げたなどという逸話が「笑い話」として語られるようになったのでした。


 モルトケが普墺戦争の勝利により授けられたものは、参謀本部の権威向上とそれまでは無名に近かった自身の名声以外、取り立てて派手なものではありませんでした。戦後の大盤振る舞い時に黒鷲勲章を受けただけで、昇進もありません。

 これはいささか仕方のない話で、戦場で自ら危険な目に遭いながらも目覚ましい功績を上げた者に与えられるプール・ル・メリット勲功章はすでに若き大尉の時代、トルコで軍事顧問をしていた時、自ら反乱に巻き込まれ包囲され、トルコ部隊を率いて血路を開き脱出した功績により授与されていました。また、開戦直前には中将から大将に昇進(それまでは参謀総長は中将階級がなるものでした)していたため、これ以上の名誉(元帥や大十字章)を後方にいたモルトケに授けると野戦部隊に対してバランスを欠く、と思われたのでしょう。


 その代わり、といっては何ですが、モルトケは連邦の議員になりました。


 67年2月に戦争勝利で結成された北ドイツ連邦の帝国議院(ライヒスタグ)選挙が行われることになり、モルトケはこの議員選挙に候補者として立候補を勧められ、ビスマルクやローンと共に出馬しました。その人生で政治から距離を置いていたモルトケですが、元より権力のない議会議員に立候補したのは、多分にプロシア政府が形式上の議院でも多数を占めるためと人気取り方策の一環だったのでしょう。現在の日本の参議院選挙でタレントが比例選挙で出馬するようなノリです。

 ところがベルリンの6選挙区全てで3名は揃って落選してしまいます。モルトケは「国民は自由主義者にたぶらかされて本質を何も見ていない」と嘆きますが、田舎の地方ではさすがに彼らは人気があり、モルトケは3選挙区で快勝、プロシアで最も北にありロシアとの国境地帯であるメーメル(現・リトアニアのクライペダ)のハイデクルーク(クライペダ南方のシルテ)選挙区の議員となりました。このライヒスタグという議会は民主的な男子普通選挙でしたが、このように候補者はいくつもの選挙区に重複立候補が許されていたため、有力候補はほぼ確実に当選し、選挙がお飾りに過ぎなかったことが分かります。また議員になることで軍を辞めなくても済むのは現代の先進国とは大違いでした。


 そんなモルトケに対しヴィルヘルム国王はこの年の8月、普墺戦争で第二軍が戦ったトラテナウやナーホトにほど近いシュレジェンのクライザウ(ポーランド・ヴロツワフ南西、シュフィドニツァ南東のクシジョバ)に所有していた荘園を下されました。モルトケは貴族とは言え父祖から継ぐべき土地を持っていなかったため、この所領を下されたことを大喜びし、この後、荘園を深く愛するようになり時間が空けば必ず帰るようになります。


 しかし、これを我がことのように喜んでくれた妻のマリーが、翌68年の暮、クリスマスイブの日に病死してしまいました。


 モルトケの妻、マリーは1826年生まれのイギリス人で、モルトケの実妹が後妻となったジョン・ブルトの連れ子でした。モルトケは「筆まめ」で文才があり、妹に送った数々の手紙を読んだマリーがその詩的な文章に惚れてしまい、猛烈なアタックの果てにモルトケのハートを射止め16歳で結婚しました。

 当時のモルトケは、あのカール王子が若き軍団長を務める第4軍団の作戦参謀で42歳、少佐に進級したばかりでした。また、ベルリン・ハンブルク鉄道の理事を務めていたころでもあります。


挿絵(By みてみん)

モルトケ夫人マリー(結婚時16歳の肖像)


 マリーの性格は快活で楽天的ですが頑固な面もあり、また賢く周囲への気配りが効く女性だったといいます。おしゃべりも好きでしたが、堅物で表情も変えず一日中全くしゃべらない夫と一緒でも常に微笑みを絶やさず、決して嫌な顔一つしなかったそうです。

 また、軍事の天才と呼ばれた夫の著作を読破し、フリードリヒ大王の古戦場巡りをする夫に同道し、夫がポツリポツリと語る大王の業績に感銘した彼女が、大王が眠る墓陵の棺にキスしようとして衛兵に慌てて制止される、といった逸話もあります。

 夫が一人窓辺にたたずんで物思いに耽っていると、そっと背後から忍び寄ってその肩を叩き、夫が驚いて振り向くと「あなたのように物思いに耽ると周りが見えませんことよ」などと言って微笑んだ(指揮官は細部に拘らず全体を眺めよ、と記述していた夫をからかったのでしょう)、という茶目っ気のある逸話も残しています。モルトケも妻と一緒にいる時には周囲が驚くほど表情が柔らかくなり、滅多に笑わない彼が大笑いする場面もあったそうです。


 こうして26歳差の「幸せな歳の差婚」は、若い方の妻が亡くなってしまうという悲劇で終わってしまいました。あのケーニヒグレーツでも顔色一つ変えなかった冷静沈着さで尊敬されていた参謀総長も、この時ばかりは取り乱しました。モルトケは「彼女は誰よりも幸福な一生を送った」と自らを慰めましたが、静かに嘆くさまは周囲に憐みを呼びました。

 マリーはモルトケ自らが設計しクライザウの屋敷近くの丘の上に建てた小堂に葬られます。41歳でした。

 ふさぎ込んで元気のない参謀総長の様子を聞き及んだヴィルヘルム1世は陸軍に命じ、軍人だったマリーの異母弟(実妹の息子なのでモルトケにとっては甥。ただし後の参謀総長小モルトケとは別人)を参謀本部参謀長付きに異動させ副官とし、モルトケを励ましました。またモルトケ自身も一人ぼっちの邸宅は寂しかったのでしょう、マリーの弟妹とその娘たちをクライザウに呼んで住まわせたのでした。


挿絵(By みてみん)

マリー・フォン・モルトケ(晩年の肖像)


 このような個人的な悲劇の中でも、世界情勢は容赦なく波乱に満ちて動いて行きました。


 この普墺と普仏両戦争の戦間期、モルトケは重要な書籍を二冊上梓しています。

 まずは普墺戦争をまとめた「ドイッチェラントにおける1866年の戦争」(1867年)で、これは普墺戦記であると共に冷静な軍事分析であり、オーストリアの敗因とプロシアの勝因、そしてプロシアに足りなかったものや欠点を浮き彫りにしました。

 もう一冊は「高級指揮官たちに与える教令」(1869年)で、モルトケが考える「分進合撃」や「短期集中決戦」、「委任命令」や歩兵、騎兵、砲兵毎の戦術と部隊編成、行軍などが細かく描かれており、これはそのまま直後の普仏戦争に反映され、後のドイツ帝国軍の指針となって行きました。


 モルトケは普墺戦争直後から近い将来の対フランス戦は避けられないと考え、この戦間期に参謀本部を挙げて着々と準備に入っています。

 また、普墺戦争の結果ザクセン王国を含む北ドイツがプロシアの配下となったことで、プロシア軍も大きく変革して行きます。

 更にプロシアと攻守同盟を結んだ「南ドイツ」軍は、北の連邦発足以来3年間、プロシア軍と会合を持ち、秘密裏に演習も行って普墺戦争での敵味方という軋轢を「ライバル」程度にまで落ち着かせることに成功していました。

 また、ザクセン王国を筆頭に北ドイツの諸侯の軍隊はすっかりプロシア軍と同化していました。

 この「新制プロシア軍」はそれぞれの地域、公国などの領域で軍の管区が分けられ、軍団長や師団長など上級指揮官こそプロシア出身の士官が多かったものの旅団以下では元の領域に属した士官が兵を率いたので混乱は少なかったようです。プロシアの上級指揮官たちもモルトケの指示をよく守り、各領邦のプライドを傷付けぬよう慎重に対応し、部下との親睦に努めたようです。

 また、これらドイツの軍は常備軍であり、根幹となる部隊は動員前から定員数で充足され、訓練も常時行われていました。しかもこの常備部隊にはデンマークやオーストリア戦を戦い抜いた将兵がベテランとして残っていたので、新兵に戦場の有様をよく教え、いつでも準備万端といった状態でした。

 

 モルトケ大将は、普墺戦争で露呈したプロシア軍の欠陥を、「次のフランス戦までに改善する」ため、参謀たちの尻を叩き、ローン陸軍大臣らと協議を繰り返して難問を一つ一つ解決して行きました。


 改善の中心となったのは、完全なる勝利に見えた普墺戦争で、モルトケが大いに反省した次の三点でした。


 1・野戦部隊に対する参謀本部の「権威」が劣り、参謀本部の作戦命令が徹底されなかったこと

 2・鉄道輸送がハード面(敷設距離や敵の妨害による通行不能など)とソフト面(ダイヤ運行や列車編成など)で未だ満足出来るレベルではなかったこと

 3・砲兵部隊が敵オーストリア部隊と比べ、著しく劣っていたこと


 まずはこの三点を改善すべくモルトケは心血を注いだのでした。

 

 一番目の参謀本部の権威強化に関しては、前述の通り普墺戦争の結果、モルトケの名が内外に響き渡り、指揮官が一目置き、参謀たちも自信を付けたことで改善して行きます。

 旧弊頑迷な「ご老体」が隠居し、新たに昇格した若手の士官たちは真の意味での「共同責任」と「委任命令」というグナイゼナウ以来伝統の参謀本部方針を理解しており、これが次第に下部部隊へと浸透することで後にドイツ軍が「士官が全員倒れても兵士だけで戦う」と言われるような精強さの元になるのでした。


 二番目の補給問題は、鉄道網を更に充実させ、通信線も最前線まで確実に延ばすことでハード面を強固にし、鉄道ダイヤの欠陥や運送の計画などは根本から見直され、改良が加えられていきました。

 これにはクルップを始めとするプロシア工業界の急速な発展と軍への協力が大いに役立ちました。これら重工業の大立者たちは軍の引き立てによって自分たちも財閥を形成し、ドイツ帝国を更に強力な存在として行くのです。


 同じく三番目の改良も急速に進みました。普墺戦争当時は新式砲として一部にしか配属されなかったクルップ鉄製後装砲は、今や全ての砲兵部隊に行き渡り、激しい訓練によって砲兵は鍛え上げられていました。

 クルップもまた次々に改良を加えて、プロシア製の大砲はますます精度と威力を増していました。自信を付けたプロシア砲兵たちは、煮え切らなかったケーニヒグレーツの砲激戦のような失敗を二度とするものか、と燃えていたのです。 


 こうしたモルトケによる施策も70年前半には大方完了しており、補給路はフランス国境まで完全に整備され、鉄道も縦横に走っており(フランス国境まで6本)、参謀本部鉄道課とプロシア国鉄は66年のボヘミアにおける補給の失敗を繰り返すものかと張り切っていました。

 当然、電信は当時と比べ格段に進歩しており、その通信線も補給末端駅まで完全に延びて、全国と結んだ通信線は、あのオーストリアとの戦いよりはよほど役に立つはずでした。


 そんな中、モルトケが唯一心残りだったのは小銃で、これは普墺戦争当時の「ドライゼ小銃」のままでした。

 マイナーな改良こそ行われていましたが、未だ短い射程や折れやすい撃針、かさばる長さ、頻繁な手入れを要するなどの根本からなる欠陥は解決されていませんでした。

 フランスがドライゼ銃を性能で大きく引き離す新式のシャスポー小銃(後述)を配備していることを考えると、これは大きな不安要素となります。モルトケとしては、この基本兵器の優劣が、ドライゼ銃を20年に渡って使用しているプロシア兵の習熟度と作戦の差で埋まることを期待するしかありませんでした。


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