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ウジェニー皇后・嵐の前

 正に一触即発の事態となると、表面上ナポレオン3世はここ数年の鬱積を一気に晴らす好機とばかり前のめりに突き進んだかのように見えます。

 しかし、その裏には「コンダクター」の存在がありました。


 ナポレオン3世の一生を見ると結局、史上に残る天才で余りにも偉大過ぎる伯父(ナポレオン1世)の背中を追い続けて朽ちて行ったようにも見えます。

 ナポレオン3世には偉大なる才能などカケラも見えません。あるのは小賢しい処世術と歴史上の人物となった伯父の威光だけでした。

 しかし、それでもフランスの頂点に立ち、まがりなりにも世界史の一ページを飾ったのは彼の「伯父に並びたい」という異様なまでの願望と、なりふり構わぬ行動力だったのでしょう。

 

 頂点に立つ者には「取り巻き」が付きます。ナポレオン3世にもそうした取り巻きが多くいましたが、実はその中で一番影響力の大きかった者は皇后ウジェニー・ド・モンティジョでした。


 スペイン貴族の父とスコットランドとスペインのハーフだった母から1826年に生まれたウジェニーは、スポーツの得意な活発な少女に成長し、イギリス留学を経てフランスで学び、メリメやスタンダールといったフランスの文豪たちとも親交を持つ聡明な淑女になります。


 21歳で「テバ女伯」や「モンティホ女伯」という称号で呼ばれるようになると、その美しさと男勝りの強い態度から求婚者が相次ぎますが全て断り、社交界では「鉄の処女」と陰口を叩かれるようになりました。

 情熱のスペイン人らしく姉の許嫁を好きになり、姉がその人(アルバ公ヤコポ・フィッツ)に嫁ぐと失意の余り、タバコを吸いながら男装しマドリードの街や闘牛場に現れたり、鞍も付けない馬に跨り街を駆け抜けたりと「おかしな」状態が5年も続き、ようやく姉夫妻を許して仲良しになる、といったこともありました。求婚者を振り続けたのはこのアルバ公への愛があったからでしょう。


 この少し前、母と共にフランスで暮らしていたウジェニーは48年、フランス大統領に就任したルイ=ナポレオンと出会います。この時は別段後の縁談に結びつくようなエピソードは見られません。直後、彼女は姉夫妻が原因の奇行に走り、ルイの方はトントン拍子に皇帝へと駆け上りました。

 ナポレオン3世となったルイは、その異常なまでの無類の女好きが災いしてか、それまでは未婚でしたが、いよいよ年貢の納め時とばかりフランス皇后にふさわしい妃を迎える準備に入りました。

 しかし、伯父の「七光り」で皇帝に駆け上った当時44歳のナポレオン3世に、ヨーロッパの名門王家はソッポを向きます。

 各国国王直系の娘や孫は出して貰えず、ようやくスウェーデンからカロラ・フォン・ヴァーサ(旧スウェーデン王家に連なる貴族の娘で、後に普墺・普仏戦争で活躍するザクセン王国皇太子アルベルトの妃)、イギリスからヴィクトリア女王の姪に当たるアーデルハイト(ドイツ・ライゲンブルク候の娘で母が英女王の異父姉、後のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の妃アウグステ・ヴィクトリアの母)という申し分ない候補者二人が示されましたが、ナポレオン3世はこれらの候補者に丁重な断りを入れてしまい、「私は、私のことを知らない女性よりも、私自らが愛し、尊敬する女性を望んでいた」と求婚したのはウジェニーでした。

 53年1月、ノートルダム寺院で皇帝の結婚式が行われました。ウジェニーとしてはアルバ公を忘れるためにも彼より相当位が上の男の妃となる道を選び、ナポレオン3世は彼女の賢さや強い性格、そして美貌に惚れてしまった、ということでした。


 しかし、この結婚は内外共に批判に晒され、国内では「あのナポレオンの名を継ぐ皇帝が、スペインの名家とはいえ王族でない女と結婚するとは!」と嘆きの声が上がり、メンツを潰されたスウェーデンとイギリスのマスコミはこの「身分不相応な結婚」を攻撃し、ヴィクトリア女王も「下品で気が利かない結婚」と非難しています。

 ウジェニー皇后はそのヴィクトリア女王と55年、夫皇帝と共にロンドンで謁見しますが、恐る恐る進み出たウジェニーに対し、最初こそ冷たい態度を装った女王でしたが、話す内にウマが合い、ヴィクトリア女王とウジェニーは生涯の友人となりました。56年には皇子ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト(ナポレオン4世)を生んでいます。


 ウジェニーはその気高さと美貌、男勝りの勝気で、元より無口ではっきりものを言わない夫を盛り立てて行き、「ナポレオン3世時代」の華やかな部分を象徴する存在として輝きますが、やがて皇帝を「操縦」するようにもなって行きます。スペイン人の血はローマ教皇の熱心な擁護者となり、カソリックを護る気持ちはやがて皇帝にメキシコ出兵という「悪手」を打たせることとなりました。


 このメキシコ出兵に失敗し、メキシコ皇帝となっていたオーストリア皇帝の実弟マクシミリアンが銃殺されるとオーストリアとの仲も悪くなり、ナポレオン3世は精神的にも追い込まれ覇気もなく、それに持病の腎盂炎も悪化したことで執務もおぼつかないことがあり、政権は次第に不安定となりました。

 勝気なウジェニー皇后は皇帝の威信回復に全力を尽くし、皇帝の取り巻きを丸めこんで次第に「執政」に近い存在となって行きます。フランス帝国は経済的にもこの辺りから伸び悩み、議会も割れて紛糾しますが、帝制を必死で維持しようとするウジェ二ーの努力で辛うじて踏み止まっている状態となります。皇帝の尻を叩いて「ルクセンブルク購入」や「仏墺伊同盟」などの画策をしますが、全てビスマルクに阻止された形で終わりました。


 議会は「旧王党(オルレアン)派」「カトリック系」「共和主義一派」、そして本来の与党と言える「ボナパルト派」が拮抗し、結局これら各派が呉越同舟で政権を維持しているありさま。

 この70年1月には政権が立ち行かなくなり皇帝は悩んだあげくに腹心のルエル宰相を泣く泣く解任、それまで続けて来た親政を止め、「議会との調和を図るため」ボナパルト派でも左翼の穏健自由主義者、エミール・オリヴィエを首相にする、という人気取り政策を始めました。


 ところがこの窮余の一策がまずまず当たって、穏健な自由・平和主義者のオリヴィエ首相は国民からも好意的に捉えられ、5月の選挙ではナポレオン3世を支持する派閥が議席を伸ばします。


 この70年の5月、北ドイツ連邦議会も休会し、プロシア軍も夏季の休暇期間に入ってのんびりとしたもので、士官たちは自分の領地や避暑地で休暇を楽しんでおり、ヴィルヘルム1世はエムスの温泉地で長期休養に入り、ビスマルクはポンメルンの別荘に、68年のクリスマスイブに愛妻を亡くしたモルトケ参謀総長は、ヴィルヘルム1世より恩賜されたシュレジエンのクライザウ荘園の屋敷に引き籠っていました。

 フランスとドイツの間には表面上戦争の暗雲など、どこにも見当たらなかったのです。

 オリヴィエ首相は下院で「このように平穏な日々は見たことがありません」と満足げに報告したほどだったのです。


 この議会選挙勝利は帝政中枢にとって久々に明るい話題で、ナポレオン3世に力を与え、外交でも持ち前の強気の姿勢を見せようと思考を巡らせた直後、このスペイン継承問題が発生したのでした。


 ウジェニー皇后とその一派、外相のグラモン伯や陸相のルブーフは対プロシア強行派であり、世論の後押しもあって対プロシア批判を先鋭化して行きました。

 穏健派のオリヴィエ首相はこれに対し、「プロシア率いる北ドイツ連邦の力はフランスを確実に上回っており、今は忍耐して国力・軍事力を増してからドイツと対決すべきだ」と訴えました。そして何とか鎮静化を図ろうとして戦争を回避するため奔走しますが、既に沸騰した世論は収まらず、また閣内も主戦論が圧倒的で、誰も彼の主張を聞き入れませんでした。

 「臆病者」とまで罵られたオリヴィエ首相は「なら好きにするがいい。私は知らない」とばかりにグラモン伯へ「後始末」を任せて引き下がってしまいます。


 グラモン伯、即ちウジェニー皇后一派は直ちにプロシアへ抗議を行うことを決し、7月7日、駐プロシア大使ヴァンサン・ベネデッティへ、プロシア国王に対し「レオポルト公のスペイン国王への立候補にフランス帝国は断固反対し、候補の辞退を願う」との抗議を行うよう命じました。

 ベネデッティ大使はヴィルヘルム1世国王の避暑地、エムスの御用邸に向かいます。


 現在はバート・エムスと呼ばれるコブレンツ西10キロ、ラーン川岸にあるこの有名な温泉保養地は、元ナッサウ公国領で普墺戦争の結果プロシア領となります。

 世界各国の王侯貴族や有名人が保養に訪れ、その中にはヴィルヘルム1世やロシア皇帝アレクサンドル2世、ロシア文豪ドストエフスキーにツルゲーネフ、ドイツ作曲家シューマンにリヒャルト・ワグナー、フランスの「レ・ミゼラブル」のヴィクトル・ユーゴー、画家ドラクロワなど有名人がズラリといました。日本で言うなら箱根と言ったところでしょうか?

 ここはヴィルヘルム1世お気に入りの保養地で、仲の悪い妃を残しゆったりしたい時に訪れたものでした。

 そこへ旧知の隣国大使が抗議を申し出たものですから、国王もさぞ機嫌が悪かったことでしょう。


 ヴィルヘルム1世はベネデッティに、

「ジグマリンゲン家は確かに王家に連なるが単なる臣下に過ぎない。スペイン人がその家人を推挙して王とするのは彼の国の政治に関わることで、ホーエンツォレルン家の私事ではない。どうして貴国と争わねばならないのか、理解が出来ないが?」

 と門前払いを試みますが、長らく駐プロシア大使を務めるベネデッティは王が頭を冷やす時間を与えるため一旦引き返すと、時間を置いて再度王に謁見、申し訳なさそうに、

「今や我が国の世論は憤激し、貴国と戦争だ、30万の仏軍を動員するぞ、と手が付けられない状態になっています。陛下にはこれをご考慮頂き、善処をお願いしたく……」

 これは下手をすれば脅迫と受け取られても仕方のない行為でしたが、ベネデッティの苦しい立場も分かっているヴィルヘルム1世は大使を追い返しながらも「考えておく」とだけ答えたのでした。


 これをビスマルクに知らせれば、あの宰相のこと、事態をますます複雑にしてしまうはず、と考えた国王は、とは言ってもフランスの言いなりに本家筋へスペイン王位を諦めるよう命じるのは沽券に関わる、とばかりに「レオポルトが自ら国王への立候補を取り下げるよう希望する」との意を使者に託しジグマリンゲンのカール・アントン候へ送りました。これは全くビスマルクには知らせない独断でした。


 カール・アントン侯は国王の意を受け、息子レオポルト公に立候補を断念するように申し伝え、元より気乗り薄だったレオポルトもほっとして了承しました。

 7月12日になってカール・アントン侯は正式に「レオポルトは今回のスペイン国王への立候補を断念する」との決断をスペイン政府に対して行い、レオポルト直筆の報告書を使者に持たせヴィルヘルム1世が滞在するエムスへ向かわせました。


 ビスマルクはこの顛末を後手に聞き、意気消沈します。せっかくの機会があっけなく消えたのでした。しかも国王は独断で事を進めてしまったのです。

 国王の側近から密かに顛末を聞いた宰相は、「国王が私を除け者にするなら」と辞任しようとまで思いつめるのでした。


 ところが、事態はビスマルクすら思いもしなかった方向へと進んで行くのです。



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