エムス電報事件
12日夜。フランスの駐プロシア大使、ヴァンサン・ベネデッティ伯爵はフランス外相アジェノール・ド・グラモン伯爵より訓令を受けます。外交用の電信で送られた機密電文を見たベネデッティはきっと顔を曇らせたことでしょう。そこに書いてあったのは非常に困難で、扱い方によっては国際紛争が起きかねない危険な任務だったのです。
ヴァンサン・ベネデッティ
ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家当主カール・アントン侯が発表した子息レオポルト公のスペイン国王立候補の辞退はプロシア宰相ビスマルクとフランス皇帝ナポレオン3世(と言うより皇后ウジェニー?)にとって「残念」な発表でした。
プロシア側(というよりビスマルク)はレオポルト公がスペイン国王になることでフランス世論を怒らせ、ナポレオン3世を更に追い込むことを期待していましたがあてが外れ、
対するフランス側は「散々フランスに煮え湯を呑ませてくれたプロシアの威信を傷付ける」ことを欲し、相手が屈辱に沈むさまを見たがっていたのです。
既に北ドイツをまとめてプロシア王国が強豪国の仲間に入っただけで満足していたヴィルヘルム1世は、フランスに対しても宥和を図ろうとしていました。レオポルド公がスペイン国王となることで対フランス関係が悪化することが気掛かりだったのですから、王はフランス側の「いちゃもん」を受けるや威厳を失わない程度にさっさとこの問題を片付けてしまいました。
これはウジェニー皇后ら対プロシア強硬派にとって随分物足りない幕引きでした。こんなものではフランスの威信は回復しない、小癪な成り上がりのプロシアをもっと侮辱してフランスがヨーロッパ一の強大国だということを示さなくては。そうだ、ヴィルヘルム王から謝罪の言葉を引き出そう。
ウジェニー皇后は皇帝に対し、「プロシア国王から、もう二度とプロシア王家からスペイン王位には立候補しない、との言質を取り、二度とフランスを怒らせる真似をしないよう約束させましょう」とせき立てます。興奮した世論も気になるナポレオン3世は皇后の言いなりに外相に命じてベルリンのベネデッティへ訓令を飛ばしたのでした。
一方、エムスの湯に浸かるヴィルヘルム1世は、やれやれこれで騒動も収まるわい、とほっとしていました。しかし、国王が休まることは無かったのです。
7月13日の朝9時10分過ぎ。ヴィルヘルム1世が朝の散歩を楽しんでいると、このエムスの散歩道の先に「今は見たくない」人物を認めました。一瞬立ち止まり掛けた国王でしたが気を取り直し、そのまま先へ進みます。ひょっとすると「謝罪」のひとつでも言いに来たのかもしれないではないか。そう思った国王は恭しく頭を下げて迎える人物に自ら声を掛けました。
「おはよう、ベネデッティ卿」
「おはようございます、陛下」
それから十分ほどの間、フランス大使はプロシア国王に随伴して話し合います。
ベネデッティは「ヴィルヘルム1世自らの口からジグマリンゲン家レオポルト公のスペイン国王立候補取り止めを宣言してもらいたい」こと、「レオポルト公の立候補はフランスの利害を侵害したり名誉を失墜させたりするために行われたものではない、という確証を与える」こと、「王家の者が同様な立候補をした時には必ず反対すると宣言する」ことを国王に求めました。
これを聞いていた国王は顔を真っ赤にしますが、ぐっと堪えて「私の下には未だレオポルトからの書面は到着していないが、どうやら卿は詳細を知っている様子。ならば私がこの問題にこれ以上関与する必要もないことが分かっているはずだ」
そしてこう続けます。
「私は以前レオポルトの立候補を許した時と同様、その辞退も許すだろう」
これで満足だろう、とばかりにベネデッティを押し退け、国王は去りました。
エムスでのヴィルヘルム1世とヴェネデッティ大使
ヴィルヘルム1世が怒りを沈めようと休んでいるところへ昨日付けのレオポルトの書状(正式にスペイン国王候補からの辞退を伝える手紙)がジグマリンゲンから届きました。
国王はベネデッティが伝えたフランスの無礼千万な要求を考慮に入れながら、王の保養に付き従い同行していた、侍従長(ビスマルクより送られた私設秘書、と言った方がより正確かも知れません)のハインリヒ・ヨハン・ヴィルヘルム・ルドルフ・アーベケンとプロシア内相のフリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルク伯爵(1861年に来日し江戸幕府と日普修好通商条約を締結した方です)と話し合います。
オイレンブルク
二人の側近は、これ以上のフランス大使との会見は拒否した方がよいでしょう、と上申し、国王の承認を受けた内相は国王の高級副官(Generaladjutant)でポーランド系貴族のアントン・ヴィルヘルム・フォン・ラジヴィウに「大使がパリより得ていた知らせをレオポルト公よりの書面で確認したので、これ以上大使に伝えることは無い」との書状を持たせ、ベネデッティの宿へ走らせました。
ヴィルヘルム1世は立腹していたせいもあるのでしょうが、「これは外交問題ですので」との侍従長や内相の助言もあって、今度はこの一件をビスマルクへ伝えることにします。
この日の経緯はアーベケン侍従長により電報でベルリンのビスマルクへ伝えられました。電文は侍従長自らが起草してビスマルクに宛てて打電したものです。
その電文の最後には「この一件を各国大使や新聞に伝えるかどうかはビスマルクに任せる」とあり、公表する場合どのように公表するかの判断もビスマルクは一任されていました。
アーベケン
この電報はこの13日夕方、ベルリンのビスマルク邸に届けられました。
ちょうどその時、ビスマルクはローン陸相とモルトケ参謀総長らとテーブルを囲んで会食の真最中でした。
侍従長からの至急報にビスマルクは食事の中断を詫びると電文を開き黙読します。やがて電文をテーブルに広げると内容を二人に言い聞かせました。ローンもモルトケもこれを聞くや食欲を失ったようにフォークを置き、椅子に深く座り込んでしまった、と言います。
するとビスマルクはモルトケに、
「連邦軍は開戦準備にどの位かかるものですか?」
と尋ねました。ローンは鋭い視線を宰相に向け、モルトケは怜悧な眼差しを光らせて答えます。
「こうなれば一刻も早い動員令が必要でしょう。遅れるよりはましです」
参謀総長の顔には一点の不安も覗いていませんでした。ローン陸相も厳しい顔付きを変えません。彼らはこの一瞬でフランスとの開戦を決意したのでした。
そしてビスマルクは後の世に「政治的謀略」の「恐るべき一例」として記憶される電文の「ダイジェスト改変」を行うのです。
以下はアーベケン侍従長がビスマルク宰相宛てに発信した電文です。
分かり難い部分は()で補足します。
「エムスにて発信、1870年7月13日。国王陛下から私(侍従長)あてに次の書面を頂きました。『ベネデッティ伯が散歩道で朕を待ち受けており、最終的に執拗に朕に対し次のことを要求した。すなわち、ホーエンツォレルン家が改めて立候補することがあっても、陛下が将来にわたって決してそれを承認しないことをお約束なさると、直ちにパリに打電する許可をいただきたい、と。朕はついに最後には多少厳しく伯を退けた。そのような義務をいつまでも負う必要はないし、それは出来ないからである。もちろん朕は伯にまだ何の知らせも受け取っていないし、伯のほうがパリとマドリードの情勢につき朕よりも早く情報を得ているようなので、朕が関与する必要がないことがわかるであろうと言った。』その後、陛下のもとに(レオポルト)公よりの書状が届きました。陛下はベネデッティ伯に、自分は公からの知らせを待っているところだと既に伝えたことでもあり、前述の無理な要求をお考えになられ、また、オイレンブルク伯(内相)と私との上奏を考慮せられて、ベネデッティ伯とこれ以上の会見はしないこととし、副官を通して伯に次のことを伝えました。すなわち陛下はいま公からの書状によりベネデッティ伯がパリより得た知らせを確認したので、これ以上は何も大使に言うことはない、と。ベネデッティ伯の新たな要求とその拒絶を直ちに我が国駐在の大使と新聞に伝えるかどうかにつき、陛下は閣下(ビスマルク)のご判断に任せると仰っていられます。アーベケンから。」
以上の侍従長からの電文を、ビスマルクは次のように「まとめて」しまうのです。
「エムスにて発信、1870年7月13日。スペイン王国政府からフランス帝国政府に対し、ホーエンツォレルン王子が断念したという知らせが伝えられた後にもフランス大使はエムスで陛下に更に次のことを要求した。すなわち、ホーエンツォレルン家が改めて立候補することがあっても、国王陛下が決してそれを承認しないことを将来に渡って約束すると、パリに打電する許可をいただきたい、と。その後、国王陛下はフランス大使と会見することを拒絶し、勤務中の侍従を通して陛下は大使にこれ以上何も伝えることはない、と大使に伝えさせた。」
一見、普通に「省略」したかのように見えます。しかし、これは現代でも時としてマスコミに登場する「悪意ある」省略で、これの原文(侍従長ヴァージョン)を知らない者が読むと、本来国王が大使より受けた行為の無礼度が高まり、また、国王が大使に対して「最後通牒」を突き付けたようにも取られる文面になっているのです。
ビスマルクの恐ろしい改変の問題とされる部分は次の二点です。
1・侍従長が発信したことが分かる部分を完全にカットした。
これは、この電報をヴィルヘルム1世が自ら発信したかのように映ります。
2・国王自身はベネデッティ大使に「今後会見しない」とは言わなかったのに、改変文はさも国王が「もう会わない」「何も言うことはない」と言ったように読める。
これは正に国王が大使に「最後通牒」を突き付けたように見えます。
実際は、ヴィルヘルム1世は散歩がてらに話すのはここまでで、これ以上は外交問題なので双方が大臣クラスの話し合いをすればいい、と考えていたと思います。ですから「もう会わない」などと言っているのではなく、「微妙な部分は今後政府間の協議にしなさい」との意味で「これ以上(国王として大使に)話すことはない」としたのです。多分、この意味は長年プロシアに駐在するベネデッティには良く伝わったのではないか、と思います。
本当は侍従長が国王の意を受けて打った電文が、まるで怒り心頭の国王から直接宰相に宛てて打ったかのような内容の短縮。これをそのまま読んでしまえば、プロシア国王は今後フランスとの交渉を一切拒絶する態度に出、この後には国交断絶=戦争が待っているかのような印象を与えるのです。
翌7月14日朝。ビスマルクは新聞各社に昨日宛ての「エムスで静養中の国王からの電報」として「省略ヴァージョン」の「エムス電報」を配布しました。また、同時に各国大使館へこの電文を送付したのです。
ビスマルクはアーベケン侍従長からの電報原文を宰相の執務室の金庫に入れて封印してしまいました。
この電報のニュースはこの日夕方にはドイツは元よりヨーロッパ各国に広まって行きました。この電文が意味する「恐怖」に気付いた人々は一斉に叫び出しました。
「これは!戦争が始まるぞ!」
エムスのヴィルヘルム1世は、翌15日の朝刊「ケルン新聞」の一面に躍る「エムスにて」の文字に思わず立ち上がり「これは戦争になるぞ!」と叫びました。
国王は一体何でこのような記事となったのか、戸惑いを隠せない様子だったと言います。
また、フランスでは大手通信配信社「ハバス」(現在は広告代理店)の翻訳記事が全土の新聞に配信されましたが、電文の翻訳中、ベネデッティ大使に国王の意を伝えた「副官」(Generaladjutant)または「侍従」(Adjutant)がフランスでは「侍従武官」(Aide-de-camp)か「副官」(Adjutant)と訳されるべきところ、「下士官」(Sous-officier)と訳されてしまい、これが「一国の大使に格下の伝令を送った著しく無礼な態度」と思われる、という「火に油を注ぐ」事態となったのでした。
ここにビスマルクの謀略「エムス電報事件」は、フランスとドイツを一気に戦争へと押し出すことになったのです。




