レオポルト公の立候補
スペインの政権を奪取したファン・プリム将軍の「象徴である国王」探しは難航しました。
スペインの「正統な」王家であるスペイン=ボルボン家は断絶したのではなく、単にイザベル前女王が「不適格」だったのであり、おとなしい立憲君主となるには息子のアルフォンソも母の意向を強く受けるはずなので、これも「不合格」となっただけです。
ですからヨーロッパに数多く残されたスペイン=ボルボン家との親戚筋や血統から近い名門貴族家は多数あり、その分候補には不自由しませんでしたが、逆に牽制しあったり不安定なスペインの情勢から将来を不安視して辞退したりと国王選びは非常に流動的となります。
そのなかでポルトガルの王父が推薦したホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家のレオポルト公は、ファン・プリムらスペインの新執行部としても申し分ない人選だったと言えます。
このプロシア王家の本家筋に当たる名門家は、イザベル前女王のスペイン=ボルボン家とは縁遠く、ルターの宗教改革以降プロテスタントが主流となったドイツにおいて頑なにカソリックを貫き通していました。既に他国の国主も出しており、それはレオポルトの実弟だったので(ルーマニア公カロル1世)、カソリックの本流、スペイン国王としてはなかなかの人選でした。
しかも妻はポルトガルのブラガンサ王家、これは見事にプロシアとイギリス王家の血統であり、スペイン=ボルボン家とも閨閥がありました。
レオポルド自身の立場は微妙なバランスの上にあり、一応プロシア王家に連なるものですがジグマリンゲン家はシュヴァーベン系ホーエンツォレルン家の支流に当たり、現プロシア王家のフランケン系ホーエンツォレルン家との血縁は遠いものでした。
つまり、この夫妻に影響を及ぼす可能性があるのはイギリスとプロシアですが、その縁故は両国が直接傀儡とするには弱く、かといっていざとなったら夫妻は救いの手を期待出来る(一番の可能性は亡命先)という感じだったのです。普段はウルサい親戚筋は黙っていて、危機の際にバックにプロシアやイギリスが立ち、お隣のポルトガルも敵対することはないだろう、という絶妙な立ち位置でした。
ファン・プリムはさっそく絞り込んだ他の候補、ボルボンの系統にも近いバイエルン系やイタリアのサヴォア系などと一緒に検討に入ります。
そしてバイエルン王国のヴィッテルスバッハ家始めカソリック信者のスペイン王候補が次々「落選」か辞退する中、70年の2月末、スペインの枢密顧問官、エウセビオ・デ・サラザールはレオポルト公のスペイン国王への立候補を要請するカール・アントン侯(レオポルトの父)宛ての手紙を持ちプロシアにやって来たことでこの話はいよいよ現実の問題になりました。
1848年の革命でホーエンツォレルン=ジグマリンゲン候国(南をバーデン大公国、残り三方をヴュルテンベルク王国に囲まれたホーエンツォレルン地方にありました)をプロシア王国に譲渡し、その保護のお陰で南ドイツの敵国に囲まれながらも領地をながらえたカール・アントン侯はビスマルクの2代前のプロシア王国宰相でもありました。ですから国際政治の権謀術数と王族間の栄枯盛衰を嫌というほど見て来たお方です。
その子供たちも波乱万丈で、長女シュテファニーはあのポルトガル王家へ嫁入りしてペドロ5世の妃となり(その「交換」で長男レオポルトはポルトガル王家から妃を得ますが、シュテファニーの方は結婚後1年で病死)、次男はルーマニア王となり、三男はプロシア軍人としてケーニヒグレーツで戦死、四男も軍人(のち騎兵大将)、末子の次女は後のオランダ王の母となる、という風に名門家の伝統格式を護っていました。そして今、跡取りの長男がスペインの王へ請われることとなったのでした。
カール・アントン候は相当熟考したあげく「私は反対だが、これは一家族の問題ではなく政治的な問題だけに判断は陛下と宰相にお任せする」という「丸投げ一任」の手紙をヴィルヘルム1世とビスマルクに宛てて送ります。
カール・アントン候
この手紙を読んだヴィルヘルム1世は思わずため息を吐いたことでしょう。この問題は非常にデリケートだったのです。
プロシア王としてのヴィルヘルム1世は、本当はスペインのことなどどうでも良く、本心は本家筋の若者がカソリック名門の跡取りになる位の気持ちで軽く「いいだろう」と了承したかったのだと思います。
しかし王にもこの「縁組み」が複雑な政治的対立を呼ぶだろうことは想像出来たはずです。
スペインは地理的にも政治・歴史的にもフランスと深い関係にありました。イザベル2世の属したスペイン=ボルボン家はフランスのあのルイ王たちの王家ブルボン家の分家です。そのブルボン家支配のフランス王国時代、ハプスブルク家によってスペインとドイツが支配され、フランスは挟み撃ちの危険に陥り苦悩した歴史(スペイン継承戦争)もあります。ハプスブルク家脅威の再現をホーエンツォレルン家が行なおうとしている。しかもイギリス王家にも血縁を持つ妻がいる国王の誕生です。
もしイギリスがプロシアと同盟しフランスと対決するとなると、これは正に四面楚歌となってしまいます。
しかも今回フランスはボナパルト家を皇帝に戴く帝国なので、ボナパルト家と対立するオルレアン(ブルボン)家から候補も出せません。ボナパルト家自体は問題外です(1808年ナポレオンが強引に兄を国王にして凄惨な「半島戦争」を起こしています)。
レオポルトが国王候補となればナポレオン3世は必死で反対し、それは即ドイツ対フランスの抗争に発展するでしょう。
ところが、同じ手紙を読んだビスマルクは「このお話、お受け致しましょう」と進言したのです。
ビスマルクは王に現在ホーエンツォレルン家が占めている国際的地位を思い起こさせました。現在こそ下り坂ですがオーストリアのハプスブルク家は、スペインやオランダをも勢力圏としていた栄光の時代があり、その閨閥は世界の王家に広がっています。有力な王家としては歴史の浅いホーエンツォレルン家はハプスブルク家やボルボン家より一段「格下」に見られています。
もしここでホーエンツォレルン本家筋の若い公子が伝統のスペイン王となれば、ホーエンツォレルン家はハプスブルク家に並んで高い評価(ハクが付く)を得られ、今後の外交でも有利に話を進められるはず、何よりスペインのような封建保守的な国に共和制が生まれたら大変で、ここはひとつファン・プリムと手を結んだ方がいい……ビスマルクはお得意の王を手懐ける熱心な対話で丸め込もうとしました。
とはいえ、フランスとの対立激化を憂い気乗りのしないヴィルヘルム1世は数日の間抵抗していましたが、ようやく5月24日になってから、好きにしろ、と言質を与えビスマルクに一任するのでした。
ここで疑問なのは、この問題がフランスとの戦争にまで発展するということがこの時点でビスマルクの頭にあったかどうか、という点です。
この「レオポルト問題」がナポレオン3世だけでなくフランス国民に「NON」の感情を爆発させない訳がない、とビスマルクが読んだ可能性は大いにあります。
これは歴史家の間でも意見が分かれている様子が窺えますが、私は劇的な政治謀略を好む傾向に見えるビスマルクのこと、少なくともナポレオン3世がまた一つ困難な問題を抱える、つまりは「困らせてやろう」くらいの気持ちはあったのではないか、と思うのです。
ビスマルクの思惑がどこにあったにせよ、ヴィルヘルム1世の名を借りたビスマルクはカール・アントン侯に「ぜひご子息をスペイン国王に」と勧め、6月中旬にはレオポルトも覚悟を決めてこの話を受ける、とするのでした。
ジグマリンゲン・レオポルト候
ビスマルクは早速ファン・プリムにこれを知らせて協議した結果、「フランスを刺激するとまずいので、手続きは迅速に進めてレオポルトの立候補からスペイン議会での国王選出までの期間を出来る限り短くし、ナポレオン3世がレオポルトの即位を知った時には既成事実(新スペイン王の誕生)が出来上がっている状態にしよう」との方針で話を進めることとなりました。
こうして双方の事務方や外交官に即位までの作業が任されます。ところが、やはりというか必然というか、この作業は煩雑な手続きや双方の「仕来たり」などで簡単には進みません。ビスマルクやプリムがどのくらいでレオポルトの即位が成るのか考えていたかは分かりませんが、希望とすれば7月を迎えた辺りで即位式を行いたかったのではないか、と想像します。
ところが遂に恐れていたことが起こりました。7月2日、フランスはパリの新聞に「プロシア王家に列するホーエンツォレルン家のレオポルト公がスペイン国王に立候補」との記事が掲載されたのです。
この「スクープ」、スペイン側からフランスに漏れたものでしたが正に騒動発生の「号砲」となります。報道はたちまち転載されてフランス全土に広まり、プロシアに嫌悪感を抱いていたフランス国民はその熱しやすい性格そのまま一気に燃え上がるのです。
プロシア嫌いで普墺戦争の折にも「ライン川沿岸へ兵を進めて威嚇したら」などとナポレオン3世に進言した外相のアジェノール・ド・グラモン伯爵(この人はかつてビスマルクに「アホ」呼ばわりされたことを根に持っていました)は下院へ赴くと「わがフランスはどんな手段を使ってでもこのホーエンツォレルン家の野望を打ち砕くであろう!」と威勢の良い演説をし、議員から喝采を浴びました。
一方、ビスマルクは願ってもいないこの「カモネギの幸運」を知り、心中喝采を叫んでいました。正にリークはスペインではなくビスマルクだったのではないか、と疑いたくなるようなタイミングだったのです。
ここでレオポルト公がスペイン王位に執着し、頑としてフランスの辞退要求に抵抗すればするほど、フランスとプロシア間の緊張は耐え難いまでに膨れ上がります。そうなれば膨れた「風船」はいつ破裂するか分からなくなります。その風船を「針」で突くよう求めるフランス世論にナポレオン3世は抵抗出来ないだろう、そうなればプロシアは「北ドイツ連邦」の名の元に「防衛戦争」を戦うという正義の側に立てるだろう……ビスマルクはじっとその機会を待つのです。
一王国の後継国王問題とは言え、立憲王政の王という「象徴」だったものなのに最早そんなことには関係なく、くすぶり続けたフランスとプロシアの対立は、遂に発火寸前となったのでした。




