リッサ海戦(六)
リッサ海戦(1866年7月20日1043から1430まで)の損害は、イタリア側が装甲フリゲート「レ・ディタリア」装甲砲艦「パレストロ」が沈没、装甲フリゲート「レ・ディ・ポルトガロ」「サン・マルティノ」「アフォンダトーレ」が中破、「レジーナ・マリア・ピア」「アンコナ」「カステルフィダルド」「プリンチペ・カリニャーノ」「マリア・アデライデ」が小破、他にも多少の砲弾を受けた艦艇がありました。
人員の損害は諸説ありますが、戦死・行方不明者は沈没した「レ・ディタリア」が約400名、「パレストロ」が230名、他の艦の総計は案外少なく戦死5名負傷39名となります。これに前日までの損害、装甲砲艦「フォルミダビーレ」中破、戦死16名負傷114名が加わるのです。
オーストリア側は戦列艦「カイザー」が大破、汽帆走フリゲート「アドリア」「シュワルツェンベルク」「エルツヘルツォーク・フリードリヒ」「ノヴァラ」装甲フリゲート「エルツヘルツォーク・フェルディナンド・マックス」「ドン・ファン・デ・アウストリア」「ドラッヘ」が小破となります(他にも損害は軽微だが砲弾を受けた艦多数)。戦死者は「ドラッヘ」と「ノヴァラ」の艦長2名を含む38名、負傷者は138名でした。
「カイザー」は操舵関係に損傷、煙突を倒され蒸気管を破られましたが、舵本体やボイラーエンジン自体に損傷はなく全力発揮が可能で、どれも応急修理が可能でした。砲列では4門が完全に破壊されましたが残りは修繕すれば使用可能で、こちらもほぼ全力発揮が可能です。一番問題なのは艦体の損傷で、「レ・ディ・ポルトガロ」へ衝角攻撃を掛けた時に艦首部構造材に歪みや曲がり、反りが生じ、折れて焼失したフォアマストや80発の敵弾を受けて生じた大小様々な破孔を含め乾ドックでの大修理が必要となりましたが、ファザナに帰投する短い航海くらいならば大丈夫でした。
海戦後のカイザー
ちなみに「カイザー」が海戦中放った砲弾は総計850発に達し、速射砲ではない人力装填の大砲を考えるとその奮戦ぶりが想像出来ると言うものです。2位は「ノヴァラ」の342発、3位は「ドナウ」の326発で、特に「ノヴァラ」は42発もの敵弾を受け、艦体は孔だらけとなっていました。砲弾を受ける距離に接近せず、当たるはずのない遠距離から数十発しか撃たなかったイタリア木造艦に対し、オーストリア木造艦の活躍が際立つ結果と言えるでしょう。
「バレストロ」が爆発轟沈し海戦が完全に終了した直後、イタリア艦が西に動く前に生存者の捜索が行われました。
「パレストロ」に関しては十数人程度の生存者しか救えませんでしたが、「レ・ディタリア」の生存者は沈没後4時間以上経って救われた者が多くいて、20日中に救い出されたのは士官9名、水兵159名に上ります。一番多く救い出したのは木造フリゲートの「プリンチペ・ウンベルト」で116名を救助しています。他に救助活動に従事したのは「メッサジェーロ」「ステラ・ディ・イタリア」「アフォンダトーレ」などでした。
これら味方艦船に救われた人員の他に、18名が5、6キロの遠泳をしてリッサ島北岸にたどり着き島民を驚かせています。彼らはそれでも手厚く介抱され休戦までの短い間捕虜生活を送り母国へ帰還しています。
なお、「レ・ディタリア」の死者の中にはあの建国の士の一人で熱血漢の国会議員ピア・カルロ・バッジオや、当時、リアリティ溢れる画風で人気を博した画家で史上初の装甲艦同士の海戦を描こうと、従軍画家として旗艦に乗艦していたイッポリット・カッフィも含まれていて、これら艦と運命を共にした高名な民間人の存在はイタリア人に強い印象を与え、旗艦を変えたペルサーノはお陰で助かったという事実が俄然クローズアップされるのでした。
さて、オーストリア・テゲトフ艦隊は1400から順次戦場海域を離れ始め、先に入港している「カイザー」他2隻の艦の待つサン・ゲオルク湾に向かいました。1500には最初の砲艦が湾に入り、以下小艦から大型木造艦、装甲艦の順で続々と入港しました。既に島の住民や守備隊の者たちは海戦の勝利を「カイザー」から聞き及び、人々は母国オーストリア海軍のほぼ全力と言っても良い艦隊の偉容を目の当たりにして、呆然とする者、歓喜に打ち震える者、ここ数日間の苦難を思い返しほっと息を吐く者、皆、それぞれの思いを胸に夕暮れの湾に入ってくる艦を見つめるのでした。
やがて日没直前、最後に旗艦「フェルディナンド・マックス」が入港して来ます。
「テゲトフだ」「あれがテゲトフの船だ」「勇者テゲトフが来たぞ!」「提督万歳!」
観衆からざわめきと歓声が上がり始め、次第にその声は高まって行きます。
やがてその声は最高潮に達し、一足お先に入港していた各艦からも大きな歓声が上がりました。
水兵たちが舷側に並び、セーラー帽を握って打ち振ります。空に向かって一斉に帽子を放り上げる者がいて、やがてその行為は伝染したかのように増えて行き帽子の吹雪となりました。
すると一際高く「勝利」の叫びが響き、それを聞いた人々は感動し、口々に叫び始め、そして誰か気の利いた人間の指揮で一斉に唱和し、幾度も幾度もそのフレーズが黄昏の湾内にこだましたのです。
「ビバ!サン・マルコ!」
ヴェネチア市の守護聖人「聖マルコ」を称えるその言葉は、かつて存在したヴェネチア共和国を称える言葉でもあり、旧ヴェネチア共和国の領域、イタリアに奪われようとしているヴェネト地方はもちろん、イストリアやダルマチア地方、もちろんリッサもその領土でしたが、オーストリア海軍将兵の多くがこれらアドリア沿岸地域の出身者だということを考えれば、これは正に艦隊の人員や島の人々にとり、イタリアに対する挑戦と勝利の雄叫びだったと言えるでしょう。
ちなみに、この同じイタリア系の人々が統一イタリア王国に組み込まれるのを嫌い、彼ら「半島」の人々を敵視するという心情は、民族主義者には理解し難いものがあったのかも知れません。
しかし、長いヴェネチアの歴史を紐解けば、それは他のイタリア人都市国家や十字軍の名を借りた西欧諸国、そしてイスラムとの戦いの歴史であり、彼らの心情の一端を窺い知ることが出来ます。同じく、オーストリア海軍の実体が、これら旧ヴェネチア共和国海軍の伝統を引き継いだものであった、と考えれば、このイタリア海軍との戦闘で同じ民族同士が戦っても厭戦気分が蔓延しなかった理由も理解出来るかと思います。
旧ヴェネチア共和国の人々にとって、ヴェネト地方がイストリアやダルマチアと切り離されるより、オーストリア帝国の地方として一緒でいた方がまだマシだったのではないかと想像されるのです。
勝利の喜びに充ちた一時が過ぎると、オーストリア艦隊は残った仕事に取りかかりました。
まずは戦死者と重傷者を陸に揚げ、艦の清掃と応急修理を始めます。未だ強力なイタリア艦隊が近くにおり、油断するオーストリア艦隊を夜襲する恐れは十分にあったので、比較的損害が軽微だった装甲フリゲート「ハプスブルク」「プリンツ・オイゲン」砲艦「ダルマート」「ヴェレビッチ」の4隻で湾口外を巡視するのでした。
各艦の整理と修理は翌21日早朝の0330時には「カイザー」を除いてほぼ終了し、再びボイラーに火を入れ、出撃の準備を整えました。
しかし夜が明けると、リッサ島最高峰のフム山観測所から信号旗による朝一番の偵察情報が届き、それによると、
「敵影、本島の周囲に見えず。西北西水平線にかすかな煤煙を認む」
やがて追いかけるように、
「西北西の煤煙、消ゆ」
イタリア艦隊は夜明け前にリッサを去って行ったのです。
ペルサーノは20日2200までまんじりともせず、リッサの西方沖、ブシ島の北に艦隊を遊弋させていました。提督としては「レ・ディタリア」「パレストロ」の敵討ちをしたいところでしたが、リッサでの3日間の戦闘で既に砲弾は残り少なく、実際切れてしまった艦もあります。燃料の石炭も底をつき始め、もう一戦すれば燃料切れや砲弾切れが続出しオーストリア艦隊に拿捕される艦が出る恐れすらありました。
ペルサーノはがっくりと肩を落とすと、2230、艦隊にアンコナへ帰還する旨命令を下しました。イタリア艦隊は翌21日朝、無事にアンコナへ帰り着きます。
なお、排水量262トンと小さな砲艦「ヴィンツァリオ」「モンテベッロ」「コンフィエンツァ」の3隻は既に石炭が底を突いていたので、「ギュスカルド」と「ワシントン」の2隻が曳航して艦隊とは別途、ガルガーノ半島南部にあるマンフレドニア港に向かいました。
この後、イタリア海軍将兵には辛い日々が待ち構えていました。
ペルサーノはアンコナに帰るなり海軍大臣に対し「我が艦隊は2艦失うもそれ以上に敵艦隊を痛め付け勝利を得ました」と報告します。一時は国王や政府も湧き立ってペルサーノや艦隊の将士に賞賛の声を送りますが、数日の後、オーストリアや諸外国から真実が聞こえ出し、その真相を知ろうと艦隊の艦長、士官たちの聴取が始まるとたちどころにペルサーノの大嘘がばれてしまいました。
戦死した2隻の沈没艦艦長はその勇気と責任感(ディ・ブルノ艦長には?が付くものですが)を賞賛されますがペルサーノやその司令部、アルビニやヴァッカは諮問され次第に真相が明らかになると下位の者はこれ以上の昇進を絶望視され、上位の者は屈辱の言葉と共に海軍を追われてしまいました。
特にペルサーノとアルビニの責任の擦り付け合いは、彼らがそれまで築き上げた自身の経歴を一切無にしてしまう醜い争いとなってしまったのです。
結局ペルサーノは弾劾されあらゆる権利を剥奪され、海軍は彼を無能として不名誉除隊としました。失意のペルサーノは83年トリノで亡くなっています。
アルビニもペルサーノとの無益な戦いの果て、67年に退役させられ海軍を去り、76年にピエモンテの小村カッサーノ・スピーノラで亡くなりました。
それでも最悪の状況の中、最善を尽くし勇気を持って敵に対した者には栄誉と将来の道が開かれました。
損傷により海戦を見守るしかなかった「フォルミダビーレ」艦長デ・サン=ボン中佐は勇気ある者に与えられる勲功賞を得てその後も順調に昇進し、後に政府に参加し海軍大臣となります。
「レ・ディ・ポルトガロ」艦長のリボッティ大佐は、「カイザー」からの衝角攻撃から艦を救った行為と海戦中の勇気ある行動により受勲し、サン=ボン中佐よりお先の68年に内閣入り、海軍大臣になりました。彼の就任中に兵器や艦船デザインなどの研究が進み、イタリア海軍は世界でも手本とされる有力な海軍となり、サン=ボン大臣に引き継がれました。これは彼の功績が大きかったと言われています。
ところで、海戦から半月が過ぎた8月6日。
アンコナ港でリッサ海戦最後の犠牲が発生しました。
海戦で奮戦した誰も知らなかった旗艦「アフォンダトーレ」が軍港内の碇泊点で沈んだのです。海戦による装甲の歪みや損傷を原因とする浸水によるものでした。
沈んだのが港湾内のため、「アフォンダトーレ」は後にサルベージされ、艦隊に復帰しています。




