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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・動員と展開
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猛るフランス(前)

 7月13日朝に起きた保養温泉地エムスでの国王と大使の散歩が、わずか3日でフランスの動員令へとつながるのは、平和な国からみれば非常に奇っ怪と映ります。

 しかし、積み重なった怨念が緊張の風船を膨らませ続けて来たことを考えると、これもプロシア、フランス双方が緊張緩和に動かなかった、つまりは風船のガス抜きをしなかったことを思えば実に当たり前な出来事だったのかもしれません。


 ちなみに、この時代から様相を変えた戦争において、一度「動員令」が掛かるともう戦争は必至でした。軍隊が国境に向けて動き出せば、それは即ち戦争開始の合図だったのです。


 現代と違い、インテリジェンス(偵察や情報収集)という行為が限定的だった時代です。敵がどのように動いているのか定かでない場合、最悪の場合を想定し動かねばならず、ぐずぐずしていたら奇襲を受けてしまいます。宣戦布告など飾りに過ぎず、動員を掛けることは国家的大事件で隠すことも出来ませんから、これは必ず敵国に伝わりました。

 国が動員令を掛け、普段は一般市民の予備役兵士を集合させることは、既に戦争準備に他ならないので、この時代は宣戦布告前に動員令がかかり、それをもって戦争状態に入った、とみなされていたのでした。


 この「普仏戦争」に至るまでのフランスの動きは、ポピュリズムが一国に破滅をもたらす典型的な例と言えるでしょう。


 13日、エムスでのヴィルヘルム1世とベネデッティの散歩の日、フランスでは表面上何の動きもありませんでした。

 パリ市民はまだ早朝に起きた出来事を知りませんでしたが、ナポレオン3世の政府はベネデッティからの簡素な報告を受け、追い掛けるようにスイスのベルン駐在公使から「スイスの新聞がスクープとして『エムスの電報』なるものを伝えているが、それは最悪の内容だ」との至急報を受けて閣議を召集しました。


 確かにスイスから伝えられたその新聞の記事は「最悪」でしたが、その「電報」の本文を読んで確認していない以上、政府は何の動きもとれませんでした。

 この日深夜(午後11時)テュイルリー宮での閣議までにはベネデッティの詳細な報告が届きますが、ヴィルヘルム1世の対応にもベネデッティ自身にも何の問題は見られず、閣僚は依然戦争回避派が多数でした。


 こうしてこの夜は何事もなく過ぎて行き、パリは14日夜明けを迎えます。


 ところが、この14日早朝、事態は急変します。

 ベルリンのベネデッティから、プロシア政府により「エムス電報」が公表され、いち早く政府系御用新聞の「北ドイツ新聞」が大々的に掲載しフランスを非難している、と伝えて来たのです。

 その内容を見た閣僚たちは唖然としていました。スイスのスクープは大当たりだったのです。


 この緊急事態を受けて午前9時にテュイルリー宮で始まった閣議でこの問題は討議されますが、未だエミール・オリヴィエ首相を中心とする避戦派の方が数多く、主戦論者のグラモン外相がいくら「プロシアを押さえるチャンスは今しかない」と訴えても、戦争に消極的な首相を始め、多くの閣僚は首を横に振るだけでした。


 しかし、昼の休憩を挟んで会議室に戻って来た彼らは顔色を変えていました。

 このテュイルリー宮の周辺は大群衆に埋め尽くされ、その多くが「プロシアを倒せ!」「ビスマルクを倒せ!」「ベルリンへ!」とありったけの声で連呼していたのです。


 この群衆の光景は政府機関の建物の周囲やナポレオン3世の宮殿ばかりでなく、パリ中至る所で見られました。

 その光景はフランスのここ一世紀の歴史に育まれた「革命の遺伝子」に依るものとしか思えないものでした。閣僚たちは大群衆の姿を見、叫びを聞いて革命を想い出し呆然としてしまったのです。


 午後からの閣議は完全に主戦派が優勢となります。一気に歯切れが悪くなった避戦派をよそに、グラモンたちは強く開戦を主張し、避戦派の「不甲斐なさ」を非難します。


 避戦派の中心、オリヴィエ首相は防戦一方となり、首相は身に覚えのないこと(ベネデッティ大使にプロシア国王への会見を命じたのは外相のグラモンで、このことはオリヴィエ首相には知らされていなかったのです)で責められ続けました。首相はもちろん反論し、これは私に対する侮辱だと外相を非難します。論争は続き、首相も外相もプライドを賭けて非難の応酬を続けたのでした。

 しかしオリヴィエが一国の首相という立場は変わらず、事情を知らない閣僚たちが見れば、嘘を吐いて責任逃れをしている姿にしか映りません。


 皇帝が人気取りのために自分を首相の地位に就けたことは百も承知のオリヴィエでした。政治の裏側や汚い駆け引きも良く知っているオリヴィエでしたが、それでも自らの信じる平和で穏やかな改革を目指しました。

 しかし、所詮オリヴィエはお飾りの看板であり、内実はウジェニー妃率いる反プロシア・皇帝擁護派の影響力を排除することなど出来る訳がありませんでした。

 潔白なオリヴィエは濡れ衣に憤慨しますが、民衆を味方に付けたグラモン一派には勝てず、ついに沈黙してしまいます。閣議は完全に主戦派が主導権を握ったのです。


 勢いのまま閣議はプロシア、即ち「北ドイツ連邦」との開戦を覚悟しました。首相に代わって我が物顔のグラモン外相は、宣戦布告の理由付けと軍の動員に関する議論を誘導して行きます。


 別項で詳細をお話ししますが、この1870年当時のフランス陸軍は、既にプロシア陸軍と呼んでも良い北ドイツ連邦軍と比べて、通常の体制に大きな問題を抱えていました。

 平常時の軍隊は軍団や師団の形を取らず、連隊を主幹とするものでした。戦時に当たって軍団編成を取るので、動員は複雑かつ詳細なスケジュールに従って動かなくてはなりません。しかし、そのスケジュール通りに物事が進むかどうかは部分的な演習すら行われないまま誰にも検証されず、机上のプランとして陸軍省にしまい込まれたままでした。


 ところがどういう計算か根拠か分かりませんが、陸軍大臣ルブーフはグラモンの質問に対し「動員は可能だ」と即答します。ただし、結果の責任は一人で負いたくないルブーフ大将は、「動員令は閣内一致でお願いする」との条件を突き付けました。ひょっとするとグラモンとルブーフら強硬派の、避戦派を戦争へ追いやる作戦だったのかも知れません。

 閣内一致の条件を聞いたオリヴィエ首相は、ここで最後の抵抗を試みます。迷いに迷っている避戦派の閣僚と共に議論を蒸し返し、再びプロシアの強大さ故に現時点での開戦はフランスを苦境に陥らせるだけでここは我慢が必要、と訴えたのです。

 折しも居城のサン=クルー宮殿からナポレオン3世の使者が訪れ、「皇帝陛下は涙を浮かべながら、この難局を打開するためイギリスやロシア、オーストリアなどを招聘した列強会議を開催したい、と仰っておられます」との話を閣議に持ち出すのでした。


 皇帝は危機がヒートアップした14日からサン=クルーに籠もったままで、閣僚とも会おうとしませんでした。

 この数日、スペイン問題で頭が痛い皇帝は気分が優れず、非常に落ち込んでいました。皇后が何度も背中を押しても執務場所であるテュイルリー宮へ向かおうとせず、皇帝不在で閣議を続ける首相たちの動静を、時折途中経過を聞きに伺う副官から聞くばかりだったのです。


 しかし、もはや流れは一国の主である皇帝にも止められない段階にありました。皇后のお墨付きもある外相ら強硬派は、パリ住民の「プロシア憎し」の流れに乗って皇帝の意向を無視し、午後4時に予備役の動員令を閣内一致として決定してしまうのです。

 続いて閣議は明日朝に下院を召集することを決めます。

 議題は「今時プロシアの動きに対してフランス帝国はどう動くのか」という事と、皇帝が要求している「列強会議にこの問題を委ねるか否か」という事でした。


 午後6時過ぎ、ルブーフ陸相宛に皇帝からのメモが届けられ、そこには「予備役召集は承認出来ない」と書かれていました。ルブーフは舌打ちするとグラモンと相談し、一端閣議を中断、皇帝を説得すべくサン=クルー宮に急ぎますが、ナポレオン3世は既にパリへの馬車の中でした。

 

 しかしこの閣議の中断中、閣僚たちは再び荒れ狂う民衆の姿を前にするのです。暴徒と化した一部は遂にプロシア大使館を襲って外装を壊し窓ガラスを粉砕、投石を繰り返していました。

 閣僚たちが民衆の状態を見聞きしたことが彼らのプレッシャーを高めます。これで避戦派もおとなしくなってしまいました。


 午後10時、閣議は再開されます。再び予備役の動員令を発するかどうかを蒸し返す閣僚がいましたが、既に同調するものは少数でした。するとここでグラモン外相に3通の電報が届き、直ちに開封した外相は閣議に内容を伝えます。

 1通目は未だエムスに留まっていたベネデッティから、2通目はスイスのベルン駐在大使から、3通目はバイエルンのミュンヘン駐在外交部からでした。

 それら3通の電報は全て同様の内容を記していたのです。

 即ち、「北ドイツ連邦軍は動員を開始」して「南ドイツの世論もプロシアに同調し」ており「もはやドイツ全体はフランスとの戦いを覚悟したに等しい」と。

 センセーショナルな内容でしたが、予測されたことでもあり、これが決定打となりました。


 しかし、この14日深夜の時点では、未だプロシア軍に対する動員令など出ておらず、世論は激高していましたがドイツ各国の政府は未だ議論の最中でした。

 これら電文は憶測を大いに含んでいて、各地のフランス外交官たちが敵意に囲まれ圧迫された心理状態で発した「不安」から「こうなるに違いない」と信じて「一歩先」に伝えた、正に「勇み足」だったのです。

 

 しかし、自国民の怒りを目の当たりにしていたフランス政府の閣僚たちも同じ心理状態にありました。

 避戦と宣戦との間で丸一日激論となった閣議もここで一気に決着します。動員令は閣議で正式に決定され、軍に対しては直ちに取りかかるよう陸相からの秘密指令が飛びました。動員令は名目上、明日15日の議会に託される事となり、ここで閣議は終了したのです。

 この閣議中、パリ駐在イギリス大使のリオン卿はグラモン仏外相宛にメモを送り、そこには「イギリスはフランスがこの問題を冷静に考えて自重することを望む」との内容がありましたが、グラモンは握りつぶしてしまうのです。


 オリヴィエ首相のこの日の回想に、その苦悩がにじんでいます。彼はこう書き残しました。


「内閣が多数派である開戦派を満足させる決定を下さなかった場合、内閣は辞職せざるを得なかっただろう。私には開戦がフランスに不利な状況であることは分かっていたが反動的となった内閣は進んで開戦を決めるしかなかった。

 開戦は決定し、避けることは不可能だった。どのような者でもあの狂騒の中で戦争を避けることなど出来なかった。戦争が避けられないならば、それを望む大衆に従うしかなかった。この時点で我々が退いたりしたら、国家は落胆し、軍は士気を失い、フランスの権利と大義に対する背信行為となってしまっただろう」


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