第82話:『帝国の沈黙。そして「光」が消える日』
その夜、空中要塞『エデン』の甲板は、いつになく静まり返っていた。
「……ねえ、シキ。なんか変じゃない?」
手すりに寄りかかっていたレナが、眼下に広がる地上を見下ろして呟いた。
高度1万メートル。普段なら、地上の都市群が宝石箱をひっくり返したような夜景を見せているはずだった。
だが、今は違った。
フッ……。
まるで蝋燭の火を吹き消すように、地上の光が「消えた」のだ。
一つの街ではない。視界に入る全ての大陸、全ての都市から、人工的な灯りが同時に消失した。
「停電……? いや、規模が大きすぎる」
シキが眉をひそめた直後、艦内の警報が鳴り響いた。
「警告。大気中のマナ濃度、急速に低下中。……計測不能な速度デ、地上ノ魔導インフラガ機能停止シテイマス」
オメガ・ワンの無機質な報告。
この世界は、照明から鉄道、通信に至るまで、全てが魔力によって稼働している。マナの供給が止まるということは、文明そのものが死ぬことを意味する。
「うっ……、く……?」
「体が……重い……ですわ……」
ドサッ。
背後で、エミリアとソフィアが膝をついた。
彼女たち魔女もまた、大気中のマナを取り込んで活動する生命体だ。環境マナの枯渇は、酸素を抜かれるのと同じ苦しみを与える。
「しっかりしろ! ……クソッ、何が起きてる!?」
シキが駆け寄ろうとしたその時。
漆黒に染まった夜空そのものが、巨大なスクリーンとなって歪んだ。
『――嘆く必要はない。これは「死」ではなく「治療」だ』
天から降ってきたのは、絶対的な威厳に満ちた男の声だった。
空に巨大な紋章――帝国皇帝の紋章が浮かび上がる。
「皇帝……!」
エレオノーラが青ざめた顔で空を睨む。
「父上……まさか、これをやったのは……」
『世界は汚れすぎた。バグ(感情)が増殖し、予測不可能なエラー(争い)が絶えない。……ゆえに、私は決断した』
皇帝の声は、感情の色を排した、まるでシステム管理者のような冷徹さで告げた。
『「世界規模の強制リセット(グローバル・シャットダウン)」。一度全ての電源を落とし、マナを回収し……不確定要素を排除した上で、世界を再起動する』
それは、虐殺ですらなかった。
ただの事務的なデータ整理。
今生きている人間たちの命など、削除されるべき一時ファイルに過ぎないという宣言。
『聞こえているか、空中要塞の主よ』
巨大な視線が、正確にシキを捉えた気がした。
『遊びは終わりだ、イレギュラー。……貴様という特異点が、世界に「愛」などというウイルスを蔓延させた元凶だ』
シキは震えるレナを抱き寄せながら、空に向かって吼えた。
「ウイルスだと? ……ふざけるな。俺たちは生きている人間だ! お前のデータなんかじゃない!」
『不要なデータは削除する。……抵抗は無意味だ。既に大気中のマナ制御権は私が掌握している』
ブォン……。
要塞エデンの動力炉までもが、悲鳴を上げて回転数を落とし始めた。
マナが吸い上げられていく。
空飛ぶ城が、ただの鉄塊に戻ろうとしている。
『さあ、静寂を受け入れよ。……次なる理想郷のために』
通信が切れると同時に、エデンの照明が落ちた。
完全なる闇。
動力を失い、高度を下げ始める要塞の中で、シキは歯を食いしばった。
「……上等だ。電源を落とされたくらいで諦めるかよ」
シキだけが、その闇の中で瞳を燃やしていた。
魔力を持たない「無能力者」である彼だけが、マナの枯渇による影響を受けない。
皮肉にも、世界で最も弱いとされた男が、今や人類最後の希望となっていた。




