第0話 少女たちの記憶
夜の海。暗闇に潮騒の音が聞こえる。波は断崖にぶつかって白い飛沫を上げていた。
その断崖の上には一機の戦闘機が鈍い音を立ててアイドリングをしている。
そしてその脇に佇んでいる女が一人いた。
すらりと均整が取れた長身を黒いレザースーツで包み、その長く艶やかな黒髪は風に流れて夜の闇に溶け込んでいた。
しなやかな肢体から発せられる野性的な雰囲気はまるで黒豹のようだった。
しかし、彼女の横顔は凛々しくもありながら、どこか幼さも残っている。
その奇妙なアンバランスさも含めて女は非常に美しかった。
彼女はこんな真夜中に何をするでもなく、強い眼差しで遠くの海を見つめているとふと口を開いた。
「本当にそれは起こるんだろうな」
この場には彼女一人しかいない。
しかし、彼女が話しかけたのは彼女にしか見えない異形の者。
彼女の眼だけ見えるそれに話しかけたのだった。
「ああ、間違えない」
答えたそれはあまりに奇妙な姿をしていた。
一見すると黒い大型のコウモリのようだった。
しかし、よく見ればそれに頭部はなく、胴体に巨大な一つの目玉と口があるのみ。
まるで悪魔のようなおぞましき姿形。
そしてこの一つ目の悪魔は彼女にしか見えていない。
「お前の予言は次々と実現したが、こればかりは信じがたいな」
「ククク、そうは言っても私を信じているからこそ、ここにいるのだろう」
「ああ、そうさ。お前がいなければあたしは今頃のんびりと宇宙旅行でもしてるだろうな」
女はそう笑うとかすかに上空を見上げた。
その夜空には瞬く星だけでなく、不気味に赤く燃える大きな星があった。
そして、それは徐々に、そして急速に大きくなっていった。
「今夜、あの隕石が地球に墜落するというのに、それが起きなければ、あたしが避難もせずに、ここに残る意味がないからな」
「ククク、もうすぐ嫌でも起きるさ。待ち遠しいのか」
「ああ、そうさ。待ち遠しいよ。これを成し遂げればあたしの念願がようやく叶う」
女がそういうと目玉は感心したように口を開いた。
「ほう、もうこの危機を乗り越えれると考えているのか」
「当たり前だ。あたしは今まで一度たりとも何かに負けたことなどないのだから」
「ククク、うらやましい限りだ。私は失敗と敗北ばかりの人生だったぞ」
そういうと女はぷっと吹き出した。
「あはは、悪魔のお前がか?いや、人工知能だっけ?コンピュータウイルスとも言っていたな。そんなお前が人生とはな」
女は一しきり笑った後、真剣な表情になって言った。
「お前の過去には興味はないが、これを解決した後の約束は果たしてもらうぞ」
「わかってるさ。お前の家族を殺した奴を。お前が血眼になって探していた犯人を教えてやる」
一つ目の悪魔は短くそう答えると目を細めた。そして、小さく言った。
「くるぞ!」
遠く沖合の海面が異様な形で盛り上がり始めた。
暗がりの海の下に巨大な何かがいる。
その海中で蠢く影に今まで体験したことのないおぞましい圧迫感を女は感じた。
その瞬間、上空で巨大な閃光と少し遅れて轟音が鳴り響く。
赤々と燃えていた隕石は亀裂が入り、バラバラと砕けていった。
一つ目の悪魔は呟いた。
「国連軍の作戦は成功したようだな。あのまま直撃してれば地球は木端微塵だ」
「そうだな。そして、砕けた隕石はそのままバラバラになりながら地球に降り注ぐ。それでも地上にいる人類の99%は死に絶える計算だったが、あたしなら残りの1%になれるから何の問題もない」
女はそう言うと、断崖の脇にアイドリングさせていた戦闘機のコックピットに飛び乗り発進した。
海岸線には大量のパトリオットミサイルが配備されており、それらが一斉に発射されていた。
上空からは赤く燃え上がった隕石が次々と降り注ぐ。
その一つが女の乗った戦闘機に命中しようとしたその時、今しがた発射されたミサイルが横からぶつかり爆発した。爆風などものともせず戦闘機はさらに飛翔する。
異常な光景だった。
女に当たりそうな軌跡の隕石は次々とミサイルによって撃ち落とされた。戦闘機の軌道線上とミサイルの爆破位置が一致していて爆撃が点線上に続いていた。
「ククク、やはりすごいな。まるでモーゼの十戒だな」
「モーゼは海を割っていったんだろう。あたしはそんな超能力者ではない。あたしにできることは目的に向かってただ真っ直ぐに突き進むだけ」
女は凄まじい爆裂音を背に涼しげに言ってのけた。
「ほう、私にはそうは見えないが」
「計算したんだよ。国連の計画通り隕石が破壊された場合どういう風に隕石が墜落するのか。そしてどういう角度でどれだけミサイルを準備すれば沖合まで飛んでいけるかを」
「計算ね。そんなに思い通りいくものかね」
「思い通りいかなかった時のためにいくつものパターンを練っておいたからね。お前がもっと正確に奴の出現位置を予言してくれればもう百パターンは減らせたし、ミサイルの弾頭は百分の一に減らせたね」
「大量に配備したミサイルが無駄にならなくて良かったな」
「ふん。減らず口を。しかし、あたしが他の人間よりちょっとだけ運がいいことは認めよう」
「ちょっとだけね。ククク、これほどの豪運をして謙虚な事。普通こういうのを奇跡と呼ぶのだよ」
「あたしの名前みたいにか」
「ククク、名は体を表すとはこのことだな。来栖水落。奇跡の申し子よ」
「……本当に起きて欲しかった奇跡など起きなかったのにな」
一瞬憂いを帯びた表情をしたミラだが、すぐに表情を戻した。
沖合の目的地は目前だった。
「さて、ここからがいよいよ本番。どう料理しますかね」
「……ほう、ミラは料理は苦手だっただろう」
「うるさいな。好きではないだけでやればできるさ」
ミラは目玉と一度軽口を交わすと、そこで気を引き締めた。
眼前を迫るその何かはますます巨大に膨れ上がっており、漲る力感を感じた。
ミラは今まで相対してきたどんな敵よりも、今回の戦いは熾烈なものになるだろうと予感をしていた。
自分の全てを賭けても倒せないかもしれない初めての敵。
今は一度全てを忘れよう。
全身全霊でこいつと戦う、そう水落は思いながらニヤリと笑った。
もう10年以上も常に心を占めていた無念や憎悪を一旦消し去り、無心になった彼女は純粋にこの戦いを楽しみに思った。
ミラは凄まじい速度で滑空していた戦闘機からハッチを開けるとその空中に身を躍らせた。
そして、次々落ちる紅蓮に燃える流星と共に海中の巨大な影に飛び込んでいった。
その姿は、さながら一滴の涙が落ちるようであった。