7. クライヴ様との夕食
兄は、私が子どもの頃に大好きだった絵本『白薔薇王女と誓いの騎士』に出てくる騎士様のようになるべく、その道を志すようになった。昔から私にはとことん甘い人なのだ。
お兄様かっこいい! お兄様大好き! 私にそう言われ続けていたいからと、領地経営の勉強と並行して騎士になるための訓練も続けていた。けれど、元来華奢で筋肉のつきづらい兄の体は、騎士には向いていなかった。本人も途中で薄々気付いていたはずだし、私も両親も分かっていた。それでも兄は王立学園入学時に、騎士科に入ることを決めたのだ。
結局、兄は三年生になる前に大怪我をしたことが原因で騎士科を辞め、政務科に転向した。けれど一年生の頃親しくなったクライヴ様とは、その後もずっと仲良くしている。そのクライヴ様は、騎士科を首席で卒業されたそうだ。今二人は、ともに二十歳になる。
(……横顔が綺麗だなぁ)
兄や両親との会話が途切れ、グラスを手に取り傾けるクライヴ様を見て、そんなことをぼんやりと思う。圧倒的なオーラを放つ彼にいつも怯えてしまうけれど、クライヴ様は本当に端正なお顔立ちをしていらっしゃるのだ。
すると、グラスを置いたクライヴ様が、急に私の方に顔を向けた。
(……っ!!)
驚いて思わず固まり、不自然に目を逸らす。気まずい思いをしながら目の前のお肉にナイフを入れていると、クライヴ様の低く静かな声が響いた。
「……それで、ナイジェル。事情とは」
「……んっ?」
名前を呼ばれた兄が、口をもごもごと動かしながらクライヴ様の方を見る。すると彼は再度問いかけた。
「……さっき言っていただろう。玄関ホールで」
「何を?」
「……これには事情があってだな、と」
「……ああ! ローズのことか。そう言ってくれよ。分からないじゃないか。はは」
兄は水を一口飲んでから、私が変装をして学園に通っている事情について説明を始めた。それを無表情で聞いていたクライヴ様は、兄の言葉が途切れた途端、唸るような低い声を発する。
「……くだらん。馬鹿げている」
「だろう? 俺たち家族もそう思っているんだが、王女殿下にお心健やかにお過ごしいただくためだの、ルパート殿の立身出世のためだの、向こうがそんな理由を持ち出してくるものだからさ。今はとにかく黙って従うと言うんだよ、ローズは。健気だろう?」
母が小さくため息をつき、父も渋い顔をする。
「フラフィントン侯爵家と我が家との関係が下手にこじれてはいけないと気を遣っているのだろうが、お前が嫌ならいつでも止めていいんだ、こんなこと」
「だ……、だから、大丈夫だってば、お父様。本当に大したことじゃないわ。こんなことで全てが丸く収まって、王女殿下が穏やかに学園生活を過ごせるのなら……。ルパート様だって安心するでしょう」
慌てて口を挟む私を、クライヴ様がじっと見つめる。なんだかすごく気まずい。悪いことをごまかしているような、自分がひどく情けない人間になったような、そんな気分だ。
「でも親としては心配でたまらないのよ、ローズ。年頃の女の子が、同年代の子女のいる学園にあんな格好で通っているのだもの。きっとあなたも本当は……」
「か、考え過ぎよ、お母様。私が学園に通っているのは、おしゃれを競い合うためじゃなのよ。将来ルパート様の妻となった時に、家政の切り盛りをしたりお仕事の補佐をしたり、何でもできるようになっておきたいからよ。より多くの知識を身に付けるべく通っているんだもの」
もうこれ以上、この話題を続けるのは止めてほしい。立派なサザーランド公爵令息の前で、恥ずかしいじゃないか。
私が母にそんな言葉を返していると、ずっとこちらを見ていたクライヴ様が、ふいに視線を逸らした。……呆れられたのだろうか。少し胸が痛んだ。
それからデザートを食べながら皆でしばらく会話をして、食事が終わると、私は一度自室に引き上げた。
少しして階下へ下りてきてみると、もうクライヴ様はお帰りになった後だった。
「なぜ声をかけてくださらなかったの? お兄様。私もきちんとお見送りしたかったのに……」
最初に出くわした兄にそんな恨み言を言ってみたけれど、兄は飄々としている。
「いや、なんかわざわざ呼ばなくていいってクライヴが言うものだからさ。どうせこれからはちょくちょく顔を合わせるだろうって」
「そう……」
たしかに、私もこうしてタウンハウスで暮らすようになったから、兄と親しいクライヴ様とはこれから頻繁に顔を合わせるのかもしれないけれど。
すると、兄が思い出したように言った。
「そうだ。さっきちょっと二人きりになった時にさ、クライヴから言われたよ。お前に伝えておいてくれと。『サザーランド公爵家の人間として、してやれることはいくつもある。困ったらいつでも相談してほしい』、だってさ」
「あ……、ありがとうございます」
「いや、俺に言われても」
兄はそう言ってからからと笑う。
「クライヴもさ、いちいち俺を通して言わずに、ローズに直接言えばいいのにな。あいつああいうところあるよな。まぁ、互いに未婚の男女だからと遠慮しているのかもしれないけどな」
そう言いながら、兄はすたすたと歩いていってしまった。
その夜。湯浴みを済ませ夜着に着替えてから、眠る前に少し今日の授業の復習をする。けれど頭の中には、中庭で目が合った時のルパート様の冷たい視線や、髪を短く切り揃えていたあの先輩の悲しそうな顔、そして玄関ホールで鉢合わせした時の、私を見つめるクライヴ様の表情などが次々とよぎる。私は頭を軽く振り、教科書を閉じてベッドに潜り込んだ。深いため息が漏れる。
(……クライヴ様には、昔からみっともないところばかり見られちゃってるなぁ……)
体が大きくて表情に乏しく寡黙なこと以外にも、私がクライヴ様を少し苦手に思ってしまう理由に、それがあった。彼にはこれまで何度も、思い出すのも恥ずかしいようなところばかり見られてしまっているのだ。
たとえば、騎士科にいた頃の兄が学園に許可を取り、実技試験用の模擬剣を持って帰ってきたことがある。自主練のためだ。タウンハウスに遊びに来ていた十三歳の私は、それをこっそりと裏庭で磨いていたのだ。兄が怪我をしないようにと念を込め、独自のおまじないを唱えながら。その時、たまたま我が家に来ていたクライヴ様にその姿を見られてしまった。
絶対に〜無事に終わる〜、お兄様は〜試験を終えて元気に帰ってくる〜、などと唱えながら、ふと人の気配を感じ顔を上げそちらを見た時、切れ長の目を丸くしたクライヴ様が私を凝視していた。あの時のお顔を忘れることができない。
それから、その後の試験で兄が大怪我をして帰ってきた時。片方の瞼を紫色に腫れ上がらせ足を引きずった兄が、苦しげな顔をして玄関ホールに現れた瞬間、私は大声を上げ泣きながら兄の体に縋りついた。過去に騎士科の模擬剣を使った試験で、こんな怪我を負った人は一人もいないらしい。兄はよほど向いていなかったのだろう。よく二年生までやってこられたものだ。
この時、隣で兄の体を支えてくれていた人がクライヴ様であったことを知ったのは、数日後だった。私は兄の姿しか見えていなかったのだ。
こちらは心の余裕がなくて一切見ていなかったけれど、クライヴ様の方はしっかりと見たはずだ。顔中を涙と鼻水まみれにしてみっともなくわんわんと泣きながら、大怪我を負った兄にしがみついている十三歳の伯爵令嬢の姿を。後日、あれがクライヴ様だったと知った瞬間、顔から火が出るかと思った。
そして今日。久しぶりに再会した時の私の格好は、ぼさぼさ三つ編みかつらと黒縁の珍妙な伊達眼鏡。あちらはますます立派なお姿になられた、王国騎士団所属の騎士様……。
「あぁ……。クライヴ様の記憶から私という人間を消したい……」
ブランケットを頭まで被り、思わずそんな言葉が口をついて出る。人にどう見られているかなんて全然気にしない、という顔をして学園に通ってはいるけれど、私もやっぱり年頃の娘。本当は気にならないはずがないのだ。
ノエリスのような、優しい令嬢ばかりじゃない。
本当は登校初日から気付いていた。教室に入った途端感じた、刺すような視線。戸惑った表情。時折聞こえてくる、露骨な嘲笑。それらを感じるたびに、胃がぎゅっと押し潰されるような、体が縮こまるような居心地の悪さに泣きたくなった。
(……これも全部、ルパート様のため。そしてハートリー伯爵家がフラフィントン侯爵家と好条件で繋がっているため。ほんの一時のこと。長い人生の中の、たった三年間の我慢だわ)
今夜もそう自分に言い聞かせ、私は静かに瞼を閉じた。




