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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
Eine Ouvertüre(序曲)
10/534

第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争/戦火再び


☆ 発火


 15世紀中頃から続いたデンマーク王家、オレンボー(独・オルデンブルク)家にはアウグステンボー(独・アウグステンブルク)家という分家がありましたが、このアウグステンブルク家の正式名称は「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=アウグステンブルク」といい、この名が示す通りデンマーク南部の土地を経営していた大貴族でした。

 このアウグステンブルク公爵はナポレオン戦争を経てシュレスヴィヒ=ホルシュタイン両公国の「所有者」として当時の王家オレンボー家の臣下となっていましたが、ドイツ人が大多数を占める土地柄、デンマークよりドイツ連邦に親しみを感じており、1848年革命の混乱を機にデンマークからの完全独立を狙い(キール政府)、これが一つのきっかけで第一次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン(以下、SHとします)戦争が勃発します。


 SHのドイツ人たちが描いたシュレスヴィヒを含むドイツ連邦への完全な加盟という「夢」はこの「三年戦争」(デンマーク側の名称)で儚く消え去り、この戦争の終結によって生まれた「ロンドン議定書」では、戦争前と変わらないデンマーク王家であるオレンボー家によるSHとデンマークの同君連合が確定しますが、デンマーク国家による両公国の「国有化」は認められず、ホルシュタイン(とザクセン=ラウエンブルク。後述します)は変わらずドイツ連邦への加盟が認められます。

 しかしこの戦争の首謀者と見なされた王家分家のアウグステンブルク家当主クリスチャン・アウグスト2世はデンマークから追放され、それまで保持していたデンマークの王位継承権も剥奪されてしまいました。

 このロンドン議定書はほとんど現状維持という内容で、いわば戦争を終結させただけの「休戦協定」に等しいものだったため、ドイツ連邦とデンマーク、そしてオレンボー家、アウグステンブルク家双方に不満が残ってしまいます。


挿絵(By みてみん)

クリスチャン・アウグスト2世


 1850年代、デンマーク政府は何時火を噴くか分からない火薬庫、SHの経営を慎重に進め、最初はドイツ系住民に対しデンマーク語を押しつけず、司法や行政部門でもドイツ語とデンマーク語どちらでも書類の作成・受け取りが可能でした。シュレスヴィヒ北部地域(東はアルス島からフレンスブルクを経て西はレム島までを結ぶ線より北)は殆どデンマーク語地域、ホルシュタインとシュレスヴィヒ南部は殆どドイツ語地域という人口分布はこれまでと変わらないため、学校や教会ではその地域毎に言語を使い分けていました。

 この宗教と教育における言語の存在は重大で、SHではデンマークとドイツ語両方を話すバイリンガルが多数だったものの、当然ながら幼い頃から自分が同じ教区・同じ学校で普段友人と話している言葉に帰属意識が働くと言うものです。


挿絵(By みてみん)

シュレスヴィヒ公国の言語分布(19世紀中頃)


 1855年にはデンマーク王国内の各州(と帰属公国)の自治を高める修正憲法が発布され、デンマーク王国は立憲君主国として一段と民主化が進みますが、SH、特にシュレスヴィヒ公国ではデンマーク国王に絶対忠誠を誓う州政府が幅を利かせており、この憲法によっても公国の自治と独立性には制限が掛かったままでした。

 更にデンマーク政府はSHの自治拡大を目指す独自憲法を認めず、この55年の憲法はドイツ系住民と十分に話し合うことなく実施されたため、普段ドイツ語を使う人々の不満は高まり、ホルシュタイン州議会では55年憲法が拒否されてしまいました。


 そのデンマーク政界ではこの微妙なSHをどうするのか、延々と話し合いが続きますが、SHのドイツ系住民が満足するような提案はついぞ成されず、デンマーク政府の提案は常にホルシュタイン州議会に拒否されます。

 その中で、デーン人が多数を占めるフレンスブルクより北に住むシュレスヴィヒ公国北部地域の住人はデンマークへの正式な併合を求めて運動を続けており、デンマークではスウェーデンとの同盟を強化することでドイツ連邦を牽制し、シュレスヴィヒをデンマーク領土として憲法に取り入れようとする動きが次第に活発となって行きました。


 50年代末期になるとホルシュタイン公国を実質支配する「デンマーク系」ドイツ人とデンマーク本国との関係は悪化の一歩を辿り、遂にホルシュタイン公国選出の国会議員が強烈な不満を表明し一斉に辞任すると、1863年3月30日、デンマーク国王フレデリク7世は後に「3月の宣言」と呼ばれるようになる憲法修正を発布しました。

 これには明確にシュレスヴィヒ公国がデンマーク領土であることが示されており、ドイツ連邦は直ちに抗議、ドイツ連邦議会は同年7月9日、「先のデンマーク国王によるデンマーク王国の新憲法は今から6週間以内に取り消されるべきである」との宣言(取り消さない場合は何が起きるか分からないと言う警告)を採択し、これをデンマーク王国に要求しました。

 この危機に際しヨーロッパでの戦乱を望まないイギリスは、デンマークとの同盟強化を計るスウェーデン国王カール15世に対し状況悪化を防ぐよう要望しました。


 この時、当事者の片割れであるプロシア王国ビスマルク首相の頭の中には、ドイツ連邦や自由主義勢力と手を取り合ってSH問題を解決することなど片隅にもありません。

 既述通りプロシア国内では明らかに憲法違反状態の無予算統治が行われており、これに反抗する自由主義勢力とブルジョワの力は侮れず、いつまでも国内に不満を溜めていると48年のような悪夢(革命騒ぎ)が起きかねないため、ビスマルクは「デンマークとの『小さな戦争』によって軍の能力を国民に再度アピールしプロシアがドイツ連邦でもオーストリアに並ぶ強大国であることを連邦内に知らしめる」という「悪魔の解決法」を選ぶのです。

 このようにビスマルクにとってデンマークとの再戦は願って止まない事態でしたが、かと言ってオーストリアが求めるシュレスヴィヒとホルシュタイン両公国をデンマークから追放されていたアウグステンブルク家に統治させる、との案にはオーストリアの影響力が北独辺境にも及ぶため強硬に反対しました。

 とは言え、前回の失敗(海軍の格違いと英仏露の干渉)を繰り返さないためにもプロシア単独ではデンマークと戦うことが出来ないため、形式上ドイツ連邦と共同歩調を取って「SH問題はドイツ共通の利害に関係するから」とオーストリアを巻き込んで対応しようとするビスマルクでした。

 オーストリアとしてもプロシアが勝手に「ドイツの盟主」を名乗って連邦の親普国と共にデンマークと戦争するのは避けなければならず、何が何でも戦争に持ち込もうとするビスマルクの「共に手を取り合ってSHに侵攻する」という提案を渋々受け入れるのです。


挿絵(By みてみん)

シュレスヴィヒ=ホルシュタインとメクレンブルク=シュヴェリーン周辺(1860年)


 1863年10月1日。デンマークが先の憲法を撤回しないためドイツ連邦議会はドイツ連邦に加盟しているホルシュタイン公国とザクセン=ラウエンブルク公国*をドイツ連邦軍によって保護占領し、同時にデンマーク王国に対しロンドン議定書の遵守を求めることを採択します。

 実際の執行はプロシアとオーストリア、ザクセン、ハノーファーの各国軍から抽出された混成部隊により行われることが決まりますが、ドイツ連邦議会ではプロシアとオーストリア軍が動くと英露仏を刺激し、またデンマークとの関係を深めようとしているスウェーデンが参戦するなど事態がエスカレートする事が危惧され、先ずはザクセンとハノーファー両軍だけで(これを連邦南軍と呼びます)ホルシュタインとラウエンブルクへ進駐することも決まりました。


※ザクセン=ラウエンブルク公国

 申し訳ありませんが、筆者はここまでこの小邦をホルシュタインの「一部同然」と無視して来ました。

 この公爵領はホルシュタイン公国の南東側、メクレンブルク=シュヴェリーン大公国との間にある小領邦で、元はザクセン公の分家領でした。領主は時代時代で様々に変遷しますが、ナポレオン戦争後に公国を占有したプロシア王国がデンマーク王国との間でポンメルン領を巡る領土交換を行いデンマークに支配権が渡り、ザクセン=ラウエンブルク公国はホルシュタイン公国と同じくデンマークと同君連合となっていました。


 ところが、この強制執行が実施される前にデンマーク王国は新たな憲法を発布し、これは11月18日、フレデリク7世の急逝によって即位した新しいデンマーク王・クリスチャン9世によって署名されました。フレデリク7世の死の直前、急ぎ発布されたこの修正憲法は正式名を「デンマーク王国とシュレスヴィヒ公国の共通問題に対する基本法」といい、この憲法修正にはホルシュタインに関する文言がなく、ただシュレスヴィヒとデンマークが共通する憲法を持つと定められており、これは1855年の憲法修正に上書きされることとなります。

 この新憲法ではシュレスヴィヒ州はデンマーク議会とは別に独自の議会を持つことが許され、これは先の「3月の宣言」から一歩後退した内容でしたが、同時にこれはホルシュタイン州とシュレスヴィヒ州とが明確に分離される形を示していました。しかしこれでもロンドン議定書に定められたデンマークのシュレスヴィヒ「領有」禁止に違反する状態に変わりありません。


 このデンマークの国王交代はSHの運命にとって重大な意味がありました。


 オレンボー家の前王・フレデリク7世は父クリスチャン8世とその妻、ドイツ連邦で親プロシア国家のメクレンブルク=シュヴェリーン大公国フリードリヒ・フランツ1世の次女シャルロッテ・フリーデリケ妃との間に生まれますが、両親は不仲でクリスチャン8世が国王になる前・王太子時代に離婚してしまい、クリスチャン8世はアウグステンブルク公の長女と再婚しますが子を得ることは出来ませんでした。そのため王太子となったフレデリク7世でしたが、この王様は大酒飲みで放蕩家、暴力も振るうというどうしようもない王子時代を過ごし、二度離婚した後に愛人と貴賤結婚に及びますが結局世継ぎは生まれませんでした。

 しかしフレデリク7世は国王になると「良い王様」になろうと努力し立憲君主制に踏み切り、第一次SH戦争の勝利により国民から絶大な信頼を得ますが、この「世継ぎ」問題はSH問題に更なる複雑な要素を加えるのです。


挿絵(By みてみん)

フレデリク7世(デンマーク王)


 デンマーク王国はサリカ法(簡単に言えば男系優位で女系は基本的に国王になれない相続方式)を奉じていませんし、これまでのデンマーク王家、オレンボー家でもこのように男系が絶えた場合女系も相続可能としていましたが、ホルシュタイン公国とシュレスヴィヒ公国ではサリカ法が適用されており、これが一つの「発火点」になってしまいます。

 つまり、SHの「国主」はデンマーク国王との建前のため、フレデリク7世が崩御した場合、次の国王選びは「デンマーク王国ではサリカ法に従わなくても良いがSHではサリカ法に縛られる」ことになります。また、デンマークもSHも当時は女性が国主となることを許していませんでした(現在は認められて現王は女王マルグレーテ2世)。

 血縁から見てオレンボー家で次のデンマーク王に最も近いのは、ドイツ連邦の一員ですがオレンボー家とは深い姻戚関係にあるヘッセン=カッセル家に嫁ぐ父方の叔母(先王の妹)、ルイーセ・シャロデ妃の系統となりますが、当然彼女に継承権はなく、継承権はその子に下りますが既に彼女は1851年7月、娘が嫁いだグリュックスブルク家のクリスチャン(後述)に継承権が渡るよう息子の継承権を放棄していました。これは第一次SH戦争直後に行われ、独連邦の一国であるヘッセン=カッセルを将来複雑な状況に追い込まないためでもあるようです。

 その次に近いのは、二代前の国王フレゼリク6世の子供から続く系統でしたが、フレゼリク6世の子供は2人とも女性で、その子孫唯一の男子は第一次SH戦争を起こした張本人としてロンドン議定書でデンマーク国王継承権を放棄させられたアウグステンブルク家のフリードリヒ公でした。

 こうなると「デンマーク国王兼SH公国国主」になれる人物はオレンボー家の系統にはいません。デンマーク王家筋で次いで位階が高いのはアウグステンブルク家ですが、前述の理由で除外されていたため、継承権は同じオレンボー家の「遠い」親戚「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク(グリュックスボー)家」(現在まで続く王朝です)に渡ります。

 この家系は先のヘッセン=カッセル家と姻戚関係がありデンマーク王位継承権も比較的高い位置にあると同時に男系のためSH公国の継承権もありました。


 このグリュックスブルク家でデンマーク王位継承権が一番高かった人物がクリスチャン公でした。

 この王子さまは血筋的に言えば5代前のデンマーク国王フレゼリク5世の曾孫、妻は2代前の国王クリスチャン8世の姪(前述のルイーセ・シャロデ妃の娘ルイーセ)という、デンマークとは比較的「薄い」繋がりでしたが、父の死によりオレンボー家の保護の下で成長し、幼少期からデンマーク首都コペンハーゲンに住んでおりました。

 このグリュックスブルク家への国王継承権は(フレデリク7世が世継ぎを得られない事を見越して)1852年のロンドン議定書でも認められており、フレデリク7世の崩御からちょうど1ヶ月後の1863年11月15日、公爵はデンマーク国王クリスチャン9世として即位したのでした(45歳)。


挿絵(By みてみん)

クリスチャン9世(デンマーク王)


 ……理解されていますでしょうか?

 正直筆者も理解に苦しんでいますので、デンマーク語や独語を訳していることもあり勘違いもあるかと思います。その節は申し訳ありません。


 話を戻します。

 SH問題が戦争に結び付こうとしていたこの時期の王家交代は絶望的なバッドタイミングでした。

 戦争を起こしたくて仕方がない策士ビスマルクにとり願ってもないこの機会、彼が「悪知恵」を働かせない訳がなく、「ロンドン議定書にデンマーク国王継承権第一位はグリュックスブルク家のクリスチャン公と記されていることに間違いはなく、クリスチャン9世のデンマーク国王登極には反対しないが、これまでのデンマーク王家であるオレンボー家が断絶した場合のSH両公国継承権は議定書に記載されていない」と「屁理屈」をこね、「新王家グリュックスブルク家にはSH両公国の支配権はない」、と声高に騒いだのです。


 デンマーク政府内ではドイツ連邦との対決が避けられない状況となるとスウェーデンとの同盟が熱望されますが、これは期待外れに終わります。

 それまでデンマークとの同盟に積極的関与を匂わせていたスウェーデン国王カール15世ですが、その「野望」はスウェーデンとデンマークとの「連合王国」まで夢見ていたフレデリク7世の死によって実現が怪しくなりました。

 更に英・露・仏はこの「スカンジナヴィア再統一」を警戒して圧力を掛け続けていたため、スウェーデン政府と議会は国王に反対してデンマークとSH問題への関与を阻止してしまいました(結局中立となります)。


 いよいよ戦争が間近になったと危惧したイギリスは、それまでの双方への「呼び掛け」を強めて仲裁に入り、12月に入るとデンマークとドイツ連邦に対しロンドン議定書に署名した各国代表による調停を行う旨発表します。

 この提案を受けたデンマーク政府と新国王クリスチャン9世は12月4日、「3月の宣言」を撤回しイギリスの仲裁を受けると発表ました。これによりデンマークはドイツ連邦が企むホルシュタインとラウエンブルクの占領回避を狙いますが、プロシアとオーストリアは「新たに11月憲法が発布されているので3月の宣言撤回は全く意味がない」として仲裁案を拒絶、イギリスの仲裁は失敗に終わります。これにより英・露・仏の三ヶ国はデンマークが11月憲法を撤回しない限り、今後発生が予測されるドイツ連邦とデンマーク王国との紛争には中立として臨むことを表明するのでした。


 ドイツ連邦では連邦議会で承認されたホルシュタインとラウエンブルクの占領を実行するため、ザクセン軍とハノーファー軍の執行部隊がエルベ川南岸に集合します。同時にドイツ連邦はデンマークに対しホルシュタインとラウエンブルクから軍を引き上げるよう要求しました。

 12月10日、ザクセン・ハノーファー合同兵団の司令官にザクセン軍のハインリヒ・グスタフ・フリードリヒ・フォン・ハーケ中将が任命され、その参謀長には同軍の秀英ゲオルク・フリードリヒ・アルフレッド・フォン・ファブリース大佐が就任しました。


挿絵(By みてみん)

グスタフ・フォン・ハーケ


※ホルシュタインとラウエンブルクを保護占領するためのドイツ連邦軍


◯ザクセン王国・ハノーファー王国合同兵団

 兵力/歩兵12個大隊・騎兵12個中隊・野砲32門(兵員13,176名、馬匹4,139頭)

◯プロシア王国派遣軍(本国待機)

 兵力/歩兵37個大隊・騎兵29個中隊・野砲110門(兵員45,136名、馬匹13,656頭)

◯オーストリア帝国派遣軍(本国待機)

 兵力/歩兵20個大隊・騎兵10個中隊・野砲48門(兵員27,050名、馬匹4,838頭)


 総兵力/歩兵69個大隊・騎兵51個中隊・野砲190門(兵員85,362名、馬匹22,633頭)


 事ここに至り、シュレスヴィヒ公国領以南はドイツ連邦に占領されても止むを得ないと考えていたデンマークは12月17日、首相の名による声明でホルシュタインから正規軍を引き上げさせ、シュレスヴィヒ防衛のためアイダー川北岸にデンマーク軍主力を展開させます(元よりラウエンブルク領にデンマーク正規軍は存在しませんでした)。

 12月19日、ザクセン・ハノーファーの連合軍部隊「ドイツ連邦南軍」はハンブルクの東郊、ラウエンブルク国境付近に集結を完了すると同月23日(寒波厳しく大雪が降る日)、国境を越えてホルシュタインとラウエンブルクへの侵攻が始まりました。

 ドイツ連邦軍(以下・独軍)は順調に北上を続け、大晦日にシュレスヴィヒとの国境レンズブルク(キールの西30キロ)を占領、シュレスヴィヒとの境界・アイダー河畔に到達します。

 ホルシュタインには総計12,000名のデンマーク軍(以下・D軍)が広く散った形で駐屯していましたが、独軍の進撃に合わせるかのように北上しアイダー川を渡ってシュレスヴィヒ領へ待避しました。駐屯部隊は郷土出身兵も多く離隊した者もいたのでは、と想像します。結果、独南軍のホルシュタイン進駐はD軍と独が入れ替わる形で進展し、戦闘らしい戦闘は発生しませんでした。


 ホルシュタインではどの町でも独軍が大歓迎され、街路にはドイツ連邦旗が掲げられ、行軍する将兵たちには花束や月桂冠が渡されるのでした。独南軍が最終的に到達したレンズブルクの南城門には親愛の標としてハノーファーとザクセンの王国旗が掲げられたのです。


挿絵(By みてみん)

フレンスブルクの南門(1864年1月)


 アウグステンブルク家の家長、公爵クリスチャン・アウグスト2世の子息で第一次SH戦争でも叔父アフ・ノール公と共にSH軍を率いて戦場に立ったフレデリク・クリスチャン・アウグスト公は、「SH公爵の正当な継承資格は私にある」として、民衆から熱烈な歓声を浴びつつ独南軍の殿を進み、12月30日にホルシュタイン主邑キールへ入城するとシュレスヴィヒ=ホルシュタイン公国の国主として帰還したことを宣言、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン公爵「フリードリヒ(フレデリク)8世」を名乗るのでした。


挿絵(By みてみん)

フレデリク・クリスチャン・アウグスト


 しかし独連邦ではこの後をどうするのかで意見の対立が発生します。


 プロシア(以下・普)とオーストリア(以下・墺)はドイツ連邦議会に対し「アウグステンブルク家のフレデリク公はロンドン議定書によりSH公国の公爵となる資格を喪失している」としてSH支配権を認めず、ドイツ連邦からの追放を要求しました。しかし、SH領域内のドイツ系住民はアウグステンブルク家の復帰を歓迎しており、ドイツ連邦加盟の中小領邦やバイエルン、ハノーファー、ザクセンなど力のある各国もアウグステンブルク家の復帰に賛成し、ドイツ連邦議会は普墺の提案を反対多数で否決してしまいます。同じく普は「デンマークが『11月憲法』を撤回しない限りシュレスヴィヒまで占領する」とした議案も提出しますが「そこまでするのはやり過ぎ」とする各領邦の反対でこれも否決されてしまいました。

 実は墺も内心は「反対」で、ホルシュタインとラウエンブルクだけでも独連邦の一領邦として独立させ、アウグステンブルク公爵の支配権を確立したい考え(普の影響圏拡大阻止)でした。しかしロンドン議定書に従ってアウグステンブルク家を追放し併せてSH全体を占領、あわよくばSHの併合まで匂わせる普首相ビスマルクの思うままにさせないためにも普王国に同調し主導権を奪われないようにするしかない墺帝国でした。

 結果、普墺両派遣軍はホルシュタイン目指して行軍を開始しますが、独連邦でも力のあるバイエルンとザクセン両王国は普墺の勝手な行動を非難し、墺軍の鉄道輸送による自国領土内通過を許可せず、独連邦は「普墺によるこれ以上の戦争行為は連邦義務違反」との決議を採択します。墺軍はプロシア領内と親プロシア領邦内のみを通過するため遠回りを行い、シュレジエン地方を縦断しメクレンブルク=シュヴェリーン大公国を経て遙々軍隊をホルシュタイン国境まで輸送しています。

 このままでは独連邦内での紛争も起きかねませんでしたが、普墺を除く独連邦議会はホルシュタインに進駐していた独南軍による普墺両軍への阻止行動を「問題の複雑化を招く」として控えることとし、独南軍は普墺両軍のホルシュタイン進駐直前にホルシュタインから一時撤退してしまうのでした。


 明けて1864年1月7日、ホルシュタインとラウエンブルクに普・墺両軍の部隊が進駐を始めると、同月14日、両国は「最早連邦議会の決定に対する拘束は消失した」と宣言、シュレスヴィヒ侵攻のため合計61,000名の大軍がアイダー川南方に集合を始めました。


 2日後の16日。

 普墺両国はデンマークに対し、「11月憲法を撤回しD軍は48時間以内にシュレスヴィヒ公国から撤兵すること」との主旨で最後通牒を発します。

 デンマークではこの要求に対する民意と国王の意思を確認するための会議がだらだらと続き、結局は外務大臣の書簡により否定的な反応を表明しただけで時間内に国王の名による回答を示すことが出来ませんでした。

 結果デンマークは要求を拒否した形となり、2月1日、後の世に第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争(独は「ドイツ=デンマーク戦争」デンマークは「第二次シュレスヴィヒ戦争」と呼びます)と呼ばれる戦争が始まります。


 イギリスの世論はデンマークに対して同情的で、戦争が始まっても積極的に和平に向けた交渉を続けました。イギリス外交筋はデンマークによる憲法問題を解決するまで6週間の猶予を与えるよう普墺に要請しますが拒絶され、前回の戦争では普阻止のため干渉に回ったフランスとロシアも今回は日和見を決め込んで動きません。何故ならば両国に顔が利くビスマルクが甘言を弄して巧みに立ち回り不干渉を勝ち取ったからで、ナポレオン3世に至っては「SH問題に対する独の立場も理解出来る」と周囲にほのめかすのでした。


☆ 両軍の展開


 シュレスヴィヒとホルシュタイン両公国(以下、SH)へ侵攻するに当たり、普墺連合軍(以下、独軍)の総司令官は、1848年の第一次SH戦争でも総指揮を執りベルリン暴動を平定したフリードリヒ・フォン・ヴランゲル元帥が就任し、隷下の普軍は王家軍人でも頭抜けた才能を見せていたヴィルヘルム1世の甥、若き騎兵大将フリードリヒ・カール親王が、墺軍は気鋭の将軍ガブレンツ中将が各々指揮官として就任しました。


 ヴランゲル元帥は参謀長となったファルケンシュタイン中将と共に参内するとヴィルヘルム1世直々に「軍事作戦は全て貴官らに託す」との勅令を頂き、張り切って戦場へ向かったのです。

 この時、普参謀本部はモルトケ総長の名で、独軍がD軍の構える戦線に直接衝突するのでなく出来うる限り迂回しシュレスヴィヒ公国とデンマーク本国との境界まで席巻しつつD軍を包囲、その後一大野戦で殲滅を図る具体的な作戦を示していました。

 この作戦に因れば独軍は最初にシュレスヴィヒ市占領を主目的にしてカール親王の普第3軍団はキール付近に集合、そのままユトランド半島東側を北上し、レンズブルク南方に集合する墺第6軍団と普混成近衛師団は半島西部を北上する作戦でした。第一次SH戦争のようにD軍にドゥッペル(独語読み。デンマーク語では「ディボル」が近い)堡塁群やアルス島へ脱出させる余裕を与えないことも重要だったのです。モルトケ総長が一番恐れていたことはD軍主力が早々アイダー川の防衛線を離れ、このドゥッペル堡塁群などの強固な防衛線に籠もってしまい戦争が長期化、大きな犠牲を払わねば勝利を得られない状態に陥る事でした。そのためには多少無理してでも敵より素早く前進し停滞しないことが重要だったのです。


 こうしてモルトケ率いる参謀本部にいよいよ改革の成果を示す機会が訪れました。

 しかし、彼には深刻で複雑な思いもあったのです。


 前回の第一次SH戦争でモルトケは直接戦闘に関与することがありませんでした。しかし、この二回目の対デンマーク戦には参謀本部総長として臨まねばなりません。

 既述通りモルトケは両親共にドイツ人・ドイツ領(メクリンブルク=シュヴェリーン大公国)で生まれた生粋のドイツ人ですが、父親の関係でプロシア軍に参加するまではデンマーク国籍を持つデンマーク軍人だったのです。実兄や親戚筋には未だにデンマーク人として暮らしている者もいましたし、軍人として勤務している者もいました。デンマーク人の知人もいたことでしょう。少年時代の思い出も甦ると言うものです。しかしモルトケは他人にその逡巡を見せる事なく冷徹に仕事と割り切って過去の自分と決別するのでした。


 しかし、モルトケがせっかく立てた作戦も、紛争地域以外のデンマーク領を攻撃する部分があったため、イギリスやスウェーデンなどの介入を恐れたビスマルクら政府首脳に拒絶されてしまいます。

 そのため、シュレスヴィヒ公国内にデンマーク軍主力を逃がさず拘束し包囲殲滅する、という初期の作戦概要だけがヴランゲルに示されました。


 自信満々のヴランゲル元帥は当初こそ参謀本部の作戦案に沿って軍を配置したものの、開戦数日後には「無駄飯喰らいの若造ども」の意見など鼻で笑って無視し始めてしまうのでした。

 カール王子付の参謀長、フォン・ブルーメンタール少将など若き数名の参謀たちはモルトケ参謀総長の意を理解し、頑固な長老と時代の変化を無視する上司たちを何とか説得しようと努めますが、これもフォン・ファルケンシュタイン将軍ら参謀本部を信用しない旧弊な「イエスマン」参謀たちに阻まれてしまうのです。


挿絵(By みてみん)

 ヴランゲル元帥


 このヴランゲルという軍人は、この時既に80歳。兵士ばかりでなく一般市民からも親しみを込めて「パパ・ウランゲル」と呼び掛けられる国軍の重鎮です。

 元帥はポメラニアの軍人貴族の家に生まれ、1796年・12歳で竜騎兵第6連隊に入隊し長い軍歴をスタート、激動のナポレオン戦争を戦い抜きました。この戦争中、胸甲騎兵第3連隊の一少尉としてオランダ国境のハインスベルクの戦い(1807年6月10日)で勇敢に戦い肩を負傷、プール・ル・メリット章を受勲、恐れを知らぬ勇猛果敢さと天真爛漫な明るさを武器に頭角を現し、戦争が終わった1815年には僅か31歳で大佐にまで昇進しています。既述通り1848年の革命時には暴徒に占拠されたベルリンに向け進軍し、ベルリンの入口・ブランデンブルク門を潜ったら捕えた妻を殺す、との反乱側の脅迫をものともせずに門前まで軍を進めます。その時、顔色一つ変えず事もなげに傍らの副官へ「奴らはもう妻を吊るしてしまったかな」と尋ねたともいいます。結局、彼は市内に入ると反乱側指導者と交渉、大事に至る前に暴徒を解散させベルリンを解放しました。妻は無事でした。それ以来、王家の信頼厚く普軍ではもっとも尊敬される存在だったのです。

 そのヴランゲルは言います。「光輝ある伝統の普軍に参謀本部などという邪魔者がいるのは大いなる恥だ」と。

 未だ軍部で存在が薄い参謀本部、偉大な先輩が張り切っている時に「邪魔者」扱いの参謀本部は、モルトケはおろか下級参謀までもがベルリンから一歩も外へ出られないまま、指をくわえて戦況を見ているだけという状態となってしまいました。


※第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争における開戦時の独軍戦闘序列


◎プロシア・オーストリア連合軍

 総司令官 フリードリヒ・フォン・ヴランゲル元帥(普軍)

 参謀長 エドゥアルト・エルンスト・フリードリヒ・フォン・ハンニバル・フォーゲル・フォン・ファルケンシュタイン中将

 総兵力約55,000名・騎兵6,500騎・野砲180門


◎編成

○プロシア第3軍団(戦争中は「第1軍団」と呼称されます)

 軍団長 フリードリヒ・カール・ニコラウス・フォン・プロイセン親王騎兵大将

 参謀長 伯爵カール・コンスタンチン・アルブレヒト・レオンハルト・フォン・ブルーメンタール少将


挿絵(By みてみん)

フリードリヒ・カール・フォン・プロイセン(1860年)


◇プロシア第6師団

 師団長 アルベルト・エーレンライヒ・グスタフ・フォン・マンシュタイン中将

□第11旅団

 旅団長 男爵フィリップ・カール・クリスチャン・フォン・カンスタイン中将

+フュージリア第35「ブランデンブルク」連隊

 連隊長 男爵コンスタンチン・ゲオルグ・カール・フォン・プットカマー大佐

+第60「ブランデンブルク第7」連隊

 連隊長 マティアス・アンドレアス・エルンスト・フォン・ハルトマン大佐

□第12旅団

 旅団長 ユリウス・アウグスト・ハインリヒ・エドゥイン・フォン・ロエーダー少将

+第24「ブランデンブルク第4」連隊

 連隊長 伯爵エミール・ユージン・ルートヴィヒ・ユリウス・フォン・ハーケ大佐

+第64「ブランデンブルク第8」連隊

 連隊長 フォン・ゲッツ大佐

□第10旅団(プロシア第5師団所属)

 旅団長 エデュアルト・グスタフ・ルートヴィヒ・フォン・ラーベン少将

+第8「ブランデンブルク第1」連隊

 連隊長 エミール・アレクサンダー・アウグスト・フェルディナント・リッター・ウント・エードラー・フォン・ベルガー大佐

+第18「ポーゼン第1」連隊

 連隊長 男爵カール・フリードリヒ・フォン・ケットラー大佐

◇プロシア第13師団

 師団長 男爵アドルフ・フェルディナント・カール・フォン・ヴィンツィゲローデ中将

□第25旅団

 旅団長 フリードリヒ・フォン・シュミット少将

+第13「ヴェストファーレン第1」連隊

 連隊長 ゲルハルト・アウグスト・フォン・ヴィッツレーベン大佐

+第53「ヴェストファーレン第5」連隊 

 連隊長 ハンス・ルートヴィヒ・ウード・フォン・トレスコウ大佐

□第26旅団

 旅団長 アウグスト・カール・フリードリヒ・クリスチャン・フォン・ゲーベン少将

+第55「ヴェストファーレン第6」連隊

 連隊長 ヨハン・クリスチャン・アレクサンダー・ストルツ大佐

+第15「ヴェストファーレン第2」連隊

 連隊長 カール・ヨハン・ペーノメン・フォン・アルヴェンスレーベン大佐

◇混成騎兵師団

 師団長 伯爵フーゴ・エーベルハルト・レオポルト・ウニコ・ツー・ミュンスター=マインヘーヴェル中将

*胸甲騎兵第4「ヴェストファーレン」連隊

 連隊長 カール・ヨハン・フォン・シュミット中佐

*驃騎兵第3「ブランデンブルク/フォン・ツィーテン」連隊

 連隊長 伯爵ゲオルク・ラインハルト・フォン・デア・グレーベン=ノイデルヘン大佐

*驃騎兵第8「ヴェストファーレン第1」連隊

 連隊長 ヘルマン・カール・ディートリヒ・フォン・ランツァウ大佐

*竜騎兵第7「ヴェストファーレン」連隊

 連隊長 オットー・ヴィルヘルム・フォン・リベック中佐

*槍騎兵第11「ブランデンブルク第2」連隊

 連隊長 カール・フォン・ジクセン大佐

*砲兵第3旅団 

 旅団長 ルイス・マックス・ナポレオン・コロミエ大佐


挿絵(By みてみん)

 プロシア兵(1864年)


◇独立部隊

*猟兵第3「ブランデンブルク」大隊

 大隊長 ヴェンツェスラウス・フォン・パツィンスキー=ツェンテン少佐

*猟兵第7「ヴェストファーレン」大隊

 大隊長 フリードリヒ・ルートヴィヒ・エミール・フォン・ベッケドルフ少佐

*工兵第3「ブランデンブルク」大隊

 大隊長 フォン・ロッチャー少佐

*工兵第7「ヴェストファーレン」大隊

 大隊長 不詳

*砲兵第7旅団 

 旅団長 グラーヴ少佐


*約24,000名、各種大砲約110門(他・要塞砲兵7個中隊を帯同)

(右翼/東に布陣)


○オーストリア第6軍団(歩兵4個旅団・騎兵1個旅団・工兵3個中隊)

 軍団長 男爵ルートヴィヒ・カール・ヴィルヘルム・フォン・ガブレンツ中将


挿絵(By みてみん)

ガブレンツ(1864年)


□ゴンドルクール旅団

 旅団長 伯爵レオポルト・ゴンドルクール准将

+猟兵第18「ボヘミア」大隊

 大隊長 フォン・トビアス中佐

+第30「男爵マルティニ」連隊

 連隊長 男爵フォン・アベル大佐

+第34「プロシア国王」連隊

 連隊長 フォン・ベネデック大佐

□トマス旅団

 旅団長 ヨーゼフ・トマス准将

+第6連隊

 連隊長 フォン・フェルドエッグ大佐

+第80連隊

 連隊長 伯爵ゴットフリート・レオポルト・アウエスペルグ大佐

□ノスティッツ旅団

 旅団長 ヨハン・カール・フォン・ノスティッツ准将

+猟兵第9「シュタイアーマルク」大隊

+第27「ベルギー国王」連隊

 連隊長 公爵ヴィルヘルム・ニコラウス・フォン・ヴュルテンベルク大佐

+第14「ヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒ公」連隊

 連隊長 男爵アドルフ・シュッテ・フォン・ワレンスバーグ大佐

□ドルムス旅団

 旅団長 男爵ヨーゼフ・ドルムス・フォン・キリアンハウゼン准将

+2個連隊(不詳)


*独立騎兵

+竜騎兵第14「ヴィンディッシュグレーツ親王」連隊

+リヒテンシュタイン驃騎兵連隊


*約20,000名、騎兵不詳、各種大砲55門

(中央に布陣)


挿絵(By みてみん)

オーストリア兵(1864年対デンマーク戦)


○プロシア混成近衛師団

 師団長 オットー・アルブレヒト・カール・ハインリヒ・フォン・デア・ミュルベ中将

□近衛歩兵旅団

 旅団長 ハインリヒ・ルートヴィヒ・フランツ・フォン・プロンスキ中将

+近衛歩兵第3連隊

 連隊長 ベルンハルト・ヴィルヘルム・フォン・デア・グレーベン大佐

+近衛歩兵第4連隊

 連隊長 マルティン・ルートヴィヒ・ヴィルヘルム・フォン・コルト大佐

□近衛擲弾兵旅団

 旅団長 ゲオルグ・フェルディナント・フォン・ベントハイム少将

+近衛擲弾兵第3「王妃エリザベート」連隊

 連隊長 カール・フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ヴィンターフェルド大佐

+近衛擲弾兵第4「王妃アウグスタ」連隊

 連隊長 ハンス・グイド・フォン・オッペル大佐→ルドルフ・オットー・フォン・ブドリスキー大佐

□混成騎兵旅団

 旅団長 エドゥアルト・モーリッツ・フリース大佐

+近衛驃騎兵「親衛」連隊・3個(第1、3、4)中隊

 連隊長 ヘルマン・フォン・カーセンブレック大佐

+胸甲騎兵第6「ブランデンブルク」連隊・2個(第1、4)中隊

 連隊長 アルフレート・ボナヴェントゥラ・フォン・ラウフ大佐


*歩兵10,000名、騎兵500騎、野砲16門

(左翼/西に布陣)


○増援(6月下旬より)

□普第21旅団

 旅団長 フーゴ・エヴァルト・フォン・キルヒバッハ少将

+擲弾兵第10「シュレジエン第1」連隊

 連隊長 男爵ルドルフ・ゴットフリート・ヴィルヘルム・ルイス・カール・エルンスト・フォン・ファルケンシュタイン大佐

+第50「ニーダーシュレジエン第3」連隊

 連隊長 グスタフ・エドゥアルト・テオドール・フォン・ハッケヴィッツ大佐


○海軍

*プロシア海軍

 各種機帆艦船23隻(砲総計117門)

 各種帆船25隻(砲総計40門)

 ・沿岸防衛が精一杯の内海艦隊。

*オーストリア海軍(派遣戦隊)

 戦隊長 テゲトフ大佐「コモドーレ」(戦隊指揮官。しばし代将や准将と訳されますが、これは階級ではなく通常は先任艦長の大佐が任務により任命される役職名です)

 機帆艦船9隻(砲総計246門)

 ・但し、アドリア海より航海中のため、5月になるまで介入不可能。


 ※他、沿岸防衛として総兵力21,300名をプロシア領海岸線に展開します。


 普軍歩・騎兵はドライゼ小銃(騎兵やフュージリア兵、一部砲兵は銃身を短くした騎兵銃などの専用銃)を装備、青銅製前装砲から更新中の野砲は一部がクルップ後装鋼鉄砲でした。D軍と墺軍は全て青銅製前装砲と前装銃です。

 普墺の両軍将兵は、敵味方識別のため左腕に白い腕章を着用します。この腕章はナポレオン戦争後半の「解放戦争」でも着用された独連合軍伝統の識別腕章でした。


挿絵(By みてみん)

初めて見るドライゼ銃に興味津々のオーストリア兵


 対するデンマーク政府は12月上旬、戦争が避けられなくなった時期にD軍の軍事省から報告された「独は春まで国境(アイダー川)で対峙するだけで本格的な攻撃はその後になるだろう」との「希望的」観測を受け、防戦準備を比較的ゆっくりと行います。

 その結果、平時は7,500名を定員とするD野戦軍は時間を掛けて動員を行い満足の行く部隊編成を行おうとしたため、動員当初は軍の編成が明確でなく、多くの士官が辞令を受けて新たな部署に異動したため、多数の指揮官たちが馴染みの薄い部隊で部下を深く知ることなく戦う羽目となるのです。

 当初から問題だった砲兵の員数と砲数不足(結局104門の野砲を操作する砲兵しか集まりませんでした)は高級指揮官たちの頭痛の種でした。

 1863年12月25日、D軍の最高司令官として第一次SH戦争でも活躍したクリスチャン・デ・メザ中将が就任し、将軍は早速「防衛線はシュレスヴィヒ市南方のダネヴェルク(シュレスヴィヒ市の南東5.2キロ)堡塁群を中心に展開する」との方針を部下に伝えるのでした。

 陸軍の編成・展開は、以下の計画に従い実施されました。


※第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争における開戦時のD軍戦闘序列


◎デンマーク王国軍

総司令官 クリスチャン・ジュリアス・デ・メザ中将

参謀長  ハインリヒ・アウグスト・テオドール・カウフマン大佐

主席参謀 シギスムント・ルートヴィヒ・カール・フォン・ローセン大尉

総兵力約54,000名(野戦36,000名・後方予備18,000名)・騎兵1,000騎以上・各種野砲104門


挿絵(By みてみん)

 デ・メザ将軍


◎編成

○第1師団  ゲオルク・ダニエル・ゲルラッハ少将

□第1旅団 ゲオルク・ヘンリク・ドゥ・ラッソン大佐

 在・シュレスヴィヒ市

□第2旅団  パウル・ウルリヒ・シュアルフェンベルク大佐

 在・シュライ湾(フィヨルド)沿岸。カッペルン(シュレスヴィヒ市の北東28キロ)付近

□第3旅団  ヨハン・フリップ・アンドレアス・ヴェリスホーファー大佐

 在・アイダー北岸・ゼーエシュテット(レンズブルクの北東12キロ)付近


○第2師団 ピーター・ヘンリク・クロード・デュ・プラット少将

□第4旅団 エルンスト・ヘンドリック・クラウデ・ドゥ・ヴィルスタ少将

在・シュレスヴィヒ市

□第5旅団  ハンス・チャールズ・ヨハネス・ベック中佐

在・エッカーンフェルデ(レンズブルクの北東21.5キロ)付近

□第6旅団  オットー・クリスチアン・セヴェリン・アウグスト・フォン・ビューロウ大佐

在・フリードリヒシュタット(レンズブルクの西37キロ)付近


○第3師団 ペーター・フレデリク・ステインマン少将

□第7旅団  カール・フィリップ・フリーデマン・マクシミリアン(マックス)・ミュラー大佐

在・ダネヴェルク堡塁群

□第8旅団  ハインリッヒ・アウグスト・テオドール・フォン・カウフマン大佐(兼務)

在・ダネヴェルク堡塁群

□第9旅団  ヨハン・ヴァルデマー・ネーアガード大佐

在・ダネヴェルク堡塁群


○騎兵集団

□騎兵2個旅団


○第4師団 カイ・ヘーガーマン=リンデンクローネ中将

在・


○歩兵予備兵団 フレデリク・カール・ヴィルヘルム・カロック少将

在・首都近郊


 このようにD軍はシュライ湾(その西の外れがダネヴェルクの堡塁群となります)からアイダー河畔のフリードリヒシュタットまでの間、65キロ余りの防衛線を構築し、レンズブルクの東とエッカーンフェルデに前衛監視部隊を置きました。

 その中心はダネヴェルクの堡塁群で、これは9世紀からドイツ人の進出を防ぐ目的で構築された一大防衛拠点でその正面土塁は総延長8キロに及び、シュレスヴィヒ市を守っていました。その東側はフィヨルドのシュライ湾、西側には無数の小川や湿地が広がっており、この土地は大軍の侵入を防ぐのに適していました。

 また、政府としては全作戦をデ・メザ将軍に託しただけで特に戦略などはない状態でしたが、優位に立つ海軍が第一次SH戦争と同様バルト海を封鎖することで、東海岸から反撃に出ることを漠然と期待していました。


※開戦時のデンマーク海軍


 各種機帆艦船31隻(砲総計363門)

 各種帆船80隻

 ・当時最新鋭・世界初の装甲砲塔艦(モニター)「ロルフ・クラケ」(1,360t・26cm(単装砲塔)x2、12cmx4他)が就役したばかり。当時としては世界有数・強力な海軍です。


挿絵(By みてみん)

ロルフ・クラケ(デンマーク装甲砲塔艦・(1863年)

挿絵(By みてみん)

ロルフ・クラケ1863年のプラン


挿絵(By みてみん)

コペンハーゲン港のデンマーク艦隊(1864年2月)


 1864年1月22日。フォン・カンシュタイン将軍率いる普第11旅団と墺軍のゴンドルクール准将旅団から墺猟兵第18大隊(ボヘミア出身兵の大隊)と墺第30連隊が密かに宿営を離れ、先行してアイダー河畔の最前線に進出します。

 同1月31日早朝。普墺両国は普墺派遣軍司令官フリードリヒ・フォン・ヴランゲル元帥の名で「シュレスヴィヒを保護占領するため軍を動かす」との主旨の宣言を、普墺以外のロンドン議定書署名国(デンマーク、スウェーデン、イギリス、フランス、ロシア)に発しました。

 同時に戦争の相手方指揮官となるデ・メザ将軍に宛てて「命令によりシュレスヴィヒ公国を占領するため作戦を発動するので麾下をデンマーク領へ引き上げるよう」要求します。

 当然ながらデ・メザ将軍は「拒否する」との回答をよこしたため、2月1日早朝、ヴランゲル元帥は全軍に前進命令を発し、諸隊は一斉にアイダー川を渡河し始め、ここに戦争が始まったのです。


 この初日、D軍前哨と独軍は各地で衝突しますが、D軍前哨は殆どの場所で長時間粘らずに退却し、その損害は負傷4名、行方不明3名、捕虜7名と少なく、独軍では損害報告がありませんでした。


挿絵(By みてみん)

レンズブルク付近のアイダー川に架かる橋に立つデンマーク軍哨兵(1864年1月31日)



こぼれ話


「変人将軍」デ・メザ


 D軍を率いることとなったデ・メザは1792年1月、医師のクリスチャン・ジェイコブ・テオフィルスと妻アン・ヘンリエット・ルンドの長男として生まれます。後に両親は離婚しました。父方の家系は15世紀末スペインで迫害されオランダへ亡命したユダヤ系スペイン人で、これがオランダ系の名前を持つ由来です。祖父が18世紀中頃オランダからデンマークに移住しました。

 デ・メザは14歳で士官候補生としてコペンハーゲンの砲兵技術学校に入学し翌年9月のコペンハーゲン砲撃(本作「附録*オーストリア北軍戦闘序列」のあとがき「こぼれ話・ロケット砲顛末」を参照下さい)では市街の防戦(砲兵)と救助に奔走しています。18歳で砲兵隊の少尉として任官すると21歳で砲兵参謀として勤務、29歳で中尉に昇進すると結婚(妻・エリザベス)しますが夫婦は子供に恵まれませんでした。

 デ・メザはモルトケ同様語学に秀で母国語の他に独・仏・伊・英・蘭の5ヶ国語を話すバイリンガルで、その才能を活かして長い平和の期間(1827年頃から42年まで)王立軍事学校で英語や仏語を教えたり、ヨーロッパ各国に情報収集を兼ねた留学をしたりしていました。そのためか、奇怪な性格(後述)のためか昇進は遅めでした。50歳(1842年)で少佐になると48年、第一次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争を迎えます。デ・メザは砲兵隊の士官として参戦しますが、主要士官が次々に戦死・負傷したため6月に中佐へ昇進、49年に大佐として第6旅団を率いてアルス島とフレゼレシアの防戦に活躍しました。特に後衛として防衛施設構築と反撃時の効果的な参戦でその手腕が注目されます。その功績で少将に昇進するとイトシュテットの戦いではシュレッペグレル将軍が戦死した後、第2師団を引き継いだデ・メザ将軍は効果的な防戦で攻守を逆転させ、SH軍を後退させ勝利に貢献しました。

 戦後は主要な将軍としてシュレスヴィヒの防衛計画に参与し、ダネヴェルク堡塁群やフレゼレシア要塞の強化を訴えましたが、政府は予算不足を理由に満足な防衛資金を支出せず、アイダー川以北の防衛は掛声ばかり大きく何も変わらない状態となってしまいました。

 この様な状態で第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争を迎えたデ・メザは72歳で総指揮官に任命され、同様に高齢な敵総司令官ヴランゲル元帥から実質上の宣戦布告を受けたのです。


  デ・メザは風変わりな人で、もし現代に生を受けていれば文化人として有名になったのでは、と思われます。

  この「変人気質」は年齢を重ねるほど顕著になった模様で、彼の部下や政府は眉を顰めつつもその軍人としての能力により黙って従っていたとも言えます。

 デ・メザはギターを手放さず、ピアノがあれば必ず腕前を披露し、作曲も時にベートーベンにも負けないと評される小品をものにして、歌も上手く音楽を聴くことも大好きでした。

 私服は風変わりなものが多く、その奇妙な言動はコペンハーゲンでちょっとした注目の的でした。

 前述通り語学に堪能で読書家、外国語の書籍を常に手元に置いていました。また絵画にも才能を示して多数のスケッチを残しました。こうした芸術に秀でた才能を示すものの孤独を好む人ではなく非常に友好的で部下にも慕われる一面がありましたが、悪戯好きだったとの証言もあり、砲兵学校の教官時代、生徒が何か叱責される事態となると、その体にチョークで悪戯書きをしたと言われます。

 デ・メザは非番となると軍務を忘れてこうした多くの趣味に没頭し、昇進が遅かったのもこの奇妙な気質と「滅私奉公」が全く感じられなかったからではないか、と言われます。


挿絵(By みてみん)

風変わりな格好をしたデ・メザ


 デ・メザを語る時、必ず出て来るのは「冷感恐怖症」です。

 彼は極端な寒がりで湿気も嫌い、それは恐怖症に近いものでした。彼は冷気を吸うことは毒であると信じ切っていて、冷えた部屋や野外に出る時は必ず完璧な防寒対策を講じ、体が順応するまで動くことがありませんでした。ある軍事史家によれば、デ・メザは寒冷期タイル張りのストーブに頭部を当て髪の毛が痛むのも厭わず頭を温めていた姿を目撃されたといい、将軍の事務室はドアを開けると目の前に天井まで届くような家具が置いてあり、デ・メザと対面するには将軍が並べた家具の間をまるで迷路のように潜り抜けねばならなかった時があったと言います。これは将軍に言わせれば廊下から冷気が部屋に入り込まないような処置でした。第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争当時、将軍は事務室から外に出ることがなく、制服の上にガウンやポンチョを羽織り、頭にはトルコ帽やマフラーを巻き付けている姿が普通になっていたと言います。


 デ・メザは1865年9月15日、コペンハーゲンの彼のアパートの一室に鍵をかけ拳銃により自殺しました。彼の机の上には、将軍を臆病と罵った国民や政治家に向けた弁明が未完成のまま残されていました。その書面の表題は「戦争の実行と国民感情との間にある私の最後の間違いのない行動」というものでした。


挿絵(By みてみん)

64年戦争直前に撮影した肖像


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