ローンとビスマルク
この戦記では、読み物としての性格を重視し流れを止めないため、殆ど参照を示しません。
よろしくお願い致します。
時代が大きく変わろうとする。歴史が動く時・動く場所で必ずといって良いほど英雄が登場します。
アレクサンダー、ユリウス・カエサル、カール大帝、源頼朝、チンギスハーン、織田信長、ナポレオン……
そして19世紀中頃、世界でも日本でも英雄たちの時代がやって来ます。それは時代が呼んだものか、それとも人間が生み出したものなのか。
アメリカにリンカーンが登場し、日本が黒船に揺れる少し前のこと。
ヨーロッパは激動の時を迎えていました。ナポレオンが歴史の舞台から去った後、戦勝国はフランス革命に端を発した「民衆の時代」を否定、王侯貴族たちが反動的に王権復古を行い、ヨーロッパは再び貴族社会に戻るのかと思われました。
しかし、歴史は後戻りなど出来ません。王様も18世紀までの様に民衆の意向を無視して我を通すことが出来なくなって来ます。立憲君主制とはイギリス由来ですが、数多くの王国が立憲君主国として再スタートを切ることになります。
おっと、これではまるで歴史の授業ですね。ですが、背景の説明をしなくてはならないので、もう少し辛抱願います。
ヨーロッパも皇帝や王が国を支配する絶対君主制が危機を迎えます。各地で革命騒ぎが起きて、王が廃絶されたり逆に民衆を弾圧したりが繰り返されます。
そんな動乱の時代、必然的にある運動が起こりました。
公国やXX領と呼ばれる小国が、まるでパッチワークキルトの如く乱立していた旧神聖ローマ帝国。その北と南に当たるドイツとイタリアで、同じ民族同士合併統一しようという動きが始まります。
歴史は動き、英雄たちがここでも登場しました。
イタリアではジュゼッペ・ガリバルディ。彼を中心とした北イタリア勢がローマからシチリアまで遠征し、統一のための戦いが繰り広げられます。そしてガリバルディとサルディニア王国軍の活躍でイタリア王国が誕生しました。
そしてドイツ。北にプロシア(プロイセン)王国、南にオーストリア帝国、そしてその中間の中西部から南部にかけては小邦が入り乱れており、同じドイツ語を話す彼らの中から統一を夢見る者たちが現れました。
1848年、世界規模の革命に揺れたドイツ諸邦から議員が集まり「フランクフルト国民議会」が開催され、ここで統一に関する論議が行われ、オーストリアを含むドイツ領域が合併する「大ドイツ主義」と、オーストリアを含まない「小ドイツ主義」が比較討論されます。
神聖ローマ帝国を引き継ぐ大国オーストリア。この古い帝国は最初「大ドイツ主義」に否定的で、統一には熱心ではありませんでした。何故なら、ドイツ人の国家にオーストリアが参加すれば、非ドイツ人のオーストリア帝国領域(例えばハンガリーやチェコ、クロアチアやベネチアなど)を切り離さなくてはならず、そうなれば帝国はお終いです。
しかし、1860年代に北のプロシア王国が力を持ち始めると、葬られたはずの「大ドイツ」主義を掲げ始めます。これは北のバルト海から南のアルプス・チロルまでを含んだ巨大なドイツ帝国で、その中心はもちろんオーストリアです。ちゃっかり非ドイツ系の帝国部分はこの統一ドイツ国家の外に置き、ドイツ国家とは別に支配を続けるつもりでした。
片やプロシア。ドイツ統一国家は魅力的で、オーストリアとも組みたいのは山々ですが、組んでしまえばプロシアの影響力は縮小され、オーストリアの属国に近い形になるのは目に見えています。ならば周囲の小国だけ自分側に付けて合併し、北部だけでも統一しようと考えます。プロシアは「小ドイツ」主義を強固に主張しました。
大ドイツと小ドイツ。次第に険悪となるプロシアとオーストリア。対決は必至でした。
そしてここに三人の人物が登場します。プロシア・ドイツの将来を決定付けた人物たち。
後のドイツ帝国宰相にして「鉄血宰相」の異名で歴史に残るビスマルク。
そのビスマルクを宰相に引き上げ、軍政改革を断行した陸軍大臣のローン。
そしてプロシア参謀本部を伝説にまで高めた天才参謀、モルトケです。
ここでビスマルクとローンを紹介しましょう。
伯爵オットー・エドゥアルト・レオポルト・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼンは1815年4月1日、ナポレオン退場の年にベルリンの西にあるエルベ(ラベ)河畔のシェーンハウゼンで生まれました(四男)。ビスマルクの家は14世紀から続く「ユンカー」*と呼ばれる名門地主貴族で、彼も当然ながらベルリンにあった厳しい全寮制の小学校に入れられましたがこの学校が大嫌いで仲間外れにもされたようです。その後のギムナジウム(中高学校)で仏語や英語を学び高成績、これが後の彼の活躍につながる第一歩でしたが、飽きっぽくいい加減なところが学校からは低評価でした。大学では法学を学びますがこれも熱心ではなく、逆に議論を吹っかけては25回も決闘するという荒れた学生生活でした。
卒業後の20歳で公務員試験を受け候補生として役所仕事を始めますが続かずにすぐ辞めてしまい地元に帰って実家の農場経営を手伝います。ここで妻ヨハンナと巡り会い身を固める(32歳)と、落ち着いたのか政治に興味を示し、代議士選挙に立候補、当選して連邦州議会議員になります。
しかし時は1848年革命の前夜1847年。この混乱の中失職し再び選挙が行われますが、王権主義者でユンカーの彼は自由主義勢力が優勢な選挙では当選しないと立候補を諦めました。だが、直ぐに保守派の反撃が始まり革命が終息するとビスマルクも国政選挙(プロシア人民議会)に出て議員に返り咲きました(34歳)。
やがてドイツの統一か否かともめている時代、ビスマルクは外交官として頭角を現します。
36歳でドイツ連邦議会でのプロシア全権公使に選ばれた彼はドイツ諸侯国家の代表が集まるこの議会で熱烈なプロシア王国擁護の立場で活躍し、やがて発生したクリミア戦争(ロシアと西欧の戦い)の後に駐ロシア大使となるとその反オーストリアの立場がロシア宮廷や政治家から歓迎され、後々までロシアがドイツの統一を妨害させない様になる礎となりました。ここから外国にも知られる外交官となり、フランス大使に転任した後、陸相ローンの推薦でプロシア国王から宰相に抜擢され、いよいよビスマルク時代が訪れました。
彼はそのブルドッグを想わせる厳つい風貌と激烈な発言から、ガチガチの右翼と思われていますが、実際は現実主義者の面が強く、その内実は妥協と手練手管の男でした。
当時のプロシアは周囲を敵性国家に囲まれた弱い立場。主要国からは急速に発展する新興国として要注意とされていました。オーストリアと普墺戦争、続いてフランスと普仏戦争を戦い、遂にドイツ帝国が成立した前後は特にそうで、外交でひとつ間違えば周辺国家が全て敵となる様な四面楚歌の状態でした。
ビスマルクはこの危険な状況下を、まるで手品のような外交で切り抜けました。
その手法とは、外交で鍛えた国際感覚で「アメとムチ」「変わり身の早さ」を駆使し、プロシアの「敵」を常に一つにしておくものでした。
昨日の敵は今日の友とばかり、まるで綱渡りか皿回しのような際どい外交。そして幾多の戦争……
ドイツ統一は、このビスマルクの手腕に拠るところ大です。
ビスマルク
さて、そのビスマルクをフランス大使から一気に宰相に担ぎ上げた男、ローンとはどんな人物だったのでしょう。
伯爵アルブレヒト・テオドール・エミール・フォン・ローンは1803年4月30日生まれでビスマルクと同じユンカーの出身。ローン家はビスマルク家とは違い先祖はオランダから移住した平民上がりだったと言います。ローン家は軍人家系(母も軍人家)だったため14歳で陸軍幼年学校に入り、18歳で少尉としてプロシア軍入隊、優秀と認められた彼は21歳で陸軍大学に入学しました。ここでも成績優秀だったローンは23歳で卒業するとそのまま母校幼年学校の教官となり、33歳まで勤めます。この年、大尉昇進と共に参謀本部配属、39歳で少佐、陸軍大学の教官となり41歳で王室フリードリヒ・カール王子(後に何度も出て来ますので覚えておいて下さいね)の軍事教育係となってこの縁で後に第一代ドイツ皇帝となるヴィルヘルム親王と知り合います。
48年革命の時には第8軍団の参謀として勤務しており、ここには後述する後の参謀総長ヘルムート・フォン・モルトケ少佐も同じ参謀として勤務していました。翌年にはバーデン大公国で反乱暴動を鎮圧する任務で再びヴィルヘルム親王と再会し、信頼されて親王の傍付になります。
ローンは直ちに親王の理想とする軍政改革を実現するために動き出しました。穴だらけだった徴兵制のほころびを正し、プロシア軍の強化に励みます。議会にすり寄る当時の宰相や陸相とも対立関係となりますが、ヴィルヘルム親王が摂政を経て国王ヴィルヘルム1世となると周りからの妨害もなくなり、ローンは陸相に抜擢され、軍政改革の仕上げにかかりました。
世論が民主主義と民族主義に傾きつつある情勢の中、ローンは断固として絶対王制を支持し、ヴィルヘルム国王も軍の改革を断固遂行するよう議会に圧力をかけます。そしてついに自由主義者が大半を占める議会と衝突しました。そこで国王は内閣を解散させ、新たに王に絶対の忠誠を誓う人物を宰相にしようと目論みます。
今や国王側近ナンバーワンとなったローンは、カチコチの保守主義者と思われていた旧知のフランス大使を推薦しました。この時ローンは独断でパリに赴任していたビスマルクに電報を打ち、ベルリンに出頭させました。
「遅延は危険。急ぐべし」
こうして政治外交のビスマルクと軍事のローンという体制が始まったのです。
ローン
この戦記では、ビスマルクやローン、そしてモルトケと彼が主導した「参謀本部」の活躍を背景にプロシア王国(プロイセン王国と呼ぶのが今では一般的ですが、このお話では字数が少ない「プロシア」で通します)がドイツ帝国に成長するまでを見て行きます。
プロシアの参謀本部は15世紀後半に生まれた兵站幕僚部が元祖で、これは糧食の確保や営所(部隊のキャンプ)の管理、武器弾薬の流通などを行う部門でした。これが兵站総監部になり、1808年にシャルンホルストがこれを参謀本部の原型にします。
シャルンホルスト亡き後、グナイゼナウとクラウゼヴィッツは軍隊の近代化を押し進め、徴兵制によって軍が変わった話は拙作「ミリオタでなくても軍事がわかる講座」を参照してください。
このグナイゼナウの功績は大きなものですが、後の世に禍根を残すことになる制度を最初に作った人でもあります。
彼は二つの大きな制度を確立させます。それが参謀の「共同責任制」と「委任命令制」です。
「共同責任」とは、部隊の参謀長は自分の考えた作戦に対し責任を持ち、それを実施する指揮官の決定に対し共同で責任を持つ、という制度。
自分で考えた事の結果は自分にも責任がある。これは当たり前のように聞こえますが、実はこの制度のキモは、指揮官の決定に「共同」で責任を持つ、という部分です。これは指揮官と参謀長は同列にある、とも解釈出来ます。
しかもこの制度には、もし指揮官と参謀長の意見が分かれた場合、参謀長は上級組織である参謀本部の参謀総長と直接話し合える、という制度が付属していました。いざとなれば、軍のナンバー2に訴えられる。これは参謀という職責の縦関係を強固なものにしていきます。
片や「委任命令」とは、そもそもの達成目標やその意味に関しては上級部隊の指揮官に権限があるが、その目標達成をするための作戦自体は、作戦を実施する部隊が臨機応変に変えて実行してもいい、というものです。
これも「事件は会議室で起こって(以下略)」の例えの如く、杓子定規に作戦を守っても何が起こるか分からない戦況(戦争論のクラウゼヴィッツはこれを「戦場の霧」と呼びました)ではうまく行かないし、刻一刻と変化する状況を一番よく知っているのは現場なのだから、目的さえあっていれば構わない、という非常にドイツ的合理主義な制度に見えます。
しかし、これら二つの制度は参謀職を半ば軍自体から独立させ、実戦部隊を暴走させる因子を埋め込むことにもなってしまいました。
そしてこの二つの制度のお陰で国を傾けるほどの出来事が続くのです。
それはプロシアだけでなく遠く日本にも影響しましたが、それはまた別のお話。
さて、ヴィルヘルム親王が摂政となり、ローンが軍制改革に弾みを付け、ビスマルクが駐ロシア大使に任命された1858年のこと。
厳つい顔に恰幅の良い軍人たちの中でも、知的な風貌とスマートな出で立ちで目立つ将軍がプロシア軍参謀本部のトップ、参謀総長に就任します。
1800年生まれの彼は58歳。プロシア軍にこの才能ありと言われた彼は、当時、陸軍大臣の下で影の薄い存在だった参謀本部を見るまに変革して行きます。
彼の名はヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ。同じ名前の甥っ子が後に同じ参謀総長となったため、現在では「大モルトケ」と呼ばれる将軍でした。
こぼれ話
ユンカーと「フォン」
農園領主貴族を意味する「ユンカー」という言葉は、正確にはドイツ東部、エルベ川より東側(旧東ドイツと現ポーランド北部)に領地を持った騎士たちが農業経営をしたことに由来します。元々は「ユング(若い)」貴族と言う意味。
エルベの東側はなだらかな平原が続く東ヨーロッパ有数の農業適地でした。ここで貴族たちは豊かな収穫で力を付けて行き、やがてプロシア王国でも上層部を占める様になって行きます。
豊かな貴族は軍隊と王国の官吏を独占し、ユンカーはプロシア上層階級の代名詞となりました。
軍隊の指揮官や幕僚は一時期このユンカーで占められていたと言っても過言ではありません。これはシャルンホルストやグナイゼナウの改革でも生き残って行きます。何しろ改革を断行する側も貴族やユンカーなのですから。
因みにこのユンカー、面倒くさいので(笑)ここでは「貴族」と言ってしまいますが正確には「準貴族」。ユンカーというだけでは地方の特権階級というだけで、このユンカーが中央で手柄を立てて貴族に列せられます。本物の貴族は男爵やら伯爵やら侯爵やらの階級がある、アレです。
さて、そのユンカー始めドイツ系の貴族の名前によく「フォン」という名前?が付いています。今回紹介した3人も「フォン」。そう言えばシャルンホルストもグナイゼナウも、あのクラウゼヴィッツも全部「フォン」が付くではありませんか。
この「フォン」、正体は英語の「from」や「of」。
ドイツ人の祖先であるゲルマン人には昔姓がなく、「XX村のXXさん」という呼び方をしてました。日本も町民階級はそうでしたね。
その「の」がフォンです。
ドイツの場合は領地を持つ者が「リヒテンシュタインのヨハン」のように領地と名を名乗り、領地名が名字代わりになり「ヨハン・フォン・リヒテンシュタイン」と名乗るようになります。つまり、「フォン」を名乗れるのは領地がある人=ユンカー以上の地位、となる訳ですね。とは言うものの、領地が無くても称号で地名を入れたりしたこともあったので、フォンの後の地名がその人の出自とはならないので注意です。
貴族たちにはほかにも「ツー」があり、これはそのまま英語の「to」。こちらは古い時代からの貴族ではなく、近世に領地を得た人たちがつけるらしいです。
まだまだあります。「リッター」は騎士。イギリスの「ナイト」と同じ準貴族の称号で、リッター・フォン・XXと言う風にフォンの前に付きます。
同じような例で「フライヘア」。これがフォンの前に付く人は「男爵」です。このお話では結構ドイツ系の方のフルネームが出て来ますが、男爵さんは掃いて捨てるほど(失礼!)いるので、今後「フライヘア」はカットしますので覚えておいてください。
あと、「プリンツ」。これは「プリンス」のことで、ドイツ統一以前の公国や小領国の「王子」様(跡取息子)ですね。これはプリンツ・ツー・XXとツーの前に付くケースが多いようです。
このようにヨーロッパ系の貴族は名前が長くいろんな意味をくっ付けています。
第二次大戦のドイツ陸軍最高の智謀と言われるマンシュタイン元帥の正式な名前は、
フリッツ・エーリッヒ・フォン・レヴィンスキー・ゲナント・フォン・マンシュタイン
フリッツでエーリッヒで(本当は)レヴィンスキー家(だけど)、正式名はマンシュタイン家
……ながい。レヴィンスキー家からマンシュタイン家に養子に行ったからなんですねえ。
ドイツ系貴族は名前が長い人が多いですが、それは「名/爵位/フォン又はツー/地名・家名(姓)」となっているからです。
ほかのヨーロッパの貴族はどの国もこの傾向がありますが、彼らの名前が長いのは領地名を何個も付けたり、偉いおじいさん何かの名前もミドルネームにしたりするからなんですね。