リッサ海戦(終)
一方、テゲトフたちオーストリア艦隊には(短い期間でしたが)栄誉が待っていました。
リッサ島のオーストリア艦隊に21日の1400、うれしいニュースが飛び込んで来ます。
オーストリアン・ロイド社所属でダルマチア総督府の徴用汽帆船、その名も因縁めいた「ヴェネチア」(1,577t砲10門)がザーラよりやって来てリッサに入港、今朝ほどウィーンより入電したという皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の勅電を捧持したのです。
「朕、この度の海戦を聞き及ぶに付、深く海軍将卒の戦功を慶賀す。この功によりテゲトフ男爵は海軍中将に進むべし」
旗艦艦長のステルネック大佐は大喜びでこの勅電を「フェルディナンド・マックス」の前檣楼に掲げ、艦隊の全艦にこれを信号で通知、すると話が伝わるや将兵が万歳を叫び出し、歓呼の声は再び湾を行き交ったのでした。
この喜びの中でも「カイザー」は休みなく修理を続け、21日の夕暮れ時に一応の完了を見ました。
実は前日の日没後、ペッツ艦長はテゲトフ提督と再開し固い握手を交わした際にこう宣言していました。
「彼女(「カイザー」のこと)は24時間以内に再び舞う(戦う)ことが出来るでしょう」
それはとても無理と思える難事でしたが、ペッツ大佐と部下たちは一昼夜かけ、不眠不休で予言を現実のものとしたのでした。
また、この少し前、「カイゼリン・エリザベート」と砲艦「ダルマート」は海戦生存者の捜索に向かい、昨日の激戦海域を一巡しましたが、海面には生存者も死者も見えず、彼らは漂っていた数隻の艦載ボートと艦船備品を拾い上げただけでリッサに帰りました。
この21日日没時、諸艦から弔砲が発せられて湾内に殷々と木霊する中、戦死者の水葬がしめやかに執り行われました。
その後、重傷者が「ヴェネチア」に乗せられ、汽船は直ちにリッサ対岸南ダルマチアの地方都市スプリト、次いでザーラ市へと向かいました。
葬儀も終わり「カイザー」の修理完了を受け、テゲトフ「中将」はリッサを後にすることにします。
敵艦隊は消え、島の砲台の補修も完了し、艦隊が居座ればただでさえ欠乏している島の物品を消費することになり、これ以上前線の島に甘えるわけには行きません。艦隊は母港ファザナへと帰るのです。
2030、テゲトフは汽帆装スクーナーの「ケルカ」「ナレンタ」をリッサ島の「護衛」として残し、残りの全艦は昨日イタリア艦隊へ突入した時の、あのヤジリ型隊形を作って進路を北西とし、ファザナを出てから三日たち、勝利を得たテゲトフ率いる「鉄の心を持つ木の艦隊」は7月22日夕刻、再び母港ファザナに無事凱旋したのでした。
中将に昇進したテゲトフは勿論、ペッツやステルネックにも軍事勲功章としては高位のマリア・テレジア騎士十字勲章が贈られ、ペッツは晴れて「本物の」提督、少将に昇進しました。
ちなみに、アントン・フォン・ペッツは68年、リッサ海戦にも参加した汽帆走フリゲート「ドナウ」と「エルツヘルツォーク・フリードリヒ」の2艦からなる小艦隊を率いてアジアへ周航し、オーストリア皇帝名代として69年10月、日本にもやって来ました。
ここで生まれたばかりの明治政府と日墺修好通商航海条約(もちろん墺側有利の不平等条約でした)が結ばれ、ペッツは皇居で明治天皇に拝謁しています。ペッツのリッサにおける武勇はこの時日本でも大々的に紹介され、オーストリア海軍の軍楽隊が日本人が初めて耳にする行進曲を演奏し、ペッツ提督は東京でパレードも行いました。その沿道に整列し敬礼を送った発足したばかりの日本海軍将兵(当時20歳の東郷平八郎が見ていたのかも知れません)は憧れと畏怖の念でペッツ提督を仰ぎ見たのではないでしょうか。
一方、旗艦艦長として名を上げたステルネックはその後、テゲトフが海軍司令官となるとその右腕として活躍します。72年に少将へ昇進、北極探検隊の司令官となったり艦隊を率いたりしますが、75年から8年間ポーラ軍港の工廠司令という閑職に回され干されてしまいます。これは71年に43歳の若さで亡くなったテゲトフ終生のライバル、フリードリヒ・フォン・ペック中将が海軍司令官になったことと関係があります。テゲトフ一派はペックにより左遷されてしまったのです。
その後ペックは83年末に神経衰弱を理由に引退させられ、フランツ・ヨーゼフ1世はステルネック少将をウィーンに呼び中将の階級と海軍司令官の職を与えたのでした。彼は前任者のペックが停滞させた軍の士気を回復し、積極的に海外へ巡航に出、海軍を精強な集団に鍛え上げ「オーストリア海軍中興の祖」となります。ステルネックは97年12月に司令官在任中惜しまれつつ亡くなりました。
ステルネック
リッサ海戦より一週間で普墺戦争は「ニコルスブルク仮和平条約」により一応の終焉を迎えますが、オーストリアとイタリア間の和議交渉は難航し、正式に休戦に入ったのは8月12日、正式の講和条約であるウィーン条約は更に二ヶ月が過ぎた10月12日に締結されます。オーストリアはヴェネト地方をまずはフランスに譲渡、フランスは先にイタリアから割譲されたニースとサヴォアの代替としてヴェネトをイタリアに渡したのです。
メキシコ皇帝にしてオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟君、フェルディナンド・マクシミリアン・ヨーゼフ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン公は、メキシコ皇帝に推される前に22歳の若きオーストリア海軍司令官として勤務、帝国海軍の近代化を推進した人物です。
マクシミリアン皇帝は自分の名前から「フェルディナンド・マックス(マクシミリアンの略)」と名付けられた新鋭艦に乗ったテゲトフがイタリア艦隊に勝利した、と聞くと手放しで喜び、勅旨とメキシコの勲章をテゲトフに贈りました。
『1866年8月24日
オーストリア海軍少将男爵フォン・テゲトフ提督足下
提督が古代より名声鳴り響くイタリア王国艦隊と戦い大勝を得たと聞き、余は歓喜の情を抑え切れないでいる。
往年、余は自ら培った海軍の命運を挙げて他人の手に委ね、その強大になるための任を遺棄して海軍司令官の職を辞したが、心中密かに提督とそれに続く少壮の士官たちに期待していた。諸君ら善く勉学し士気も旺盛なる将校と、鍛え上げた頑強なる兵員を以てすれば、アドリア海は必ずや将来において一大海軍の根拠地とならん、そう信じていたのだ。
今や余の想いを傾注せる貴海軍は、提督指揮と付記され、今後長らく世界戦史上1866年7月20日の項目に特筆大書されるであろうことを想うと、余の喜びは如何顕せばよいものだろうか。
これより後、提督の艦隊は海軍の旗標を以て既に名誉を勝ち取っている諸国の海軍(イギリスなど)に伍すことであろう。また、提督の名声もまた古今海軍諸名将に伍すことであろう。
由って余はこの書を認め、提督及び海戦に参加した将兵に対し深く感謝の意を伝えたい。併せ提督にはグアダルーペ聖母大十字勲章を寄贈し長く余の推敬の念を表す。
マクシミリアン』(筆者意訳)
一年後、マックスの愛称で親しまれたマクシミリアン皇帝は、「メキシコ建国の父」ベニート・パブロ・フアレス・ガルシアの共和主義軍と戦い、敗北し捕えられると処刑されてしまいました。35歳の誕生日を半月後に控えた若さでした。
マックス公の遺体はメキシコ共和国大統領となったフアレスの好意でオーストリアに返還され、それを受け取りにメキシコまで航海をしたのはマックス公馴染みの汽帆走フリゲート「ノヴァラ」でした。
そして中将旗を翻したその艦に乗り、オーストリア海軍軍人にとって愛すべき恩人の遺体を引き取ったのはヴィルヘルム・フォン・テゲトフ、その人でした。
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この項を閉じるに当たって
リッサ海戦はテゲトフの名声とともに、軍民両方から深い関心を以て語られることとなりました。
「鉄の心を持った提督が木の艦隊を率い、木の心を持った提督が率いた鉄の艦隊を破った」との有名な感想は、当時の人々の最も率直な印象でしょう。
装甲艦同士が正面からぶつかり合った世界最初の戦いは、木造艦による装甲艦への衝角攻撃という俄には信じられないエピソードを加え、人々の間に伝播して行きました。
当然ながらこの海戦の結末を注意深く眺めていたのは各国海軍でした。
衝角(RAM・ラムと呼びます)の歴史は古く、古代ギリシアから続くもので、船の舳先に強力で硬い「角」を付け、体当たりで敵の船腹に穴を穿ち沈める、という単純さは、大砲がなく櫂で漕ぎ進めるガレー船の時代は主力の武器として装備していました。
これが大砲の発明と帆走技術の発展により、攻撃方法としては非常に難しいものとなってゆき、中世以降のヨーロッパでは廃れて、艦船に備えても装飾に近い存在となりました。
この「過去の遺物」が復活したのは「蒸気船」と「装甲艦」の登場と発展のお陰でした。
蒸気機関を動力にした船は風や波に左右されず、一定の速度で進むことが可能となり、鉄張の装甲艦の登場は、貫徹力が非力な旧来の大砲では砲弾を跳ね返し砕けさせてしまうだけなので、大砲の数を頼みに闘う鈍重な戦列艦の存在を一気に過去へと運び去って行きました。
更にクリミア戦争後にベッセマー製鋼法が広く知られるところとなったことにより鋼が比較的安価に、大量に製造されるようになると装甲艦はたちまちブームとなるのです。
こうなれば蒸気動力で動く「装甲艦」は無敵の存在となってしまいますが、ここで「衝角」が脚光を浴びたのです。
大砲が装甲艦を倒せないのなら、衝角を用いた突進で敵の装甲板の下を突き、船腹を破って沈めてしまえ、幸いにも装甲艦は片舷20門程度の大砲しか装備されていないから、接舷しても大したことにはならない、という乱暴な理論でしたが、各国の海軍は競って装甲艦を造るとともに衝角を装備し、木造艦にまで衝角を取り付けるのでした。
この辺り、戦術の変化により復活した槍騎兵とよく似たケースです。
近代の最初に衝角が有効に用いられたのは1862年に発生したアメリカ南北戦争のハンプトンローズ海戦と言われ、南軍の改造装甲艦「ヴァージニア」が北軍の木造フリゲート「カンバーランド」を衝角攻撃で撃沈し、俄然注目されます。
この後に造られる装甲艦は全て衝角を装備し、海軍関係者は、次に起こる装甲艦同士の戦いで衝角攻撃が本当に有効かどうかが分かるだろう、と予言していたのです。
正にリッサ海戦は諸国海軍の信じていた衝角攻撃の高い効果を証明する戦いとなったかのように見えます。ハンプトンローズでも証明されていた木造艦は装甲艦に歯が立たない、という部分も垣間見えていましたが、何故か「カイザー」の一件は否定的に捉えられず「木造艦でも勇猛果敢に衝角攻撃を行えば、砲撃よりはよほど効果的だ」などという誤った認識も横行し始めました。
これにより、各国は快速を要する連絡・偵察任務用途の艦艇以外は全て装甲艦艇にするべく努力を始めます。
戦術は砲撃より衝角攻撃を重視し、艦船の設計では衝角が欠かせないものとなりました。欧米では「衝角艦」なるものまで現れ、その珍妙な艦は、小火器のみを乗せて衝角に全てを傾注したかのような設計になっていました。
1879年に発生したチリ対ペルーの「イキケの海戦」でもペルーの装甲艦(アフォンダトーレよりは乾舷の高い装甲砲塔艦)「ワスカル」がチリの木造コルベット「エスメラルダ」を衝角攻撃し沈めますが、これはエンジンが故障した木造艦に対して3度も試みた後に沈めた例で、「レ・ディタリア」のケースとは明らかに違いました。
しかし、装甲は大変に高価であり、装甲艦を造るには大量に必要とされ、これに建艦技術と先端デザイン、工業力などが問われるので、海軍を「オール鉄の艦隊」にするには豊富な資金が必要となり、西欧諸国、それも12、3ヶ国に満たない植民地を持つ国々に限られて行き、この19世紀が終わる頃に「鋼鉄の艦隊」を常時維持出来たのは、英、仏、米、露、独、伊、墺、西、そして日、清くらいになって行くのでした。
衝角ブームはこの日清間で戦われた黄海海戦(1894年9月)により、一定の終焉を迎えます。これは余りにも有名な話ですので、ここでは多くを語りません。
しかし、一言だけ言わせて頂けば、限られた資金を有効に使うため、武器や技術の進歩発展(ここでは大砲や艦の速度)を見据えて計画し、戦術もそれに従い柔軟に変えて行く軍隊のみに勝利の女神が微笑むのです。
ただし、黄海海戦の結果は、日本が「お金もなくそれだけしか出来なかった」事にめげず「それだけ」に磨きを掛け、清国が「従来の定説に従いそれだけしかやって来なかった」事に自信を持ち自らの能力を顧みなかった、とも受け取れます。
衝角は確かにテゲトフ提督にとっては必要なものでした。しかし、丁汝昌提督にとっては必要なものだったのでしょうか?
リッサ海戦から四半世紀、急速に発達した大砲と装甲、艦船デザインやエンジンなど、その発達した武器装備を新しい戦術(アタマ)で使いこなせたかどうかそれが問われた、そういうことだったのではないかと思われます。
この世紀の変わり目前後で衝角は重大事故を幾度か引き起こします。
1891年3月ジブラルタルで発生した英客船「ユートピア」沈没事故。荒天のこの日夜、「ユートピア」は誤ってジブラルタル軍港に侵入してしまい、停泊していた戦艦アンソンの艦首に船腹を当ててしまい、船腹は無惨にも衝角に切り裂かれて沈没、乗客中心に562名が水死しました。
1893年6月にはレバノンのトリポリ沖で英戦艦ヴィクトリアが沈没するというショッキングな事件が発生しました。
英地中海艦隊の演習中、旗艦ヴィクトリアに戦艦キャンパーダウンが衝突、衝角により艦腹に大破孔を開けられたヴィクトリアは、あっという間に沈没してしまい、地中海艦隊司令長官トライオン中将始め358名が水死。原因は司令長官の転針命令ミスという人災でした。
1904年5月には日露戦争中の日本連合艦隊装甲巡洋艦「春日」が濃霧の遼東半島沖で防護巡洋艦「吉野」に衝突、これも衝角が艦に穴を開け、沈めてしまいました。佐伯艦長以下300名以上が殉職しています。
このように、衝角は敵艦を沈めるより容易く味方を傷付け葬り去ってしまいました。黄海海戦により、衝角攻撃の難しさが改めて浮き彫りとなり、逆に軽快な運動を誇り速射砲で固めた日本艦の成功が驚きをもって迎えられ、海軍の戦術は再び近代化の産みの苦しみを経験するのでした。
こうして哀れ無駄で危険な装備と評価が一変した衝角は、日露戦争後に建艦された軍艦から急速に消えて行きました。同じ時期に消えて行った槍騎兵(機関銃と鉄条網の発展が止めを刺しました)と全く同じ理由、30cm主砲が1万mも先から撃って来るのでは敵艦に肉薄することなどファンタジーに過ぎなくなったのです。
単一口径の連装主砲塔5基以上を持ち統制砲撃を主体とする新しい戦艦の時代、ドレッドノート時代が到来したのでした。
※お礼
この「普墺戦争外伝・リッサ海戦」の部分に関しては、
「失われたオーストリア・ハンガリー二重帝国海軍」サイト様を参照させて頂きました。今は無きオーストリア海軍に関してこれほど深く描いたサイトは欧米でもありません。本当にオタさんにとって素敵な情報満載です。
ぜひご覧になってください。
「失われたオーストリア・ハンガリー二重帝国海軍」
http://www1.hinocatv.ne.jp/hr-aks5/index.html




