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ルクセンブルクの争奪

 フランス第二帝政の皇帝・ナポレオン3世は普墺戦争の仲裁者として世界にアピールし、その存在未だ侮るなかれ、と各国に警戒心を与えましたが、その実体はお寒い限りでした。


 皇帝の政権はこの数年、外交での失点が相次ぎ、熱しやすく冷めやすい移り気でプライドの高い国民から、いつ三行半(革命)を突き付けられるか内心ヒヤヒヤする事態に陥っていたのです。


 ナポレオン3世のフランスは、彼の伯父であるナポレオンの敗北退場から後、ウィーン体制の縛りを受け、国力と威信は地に落ちましたが、1830年の革命でルイ=フィリップが王となって後、産業革命の波に乗ってなんとか昔日の繁栄を取り戻します。この王政も民衆からの搾取と犠牲に成り立っていた旧来の絶対王政を多少取り繕っただけ(ルイ=フィリップは民衆の王がスローガンです)のものでしたから、やがて革命の元祖たる国民性が疼いて不満爆発、当時のカリカチュアが上手に描いた通りにルイ=フィリップをフランスから放り出して退位させました。


 代わりに登場したのが、国民にとって懐かしさと誇りで一杯になりそうな「ナポレオン」の名を継ぐ者、ルイ=ナポレオンでした。

 彼の成功物語はここでは割愛させていただきますが、軽くこの二十年を振り返れば、フランス国民が彼の名を知ってからわずか十数年で皇帝を名乗り、圧倒的な熱狂の下でフランス帝国が再興すると、当初は体制固めのため絶対主義的政策を強行しますが、ちょうど産業と科学が急速に発展する時流に乗って国内が繁栄に湧いたお陰で抵抗も少なく、内政も次第に立憲君主主義的な開明政策が行われて安定します。

 外交では、持ち合わせたペテン師的な機会ご都合主義に乗ってクリミア戦争やイタリア独立戦争を勝利に導き、彼の栄光はフランス国民の支持により頂点まで駆け上がるのでした。


 しかし政権が安定すると徐々に持ち前の「お坊ちゃん」的な優柔不断さといい加減さが目立ち始め、生涯変わることのなかった希代の女たらしは変わらずに政界のゴシップとなり、病気によりかつて権力奪取時に見せた「威勢の良さ」が消え気力は衰え、既に老人のように猫背となってしまい、その栄光は陰りが差して行きます。


 1861年から67年まで続いたフランスの海外干渉・メキシコ出兵から後、今までのツケが一気に取り返しに来たかのごとく、ナポレオン3世の権威と栄光は急降下して行きました。

 外交の失点は内政の成功でカヴァー出来ればよいのですが、既に軌道に乗った経済はナポレオンの名前がなくとも進むことぐらい「ボナパルティスト」の人々まで気付いていました。首都のパリは、確かに皇帝の命令で清潔で美しい「花の都」に変わろうとしていましたが、これも彼の人気の翳りを払拭するまでには至りません。


 追い込まれ起死回生を狙うナポレオンが飛びついたのが普墺戦争という他人の不幸でした。


 この交戦国双方共にフランスにとっての潜在敵性国家である戦争は、ナポレオン3世にとって溜飲の下がる事件であり、彼の得意な「機会ご都合主義」を発動するチャンスでした。

 しかし彼は戦争の行方を読み間違え、プロシアの快進撃を「意外にがんばるな」程度にしか捉えず、戦争はこの後膠着し交戦国は双方共に疲弊し国力を使い果たすだろう、との希望的観測を信じ続けました。

 双方疲れ切った段階で彼ナポレオン3世が「さあ、そろそろ喧嘩はおよし」と手を差し伸べる。そして彼は双方から感謝され、漁夫の利を得ることでフランス国民の尊敬と信頼を回復する。そんなバラ色の決着を夢見ていた彼に冷水を浴びせたのが「ケーニヒグレーツの戦い」でした。


 この戦いがオーストリア勝利かもしくは引き分けで戦線が膠着するだろう、そう考えていた時にオーストリア側から講和仲裁の依頼が来て、彼は頃合いに向こうから機会が提供された、などとにんまりしながらこれを受けたのですが直後、オーストリア側の敗北を知らされたのです。


 焦ったナポレオン3世は何とか漁夫の利をせしめようと奮闘しますが、オーストリアからはどうせイタリアに渡ってしまうヴェネト地方しか得るものはなく、イタリアからはフランスが実質支配するローマ教皇領を渡すよう脅しをかけられ、プロシアは「ビアリッツの密約」でビスマルクが示唆したと言われる「ライン左岸地域*」の割譲を「口約束」として拒絶し、結局得るものは何もなしに終わってしまいました。

 ナポレオン3世が唯一口出しして決定した、シュレースヴィヒ北部のデンマークへの返還も、前提となる住民投票は行われず、既成事実が積み上げられてうやむやとなってしまいます。


 ナポレオン3世は「約束が違う、ライン左岸をよこせ」とビスマルクに詰め寄りますが、「あなたがこの土地を欲するのであれば穫りに来ればよろしい。その代わりあなたは80万のプロシア軍を相手にすることとなりますぞ」と逆に脅される始末。

 この1866から67年という年はメキシコ出兵の大失敗による政権と軍の建て直しの最中で、軍部は北部ドイツを統合して意気上がるプロシアとの戦いを嫌い、ナポレオン3世は屈辱を堪えて引き下がるしかありませんでした。


 これにはフランスの世論も沸騰し、もちろんプロシアとビスマルク憎しという怒りですが、不甲斐ない皇帝にも非難が集中します。帝国を名乗る以上、フランスは中央集権国家であり、その中心は強大な権力を持つ皇帝にあります。しかし、フランスは権力者に対し遠慮のないことで知られる国。ルイ16世とマリー・アントワネットがどうなったか、ルイ=フィリップ王がどうなったかをよく知るナポレオン3世だからこそ、その焦燥は計り知れないものがありました。


 皇帝はこれで権力が下り坂に差し掛かったのを強く意識しました。そして起死回生とばかりに目を付けたのが「ルクセンブルク大公国」でした。


 ルクセンブルクの地はドイツ連邦に属する「ドイツの国」とされていましたが、1830年代に元々あった領土の半分以上が新たに生まれたベルギー王国に持って行かれ、残りの地域はオランダ国王が同君の大公となっていました。単純にドイツの一国とは見なされない部分があったのです。


 オーストリア主導のドイツ連邦時代には、この地はドイツとフランス、オランダ、ベルギーとの緩衝地帯とされ、オランダ王家(オレンジ=ナッサウ家)の家領とはいえオランダの法律が及ばないドイツ連邦に加盟し、更にドイツ関税同盟に加わっていたため要塞地帯には連邦から守備隊が送られて駐屯していました。

 しかし、普墺戦争の結果、旧連邦が解体され新連邦「北ドイツ連邦」が設立されると一応独立した公国として連邦からは外されました。

 ナポレオン3世はこの宙ぶらりんな状態の隙を突いてこの地の併合を狙い、暗躍を始めたのです。


 オランダ国王ウィレム3世は、67年2月にナポレオン3世より「お宅のルクセンブルク領を9千万フランで買い取りたいがどうか」と申し込まれるや否や、直ちに飛びついて売買契約書にサインをしました。何故なら、当時ルクセンブルクの要塞にはプロシア軍が既成事実を楯に駐屯し(=居座り)続けていたからで、オランダとしてはフランスに渡すことで「厄介な隣人」プロシアとの緩衝地帯としたい希望があったのです。

 

 しかしそう易々と問屋が卸さないのがビスマルク時代でした。


 ビスマルクはルクセンブルクがフランスに売買されると聞かされるや猛烈な抗議運動を開始します。

「ルクセンブルクは古くからドイツ人が居住するドイツ領域の一国であり、歴史的に見てもフランスの領有するところではない」としてフランスに抗議します。もちろんこれはプロシア国内で猛烈な反響を呼び起しました。このドイツのナショナリズムを炎上させる問題は、プロシアだけでなく北ドイツ連邦全体に反感を持って迎えられ、その炎は南ドイツにも波及するのです。

 

 急激な反仏感情の爆発に慌てたナポレオン3世は、駐普大使ヴァンサン・ベネデッティにビスマルクとの会談と交渉を命じますが、ビスマルクはなんだかんだと理屈をこねては会談を引き延ばし、大使と漸く会談しても考え中として生返事しかしません。

 しかもこの会談中にプロシアと南ドイツとの間に「秘密」攻守同盟の存在があることをリークします。

 ビスマルクは更に追い打ちを掛け、普墺戦争前にビスマルクとナポレオン3世が行った「ビアリッツの密約」で、フランスが普墺戦争や「ドイツ統一」を黙っている条件はライン左岸だけでなく、フランスが将来ベルギー支配を目論んだ時にドイツは黙っている、という話もあったなあ……などとしゃべってしまうのでした。


 ここまで問題が大きくなってしまうと、オランダ国王ウィレム3世も売買を強行することが出来ず契約を破棄してしまいます。


 しかし売買が破棄されても北ドイツ連邦内の反仏感情は収まらず、ビスマルク寄りの国民自由党党首ベニヒゼンが北ドイツ連邦議院でフランス糾弾演説を行うまでとなり、このニュースは北ドイツばかりでなく南ドイツから世界へと耳目を引き付けてしまうのでした。


 こうしてルクセンブルクの問題は国際問題化、イギリスが仲介を買って出て、ロンドンへ関係各国を招致しての会議となりました。


 1867年5月。ロンドン会議が開催され、列強各国はフランスと北ドイツに対し、それぞれがこの土地を二度と紛争の種としないよう、ルクセンブルクを永世中立国とするよう迫りました。

 ビスマルクは苦渋の決断とばかりに重々しくこれを受け、駐留プロシア軍を引き上げる、と宣言しました。こうなればナポレオン3世も同意するしか手がなくなったのです。

 プロシア軍はルクセンブルクから撤退し、ルクセンブルクはオランダ国王の支配を受けつつスイスに次いで二国目となる国際認知の永世中立国となったのです。

 国際社会から見れば、これは北ドイツとフランス引き分けの痛み分けでした。

 しかし、実際は誰がほくそ笑んだのかは、ヨーロッパの外交官ならみんな知っていたのです。

  

 これでナポレオン3世のビスマルク憎しは頂点に達しました。

 当然ながらナショナリズムに煽られた北ドイツもフランスに嫌悪感を抱き、フランス国民はライン左岸に続きルクセンブルク領有にも失敗した不甲斐ない皇帝を陰で罵りつつも、フランスの権威に泥を塗った北ドイツ=プロシアを憎んだのでした。


 一方、ビスマルクとしても近い内にフランスと一戦交えねばなるまい、との決心に至りますが、ビスマルクは時期早尚とします。

 未だドイツは一つになり切れず、もし対仏戦になったらどちらに転ぶか分からない地域もあります。

 そう。南ドイツ諸侯でした。


 フリードリヒ大王の時代からプロシアはバイエルンやビュルテンブルクといった南部ドイツ諸侯とはライバル関係にありました。

 その反プロシア感情は根強く残り、事ある毎に南北ドイツの対立・分断を謀るナポレオン3世の暗躍もビスマルクには悩みの種でした。

 

 この南部ドイツの反プロシア感情は、南北という居住地域の違いだけでなく、宗教的対立(南部諸侯はカトリック、プロシア始め北部はプロテスタント)や、おおらかな気質の南部ドイツ人と生真面目で堅苦しいプロシア人の気質の違いから来る嫌悪感でもあり、なかなか払拭出来る類のものではありませんでした。

 68年初頭に行われた伝統のドイツ関税同盟の評議員選挙では、南ドイツ四ヶ国・地域で独立維持派が小ドイツ主義合併派を大きく上回り、これはプロシア主導による南北統一に対する強烈な反対表明となりました。

 

 無駄な戦争は一切行わないというビスマルクにとって、たとえ統一のためとはいえ南北ドイツが戦うなどという選択肢はありません。オーストリアとは違い、バイエルンやビュルテンブルクは将来ドイツ帝国の一部なって貰わなくてはならないのです。

 もし南部諸侯がフランス側に立って戦ってしまうと、オーストリアと同じく未来の「ドイツ帝国」から切り離して考えなくてはならなくなってしまいます。それはビスマルクの描くドイツではなく、今までの努力が水の泡となってしまうのでした。


 ビスマルクはあと一歩まで迫った完全なドイツの統一を、焦ってご破算にするつもりもありません。

 この流動的な時代、焦らずに待てば必ず転機は来る。そう信じたビスマルクはじっとその機会を待つのでした。


*ライン左岸(西岸)とは

 案外調べても出て来ないので(ウィキにもありません)。


 バーデン大公国(今はバーデン=ヴュルテンブルク州)カールスルーエ付近からライン川沿いを北に、マインツを経てコブレンツに至り、そこからラインを離れてモーゼル川を西へ、ルクセンブルク国境に至るまでの三角形の地域を言います。

 ほぼ現在のプファルツ地区、その北のフンスリュック山地(ラインラント=プファルツ州)とザールラント州の部分に相当します。

 プファルツはライン宮中伯領として知られた場所で、18世紀後半からはバイエルン王国が支配しますがその後革命フランスに割譲、1815年のウィーン会議で再びバイエルンの飛び地となりました。これはドイツ帝国の成立まで変わりません。「ライン左岸」のマインツ周辺はヘッセン大公国領(ライン・ヘッセン)であり、フンスリュック山地にはオルデンブルク大公国の飛び地(旧ビルケンフェルト侯国)もあります。

 つまりはビスマルクはプロシア領が全体の半分も占めていない他人の土地をフランス・スペイン国境地域のフランス保養地でナポレオン3世に対し「あげる・あげない」とやっていたわけで……

 これでは確かにバイエルンやヘッセンが普仏双方共に不信感一杯となるのも頷けるというものなのです。

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