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第58話:『陥落。支配から解放される快楽』

 ドサッ……。


 瓦礫の散らばる闘技場の中央。

 シキは、仰向けに倒れ込んだエレオノーラの上に馬乗りになり、その細い手首と喉元を押さえつけていた。


「……終わりだ。あんたの負けだ、皇女様」


 シキの宣言が、静まり返った闘技場に響く。

 観客席の生徒たちは、言葉を失っていた。

 あの絶対無敵の『支配の魔女』が、地べたに這いつくばり、一人の男に見下ろされている。

 それは、学園の神話が崩壊した瞬間だった。


「…………」


 エレオノーラは抵抗しなかった。

 シキは警戒していた。このプライドの塊のような皇女が、敗北の屈辱に耐えかねて自害するか、あるいは発狂して暴れるのではないかと。


 だが、違った。


「はぁ……はぁ……、あっ……」


 彼女の口から漏れたのは、怨嗟の声ではなく、艶めかしい吐息だった。

 その金色の瞳からは、鋭い光が消え失せ、とろりと潤んだ焦点の定まらない色が浮かんでいた。


「……おい、どうした?」


 シキが怪訝そうに尋ねる。

 エレオノーラの身体から、急速に力が抜けていくのがわかった。

 まるで、ピンと張り詰めていたピアノ線が、プツリと切れたかのように。


(重くない……)


 エレオノーラは、ぼんやりとした頭で感じていた。

 シキに押さえつけられている肉体的な重みではない。

 彼女が生まれてからずっと背負わされてきた、見えない「重圧」が消えたのだ。


 帝国の皇女として。

 最強の能力者として。

 常に未来を見通し、最適解を選び続け、誰よりも正しく、誰よりも強くあらねばならなかった。

 一分一秒、休むことなく稼働し続けてきた『未来演算』と『絶対支配』の責務。


 それが今、暴力的なまでの「敗北」によって、強制的に停止させられた。


「あぁ……静か……」


 彼女の脳内を埋め尽くしていた膨大な計算式ノイズが消えた。

 未来が見えない。どうすればいいかわからない。

 目の前の男に生殺与奪の権を握られている。


 ――ああ、なんて「楽」なのだろう。


「……シキ……」


 エレオノーラは、熱っぽい瞳でシキを見上げた。

 頬が薔薇色に染まり、身体が甘い痺れに震えている。


「余は……負けたのか? 余の計算が……間違っていたのか?」

「ああ、完敗だ。ぐうの音も出ないほどにな」

「そうか……。余は、もう正しくなくてもいいのか……」


 彼女は恍惚とした表情で、喉元にあるシキの手に自分の頬を擦り寄せた。


「もう……考えなくていい……? 誰かに命令しなくていい……? 導かなくていいの……?」


 それは、脳が溶けるほどの甘美な救済。

 自分で決めなくていい。

 自分で背負わなくていい。

 ただ、この男の強さに身を委ねてしまえばいい。


 絶対君主としての自我が崩壊し、代わりに「守られたい一人の少女」としての本能が溢れ出す。


「……ふふ、あはは……っ」


 エレオノーラは壊れたように笑った。

 屈辱? 違う。これは、魂の深呼吸だ。


「いいぞ、シキ。……余を好きにするがいい」


 彼女はシキの手首を、自らの弱い力で握り返した。


「余はもう、何も考えたくない。……其方が決めてくれ。余の使い道を、余の生きる意味を。……余のすべてを、其方が支配コントロールしてくれ……ッ」


 彼女はゾクゾクと腰を震わせながら、敗北を受け入れた。

 その姿は、玉座に座っていた氷の女王とは別人のようだった。


「……やれやれ。思ったより重症だったな」


 シキは彼女の異常な反応を見て、即座に「診断」を下した。

 これはただのマゾヒズムではない。

 長年の過剰負荷オーバーロードによる、精神的な燃え尽き症候群。

 彼女は、誰かに手綱を握ってもらうことを、魂の底から渇望していたのだ。


「契約通りだ、エレオノーラ」


 シキは彼女の拘束を解くのではなく、逆に抱き起こした。


「お前のその面倒くさい思考回路、俺が責任を持ってメンテナンスしてやる。……これからは、俺の指示なしで勝手に未来を計算するな。頭を空っぽにして休んでろ」


「……はい、マスター(主様)。……んぅ……っ」


 エレオノーラはシキの胸に顔を埋め、安心しきった寝息のような吐息を漏らした。

 最強の『支配の魔女』が、自ら支配されることを選んだ瞬間。

 彼女は今、人生で初めて、何の責任もない安らかな眠りにつこうとしていた。


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