表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
107/534

メキシコの遺恨・スペインの風雲

 もうナポレオン3世はいつ「切れる」か分からない状態となりました。

 「サドワの屈辱」に「ルクセンブルクの屈辱」を重ねた皇帝は、憂さを晴らしたいばかりに味方を得るべく、再び暗躍を始めます。

 先ずはオーストリアに接近、同盟を働きかけ、続いてイタリアにも働きかけ、対プロシアの「仏墺伊三国同盟」を作ろうとするのでした。


 しかし、これも聞き付けたビスマルクが妨害工作に乗り出します。今や百万に及ぶ軍を持つプロシアは飛ぶ鳥落とす勢い。国際交渉の場でもかなりの発言力を有していました。

その恐るべき力を良く知るオーストリア。アルブレヒト親王やヨーン参謀総長を中心とした主戦派が占める軍部こそ普墺戦争の借りを返すぞとばかりにいきり立ちフランスとの同盟を期待しますが、皇帝や政府はマクシミリアン1世の死を忘れるはずがありませんでした。


 第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争が起こった1864年のこと。メキシコ出兵の仕上げとしてナポレオン3世は強引な交渉でオーストリア皇帝の実弟、親王マクシミリアンをメキシコ皇帝に祭り上げ即位させました。


 日本ではなかなか理解しにくいのですが、ヨーロッパでは王様という存在は家柄(伝統)や親戚筋(王家は他国の王家や上流貴族から嫁や婿を迎えるものです)が決め手で、王国で王家が断絶したりすると、その国とは直接関係がなくとも王冠を差し出して王に迎えるのは一般的でした。

 この時もナポレオン3世は全く王家の存在がないメキシコに新たな王を、と考えてヨーロッパでも名門中の名門ハプスブルク=ロートリンゲン家、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の実弟マクシミリアン親王に白羽の矢を立てたのでした。


 マクシミリアンは聡明で明るく社交的で、無口で内向的な兄皇帝とは好対照でした。

 兄弟仲は幼少の頃は良かったのですが、マックス(マクシミリアンの愛称)が若くして海軍司令長官になった頃から疎遠でよそよそしい感じに変わって行きます。次いでマックスがロンバルド=ヴェネト副王になると、自由主義的政策を実行し、権威主義者の兄の逆鱗に触れ解任されてしまいます。ナポレオン3世は干されてトリエステでぶらぶらしていた名門の「跳ね馬」がメキシコ皇帝に適任とばかりに指名するのでした。


 マックスは最初は嫌がりましたが、メキシコの王党派からも熱心な要請があったり南米の熱帯雨林に興味が増したり、兄との気まずい関係で居心地が悪くなった旧弊なオーストリア皇室に嫌気が差したりして最終的には受諾します。

 彼は心血注いだ海軍時代に世界一周を成し遂げた名艦「ノヴァラ」に乗艦しメキシコへ渡ったのでした。


 しかしこのわずか2年後。ナポレオン3世は、南北戦争が終了しいよいよ動き出したアメリカの外圧などにより、これ以上メキシコに留まっても何も得るものはない、としてメキシコを放り出す決定を下します。

 フランスは普墺戦争直前の66年5月に疲れ果てた派遣軍を全て引き上げてしまいました。危険なので一緒に撤退しようと誘われたマクシミリアン皇帝は、潔さと責任感ある海軍軍人らしく、沈み行く艦を捨てない艦長と同じ決心でした。引き受けたからには今更逃げ出せない、としてメキシコに残り、哀れ後ろ盾を無くしたマックスは翌67年、ついに共和派反乱軍に捕えられ処刑されてしまったのです。


 このマックス、兄と立場が逆であったらオーストリアは未だに世界の強国であったかもしれません。それだけの逸材がフランスの「怪帝」のせいで歴史の暗部へと呑まれて行ってしまいました。


 オーストリア皇室、特に母親ゾフィー皇太后は次男マクシミリアンを「持ち上げるだけ持ち上げた後に見殺しにした」ナポレオン3世に対し激しい憎悪を抱いていました。

「今更どの顔下げて同盟などと!」

 皇太后ばかりでなくナポレオン3世に翻弄され続けたオーストリア皇室は拒絶の態度が崩れませんでした。

 この皇室の反感により、仏墺同盟はよほど政治的な「旨み」がない限り最初から成立するはずもなかったのです。


 既にハンガリーとの二重帝国という「まやかし」で帝国を運営するオーストリア政府は、希代の策士でハンガリーやボヘミアなどの反帝国主義者に援助を与えているのではないかと疑うビスマルクと、今は手を結んでおいた方が得策とばかりに「今は内政問題が重要なので」とフランスを袖にしてしまったのでした。


 イタリアの方はもっと簡単です。

 フランスとは教皇領問題があり、この問題をはぐらかされ続けていたイタリアもナポレオン3世を信じ切れないでいました。

 ビスマルクは「フランスとプロシアがもし戦えば、フランスは教皇領から駐屯軍を引き上げざるを得なくなるだろうからその後は……」などと示唆するだけでよかったのです。


 結局、二度に渡る交渉も無駄に終わり、この仏墺伊三国同盟は幻に終わったのでした。

メンツを潰され続けたナポレオン3世もここが限界でした。あと一つ何かが起きれば「仏の顔も三度まで」(うまく決まりましたが洒落ではなく)ナポレオン3世(と言うより好戦的になっていた仏帝国国民)が戦争に乗り出すのは決定的となったのです。


 これは当然プロシア政府、つまりはビスマルクも承知するところです。何故ならナポレオン3世以上にビスマルクはなんとしてでもフランス帝国と一戦交えようとしていたからでした。


 ドイツ統一はこの普仏戦争直前(69年頃)にはほとんど完成していた、と言っても過言ではありませんでした。北ドイツ連邦は、いつ「ドイツ帝国」になってもおかしくない状態です。

 普墺戦争の「敵・味方」が一緒となって三年過ぎ、わだかまりやぎこちなさはあったでしょうが、とりあえずハノーファー人やヘッセン人、ザクセン人らは「ドイツ人」として気持ちを切り替え、プロシア人も彼らに対し特にひどい仕打ちや差別をするような感じではなかったように見えます。


 これはちょうど同じ頃に維新があった日本と良く似た状態だったと推察出来ます。

 薩長が幅を利かせる新政府は、会津を始め東日本の幕府側だった人間には我慢がならなかったでしょうが、小さな反乱もどちらかと言えば武士特権階級の消滅に端を発したものが多く、江戸時代の農民による一揆の武士バージョンみたいなもので、新政府への遺恨というより妬みや経済が主な理由でした。なお、国を揺るがす西南戦争は西暦1877年でもう少し先の話です。


 この図式はイタリアでもそうですし、プロシア支配の北ドイツ連邦もそのような感じだったのではないでしょうか?

 しかも、攻守同盟を結んだ南ドイツ連邦の四ヶ国も少しずつではありますが北ドイツ(=プロシア)の勢いに乗り掛かり始めていました。ですから別にフランスと戦わなくても、時間は掛かったと思われますがいずれ「小ドイツ」は完成したことでしょう。


 しかし、ビスマルクは「ナポレオン3世後」を考えていたのです。

 フランスのナポレオン3世は政権の体たらくと自身の病気で放っておいても数年で倒れるでしょう(実際数年後73年に亡命先イギリスで没)し、そうなれば帝国のままか共和国になるか王国になるかは分かりませんが「新生フランス」が誕生します。その新しいフランスはナポレオン3世時代の行き詰まりから脱し、新たな気分で国際社会に乗り出すことでしょう。


 その時、「ドイツ」はどうなるか。これまでの経緯(特に根強い国民のプロシアへの嫌悪感)を見ても、いつかは衝突する可能性が高く、新たな脅威となること間違いありません。


 であるならば。今なら間違いなくフランスを敗北させることが出来る。


 なんとしてでも南ドイツを味方に引き入れてフランスと戦い勝利する。結果、外敵を一蹴することで完全なドイツ統一は達成される。その「ドイツ帝国」は一気にプロシア主導のドイツとしてまとまることでしょう。

 そうなればフランスでも政変が起きる可能性が高くなりますが、それは敗北から生まれる政府であり、付け入る隙が多く、うまくすればプロシア=ドイツの傀儡政権となる可能性すらあります。


 この内憂外患を一気に片付けるという案はビスマルクにとって魅力があり過ぎたのだと思います。ビスマルクにとって次第に対フランス戦は避けられないものとなっていたのでした。


 お互い戦争を欲すれば、後はその引き金がどこにあるかです。普墺戦争の引き金はデンマークとの係争からドイツ領となったシュレスヴィヒ=ホルシュタインにありました。

 今回の引き金は誰もが思いもしなかった意外な場所から現れたのです。


 フランスの南に隣接するスペイン王国は、かつて南米や東南アジアにまで手が届く栄光から陰りを見せて久しく、1830年生まれの女王、イザベル2世の治世は誕生からして内戦(カルリスタ戦争)勝利によるもので、その治世は落ち着くことのない波乱に満ちたものでした。


 ちなみにカルリスタとは「カルロス一派(支持派)」程度の意味で、このカルリスタ戦争とはスペイン王フェルナンド7世の後継者をその弟ドン・カルロス・マリア・イシドロ(カルロス5世)にするか、娘のイサベル2世にするかの戦いでした。

 7年に及ぶ血なまぐさい内戦の後、イサベル2世が勝利し女王となるのです。フランス・ブルボン家から派生したスペイン・ボルボン家はそのフランスの伝統に則った「サリカ法」(女性は王様になれないというルール)を守ってきましたが、フェルナンド7世はやっと授かった愛娘(45歳・四人目の妃で)に王位を与えたいがため亡くなる3年前(つまりはイザベル生誕の直後に)サリカ法をやめ、ボルボン朝以前の旧スペイン王家(アブスブルゴ、つまりハプスブルク家)の王位継承法(女帝を認める)を復活させる法令を下しました。これに不満を覚えた王弟カルロスは、3年後兄王が亡くなると3歳の姪の即位に異議を唱えて反抗、内戦状態となったのでした。


 なんとか叔父の反乱を鎮め、母の執政状態から有力な将軍が母を追い出して政権を握るなど、自由主義派や保守、王家の血筋を巡る主導権争いなどが相次いで内紛には事欠かない状態でした。


 その後13歳で親政となりますが、女王自身の結婚問題から英仏間での駆け引きも表面化、政争は際限なく繰り返され、数年単位で政権交代が行われて安定せず、そこへ成長して張り切る女王が口を出しますからますます政治は混乱しました。

 既に19世紀も後半を迎え、貴族支配の歴史は終焉で、中流階層の発言力が高まっているのは旧弊なスペインでさえも他国と同じでした。度重なる外交での失点やひどい政治介入、更には王室費の散財などで女王の人気は低迷どころか危険な不満レベルに達したのです。


 1868年9月のこと、元より反政府で知られたフアン・プリム将軍がカディスで武装蜂起しました。これはたちまち各地に飛び火してあっという間に全国蜂起へと進んでしまいます。イサベル2世は討伐軍を立ち上げるよう命じますが逆に軍から拒否されて、身辺も危うくなります。慌てた女王はナポレオン3世のフランスへと亡命するのでした。

挿絵(By みてみん)

ファン・プリム

 スペインでは、ファン・プリムが政府を掌握し69年1月にスペイン初の男子普通選挙が行われ、同じく6月には憲法も発布され、急激に革命が進んで行きました。

 その憲法では新しいスペインの国家形態を「立憲君主制」とします。革命政府がまずなさなくてはならないのは、この立憲君主を頂くことでした。


 フランスにいるイザベルは70年6月、立憲君主制となったスペインに対し、息子であるアルフォンソ王太子に譲位することで和解を図りますが、革命を指導し権力奪取したフアン・プリム将軍は国民世論の後押しもあって反対、プリム将軍はお婿さん探しならぬ国王探しをすることに。

 

 ここで再びヨーロッパの王家を巡る諍いが勃発するのです。

 

 当然ながら落ちぶれたとはいえカソリックの熱心な土地柄とヨーロッパでも重要な地中海を押さえる位置にあるスペインの国王ですから、各国の名門貴族も誰がなるのかに興味津々でした。野心家のカソリック信奉貴族家は候補を押し出し、プリム将軍の気を引こうとしました。


 この候補の一人にプロシア系のホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家のレオポルトの名がありました。

 しかし何故名門とはいえドイツの王子様に白羽の矢を立てたのでしょうか?

 その鍵はスペインのお隣、ポルトガルのブラガンサ家にありました。


 スペイン王候補になったレオポルト公の妃は、元の名をアントニア・デ・ブラガンサといいます。

 妃はポルトガルの女王と国王だったマリア2世とフェルナンド2世の娘でした。

 

 スペイン王家のボルボン家はフランスのボルボン家の分家ですが、この時代はむしろお隣ポルトガル王家のブラガンサ家との血縁が色濃くなっていました。今回王を下ろされたイザベル2世の父、先代のフェルナンド7世の二番目の妃もブラガンサ家から貰い、この妃の弟でブラジル皇帝だったペドロ1世の娘がマリア2世でした。


 ちょっと複雑なのですが、ポルトガルは女王の夫も女王との間に子供(つまりは王太子)が産まれれば女王在位中は共同統治の王様を名乗れます。マリア2世の夫フェルナンドはドイツの名門でイギリス王家の本家、ザクセン=コーブルク=ゴータ家出身でイギリス女王ヴィクトリアと夫アルバート双方の従兄でした。


 当時のフェルナンドは、妻マリア2世を53年に、息子で後を継いだペドロ5世を61年に相次いで失い、次男ルイス1世の統治下で王父として「引退生活」を送っていました。

 スペインの実権を握ったフアン・プリムは、このドイツ人の元ポルトガル王フェルナンドに「スペイン王になっていただけませんか」と要請するのです。しかしフェルナンドは「ポルトガルがきっちりスペインから独立を保障されないと」と条件を付けます。プリムはポルトガルを狙っていた訳ではありませんが、逆にポルトガルやイギリスから影響を及ぼされる可能性も否定出来なくなり、この話はお流れになりました。

 そしてこのフェルナンドから、義理の息子でカソリック、名門ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン候の長男レオポルトの名前が登場したのです。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ