第26話 幻獣シーマ
シーマが生まれたのは遥か古の昔。
地球ではない異世界。幻獣界と呼ばれる世界だ。
シーマは海を揺蕩う藻屑だった。何も考えず、考えられず、ただ日の光と月の光を交互に浴びながら波に揺られるだけの存在だった。とても数えきれないくらいにそれだけを繰り返していたある日、突如として彼女は自我に芽生え、意志と不思議な力を持った。
彼女は幻獣として覚醒したのだ。
幻獣はその覚醒と同時に導力と呼ばれる力を持つ。自然界の五種類のエネルギーを扱う力。
その内訳は木、火、土、金、水の五行からなる。
シーマは水系統の能力に目覚め、隣り合う木と土の力にも高い適性を持っていた。
試行錯誤を繰り返し、それらを複合させて、より複雑で精密な力を使えるようになった。
彼女は自分の中に自分を形造る設計図のようなモノがあると感じていた。そして、それを書き換えることもできると確信した。確信は現実となる。
彼女の目覚めた力、それはDNAを自在に変異させることだった。
覚醒した彼女はさらなる長い年月をかけて自分を作り変えた。
誰よりも高度な知能と誰よりも強力な肉体。
そして、触れさえすれば相手の遺伝子さえも組み替えることができる力で彼女は広大な海を丸ごと支配する幻獣となった。
しかし、大海を制した彼女だったが、陸の上にはさらなる帝王がいたことを知らなかった。
幻獣界には好戦的な過激派と穏健派の二大派閥が存在した。
過激派のリーダーの名はオーディン。
暴帝と呼ばれていた。
他の追随を許さないほどの圧倒的力で蹂躙し、力で無理やり他の幻獣を従えていたからだ。
それを嫌った幻獣は穏健派のリーダーのラクルダの所に逃げ込んだ。
陸では唯一の例外である狼の幻獣を除いてほとんどがどちらかの派閥に属していた。
しかし、大海で生まれたシーマはそれを知る由もない。
知ったのはオーディンによって見るも無残に八つ裂きにされ半死半生にされてからだった。
シーマはオーディンの軍門に下ることになった。
知能が高かったシーマはオーディンからある研究をするように命令された。
連れてきたのは見たこともない猿のような生物だった。
驚くべきことにそれは言語を喋った。彼は自らを人間と称したのだ。
幻獣界にはまれに異世界から迷い込んでくる生物がいた。彼のそのうちの一例だった。
人間は一際脆く、一際弱く、そして一際高い知能を有していた。そして何より情が豊かであった。
幻獣の中には異世界である人間界に興味を抱いて、そこに向かおうとした者もいたが、そのほとんどが行ってすぐにとんぼ返りしてきた。
「人間界では我々は自らの姿を保てない。蒸発するように身体が解けていき、一時間と持たずに消失してしまう」
命からがら戻ってきた幻獣の弁である。
どうも人間界と幻獣界とは構成物質が違うらしい。
しかし、人間の方は幻獣界でも何のリスクもなく生きていられる。
実に不思議な話である。
オーディンはこの人間の心について研究しろと命令をした。
幻獣は喜怒哀楽に乏しいのに比べて、人間は実に感情豊かだ。
そして、どうすれば深く絶望するのかも調べるようにと。
不可解な命令だがシーマは従った。彼女も人間に対しても興味があったからだ。
長い年月を様々な試みで研究していると、ある日画期的な発見をした。
シーマは自身が人間の心の中に溶け込むことができたのだ。
まるで、水の中に塩が溶け込み食塩水となるように一体化することができた。
幻獣と一体化した人間はある程度幻獣の支配下に置かれながらも幻獣の力を使いこなすことができた。
どちらが肉体の主導権を握るかは人間の精神力と幻獣の支配力のバランスによる。
さらに人間がどれくらい幻獣の力を使いこなせるかは人間の器量に左右されたが、シーマのような上位の幻獣の出力に耐えきれる人間はいなかった。
つまり、人間と一体化した際に下位の幻獣に比べ、上位の幻獣は不利となる。
なにより重要なことは人間の心に溶け込んだ幻獣は人間界でも消失してしまうことはなかったことだ。
この技術は瞬く間に幻獣たちの間に広がり、特に弱い下位の幻獣たちは人間の心に溶け込んで人間界へと旅立っていった。
人間界に行けば自分らが支配層になれる。
そして、上位幻獣が人間界に来ても、自分らほど力を発揮できない。となればもう従う必要がない。
特にオーディンに無理やり付き従わされた幻獣は逃げ出すものも多かった。
しかし、シーマは人間界自体には大して興味がなかった。
猿どもの頂点に立ってかしずかれたところで得られるものなど知れている。
研究を続けているある日、オーディンはシーマにある話を切り出した。
出ていかなかったシーマをある程度信用したうえで何故人間の心を研究させたのか話し始めた。
オーディンが見せたのは黒い種のようなモノだった。
シーマは一目見てそれが危険なモノであることが分かった。
それの持つ禍々しいオーラは尋常ではなかった。
「これを私は『虚無の種』と名付けた」
「虚無の……種ですか」
「これは絶望を喰らい成長する。これが完全なものとなった時この世の全てを掌握することができるだろう」
「ははぁ、それはきちんと制御できるのですか」
「無論だ。しかし、絶望を喰らうコイツなのだがなかなか成長しない。我々幻獣は感情の働きが弱い。我々には野心もあるし、欲望もあるのだがもっと原始的な感情が弱い。ほぼ、不老であることで精神が老成していることなど考えられるが、それではこの虚無の種は目覚めんのだ」
「そこで人間を調べさせたわけなのですね」
「その通りだ。人間は実に喜怒哀楽が激しい。身体が弱く、脆い分、激情的だ。この生物が虚無を目覚めさせる鍵となるだろう」
「そうなんですか」
「今後も貴様には研究を進めてもらわねばならん。期待しているぞ」
「はい、任せてください」
シーマは頷いたが、同時にトンデモナイことを聞いてしまったなと思った。
果たして虚無は目覚めるとどれほどの力を持つのだろうか。
それをオーディンは掌握できるのか。暴走するなんてことはないのだろうか。
多分、制御することはできないように思えた。
オーディンは強すぎる。自分より強い存在にあったことがないのだ。
その危険性を理解していない。オーディンに敗れる前の自分を見ているようだった。
例え、無事虚無の力を手に入れたとしてオーディンはどうする。
現在ラクルダとの二大派閥があることで均衡している幻獣界だが、間違いなく戦争が起こるだろう。
そして、勝ったオーディンの暴虐に満ちた独裁が始まるのだ。
その時用済みとなった自分は切り捨てられる可能性が高い。
シーマは人間界に行くことを決心した。
シーマには遺伝子操作の術がある。
向こうである程度自分に適合する人間を見つけてから、今の自分に合わせた遺伝子に少しずつ組み替えていけば、やがては今の自分と同等の力を発揮できる人間を作ることができるだろう。
人間の寿命を決定する遺伝子も既に見つけている。
他の幻獣は仮に相性がいい人間を見つけても、老衰するたびに別の人間を見つけねばならないが、シーマは憑りついた人間を不老にできる。
その点でも人間界に行くメリットは大きい。
それにオーディンが見せた虚無の種をシーマは触れている。遺伝情報は掴んだ。
自分でもあれを作れるかもしれない。
メカニズムの研究もいるし、多少コントロールしやすいよう弱体化させる必要もあろう。それにはさらなる長い年月が必要だろう。
邪魔な存在ばかりいる幻獣界にはもう魅力は感じない。
シーマは人間界に行く直前に、対立していたラクルダに洗いざらいオーディンの野望を伝え、人間界へと旅立った。
オーディンの危険すぎる野望を知ったラクルダはそれを阻止すべく、長い戦争がはじまった。
現在から約二万年前のことだった。
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「おっと、随分と懐かしい夢を見ましたね」
自分が人間界に来る前のことを思い出すなど珍しいとシーマは瞑目した。
彼女は不老者だ。寄生した人間の遺伝子の中のテロメアを操作することで細胞の老衰はしない。
二万年前から変わらず、この姿である。
あまりに長い間、生き続けたことで本体である人間は精神の摩耗にし、ほとんどシーマが乗っ取っることができた。もう彼女の中に寄生された人間の意志は感じられない。
随分とここまで来るのに時間がかかってしまった。
虚無の種の再現とそれを弱体化してコントロールできる仕様にすること。
自分の体細胞を使い、種を作ることに成功したのはわずか五百年前。
武史たちを半漁人にした丸薬である。名付けて水魔の種。
自らの性質と虚無の性質を兼ね備え、接種者を人外の生き物に変える。
接種者をある程度コントロールすることが可能。
接種者の心から絶望を強力なエネルギーに変える。
そして別の接種者に吸収させてエネルギーを集めるのだ。
このシステムを確立するのにシーマは最も苦心した。
それにしても、もう何度もやって慣れたとはいえ五人もの人間を騙して生贄にするのは非常に難儀な話だ、とシーマは苦笑する。
シーマは当初武史ではなく溺れていた少年を狙っていた。結果的には武史を騙すことになったのだが。
孤児院で暮らしていた少年にはもちろん身寄りもなく、金で釣るには最適だった。
水魔を使って溺れさせたうえで、助けて信用させて、莫大な報酬をチラつかせて舞い上がらせて、最後にはクラーケンの餌となる。その時感じる絶望は如何程だろう。
極貧状態の人間に端金を、そしてオクタヴィアに絶望しながら食われるこの一連の流れは効率よく人間の絶望を集めることができた。
警察もなかった近代以前は割と好き放題やれたが、それ以降は生贄を集めるにも苦労した。
ちなみにオクタヴィアも元々は人間だ。二百年以上も前に騙した没落貴族の令嬢。家の復興をチラつさせた挙句に醜い蛸に変えられた際の絶望は凄まじく、強烈なエネルギーを体内に宿した。理性もすぐに崩壊し、シーマの操り人形と化すのは簡単だった。今では圧倒的パワーで蹂躙し、強烈な絶望をまき散らす存在。シーマの人間界二万年の最高傑作と呼べるべきものだ。
最終的にはオクタヴィアがため込んだエネルギーを自分に取り込むつもりだ。それが成し遂げられたとき、シーマはこの時空上の最強の存在になりうるのだ。
「さて、五人を勧誘できたせいで安心して、寝過ごしてしまいました。今から、彼らを調教して意気揚々とオクタヴィアの元まで送り出さなければなりません。そうしなければ深い絶望が、そしてエネルギーが得られません」
起きたシーマは早速武史が逃げ出したことを知る。
わざわざ見逃した金梨を危うく八つ裂きにしそうになるほどの怒りを覚えたが何とか堪えて、胡散臭い外人スマイルを取り戻した。
「まぁ、いいでしょう。四人でオクタヴィアを倒しましょう」
それにしても、とシーマは一人呟く。
「しかし、初日から逃げ出すとは。しかも、外部からの手引きもあったようです。
警察が私を監視していた? いや、ならば全員逃がすでしょう。もしくは警官隊が突入してきたかもしれません。
何故武史サンだけが。……ただの高校生と思って周辺調査をしていなかったが彼の背後には私の知らない大きな組織がいたのでしょうか。
しかし、それにしては武史サンは無防備すぎでした。……まぁ、考えても仕方ないでしょう」
シーマは武史のことをすっぱりと諦めることにする。
未知なる組織に狙われることなど初めてのことではない。その全てをねじ伏せてきた。
そして、二度とそのような不埒な考えを起こすものが現れない様に徹底的に潰してきたのだ。
むしろ、そういった輩が久々に出てきて、嬉しいとすら思ってしまう。
どうやら人間となって自分も喜怒哀楽が激しくなったようだとシーマは思う。
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二週間後。
シーマは予め用意しておいた弱い水魔を倒してすっかり気が大きくなったチンピラ紅井たちを囃し立てる。
付け焼き刃の訓練で紅井たちは人間の頃には考えられなかった身体能力と殺傷能力を持った奇怪な技を身に着けていた。
自分たちの実力を過大評価した彼らはオクタヴィア討伐に乗り気だ。
「よっしゃ! さっさと大蛸退治といこうぜ」
紅井が勝ちどきをあげると他の面々も追従した。
シーマの用意した水魔があまりにも弱かったため、そしてそれに比べ自分らがあまりにも強かったため誰も拙速だと思う人間はいなかった。
しかし、所詮は烏合の衆。訓練された軍隊一個師団を相手にしたときこの四人でどの程度戦えるか、といった実力しかない。
とてもではないが海軍を壊滅寸前に追い込んだオクタヴィアを倒せるレベルでないことを紅井たちは知らない。
すぐさま船は用意され、太平洋遠洋まで向かった。
そこでシーマの用意した罠の恐ろしさを知ることになる。
照りつける太陽は海面に反射してキラキラと眩しい。
太平洋遠洋を航行するシーマが調達した漁船は全長二十メートルほど。
喧嘩っ早さと声の大きさから四人の実質リーダー役をしているチンピラの紅井はあたりを警戒していた。彼らは水魔の種を飲まされている。そして、オクタヴィアも。
彼らは共鳴しあうためある程度どこらへんにいるのかわかるのだ。
「おい、船の下に何かいるぞ」
初めに気付いたのは紅井。海面に見える巨大な影はゆったりと船の下を泳いで通った。
「あれが噂のオクタヴィアでしょうか?」
金梨が船から海を見つめる。
「……ちょっと、これ何よ。でかすぎでしょ。クジラよりでかいんじゃないの」
影は海の底にいるため遠近感がわからないが、相当な巨大さを持つことに保栖は危機感を募らせた。
「あ、あんなの倒せるわけない。……死、死ぬ。……俺たちみんな……ここで」
薬師丸はラリッタ表情で涎を垂らした。
漁船のすぐ下に浮かぶ影はあまりにも巨大だ。彼らは絶句するしかない。
その影の長さは船の百倍を超えていた。
「おい、こんなの聞いてねぇぞ、ふざけんな!」
「いえいえ、まだ何もしていないじゃないですか。オクタヴィアを倒せる可能性は十分ありますよ。私はその姿を心から応援するものです。さぁ、みなさん! 自分を信じて海へ!」
「あれを倒せっていうのか!」
「はい、一億円ですよ! あれを倒さなければどうせあなた達は野垂れ死にです」
「ぐぎぎぎ、畜生めぇ」
シーマはここまで来たらもう、笑いを堪えられない。
哀れなる四人はここで餌となり、糧となるのだ。
海に飛び込んだ瞬間にあのオクタヴィアの俊敏で力強い触手が彼らを掴み、一瞬で全身の骨を握り砕くのだ。そして、ゆっくりと咀嚼され、オクタヴィアの中にその甘美なる絶望が取り込まれていくのだ。
シーマは浮かれていた。計画はほとんど成功していた。
今まで、何十回も何百回も成功していたパターンに持ち込んでいた。
だから、直前まで気付かなかった。
それに気付いたのはシーマたちの上空を一機の戦闘機が通り過ぎた後だった。
超低空飛行をしていた戦闘機は凄まじい大爆音を放ちながら通過した。
シーマはすぐに戦闘態勢に入った。
戦闘機は射撃も爆撃もせずに飛行機雲だけ残して空の彼方まで消えた。
しかし、シーマには見えていた。
一人の人間が戦闘機からパラシュートも付けずに飛び降りたことを。
その人間は重力に任せて急降下しながら大型のライフルを構えていた。
ダンっと鋭い破裂音が連続して四回響く。弾丸は紅井たち四人の半漁人たちの防弾性の鱗を突き破った。
さらに連続してシーマを狙って銃弾が撃たれる。
悠然と佇むシーマに弾丸は当たるかに見えたが、その時、背中から深緑の帯状の何かが現れ銃弾を叩き落とした。
空から降ってきた人間はそのまま漁船に激突するかに思えたが、五点着地法によって衝撃を殺しながら無事着地をした。驚くべきことに全くの無傷だ。
「ほう、面白いものを見せてもらいました」
シーマは余裕のある声音で語りながらも、周囲を素早く観察する。
倒れた四人は死んではいないが、意識はない。
シーマは叩き落とした弾丸を見るとそれは麻酔銃を改良したもののようだとわかった。
四人は眠っているだけのようだ。ならば問題ない。
シーマは飛び降りてきた人間を観察する。
子供のような小柄な人間。性別はおそらく男だろうか、まだわからない。
この真夏に全身を軍隊仕様の防刃服で皮膚という皮膚が覆われている。顔すら見えない。
たった一人で乗り込んできたこの人間。
どこの軍の人間か知らないが余程彼に信を置いているのだろう。
「いいでしょう。しばらく大人しくしすぎていました。ここらで一度私の力も見せつけてやりましょう。あなたが誰だかは知らないですが、ただで死ねるとは思わないことです」
そして、シーマは微笑んだ。
銀髪の少女は仮初の笑顔ではなく、初めて心から笑う。
その笑顔はあまりにも凄惨で、青空の下、夏の暑さが凍りつくほどの悍ましさを秘めていたのだった。




