最終話. ずっと一緒に
外の空気がすっかり暖かくなった頃、私たちは進級し、二年生となった。
激動の一年間が夢だったかのように、今は穏やかな毎日を過ごしている。
「美味しいわねぇ。新作のラプルケーキ! どうしてこんなに次々と新メニューが出るのかしら。不思議だわ。よほど才能のある菓子職人を雇っているのね、ラ・ローズ・ド・ラプルは」
下校時間の早い日の放課後。私はノエリスと連れ立ち、大通りのラプル菓子のお店に来ていた。クライヴ様ともデートでよく来ているし、ノエリスと二人で来るのももう三回目だ。すっかり顔馴染みとなった店主に通された奥の個室で、ノエリスと向かい合いラプルのスイーツを堪能する。お店の名前を口にするノエリスの顔に、からかうような色が浮かんでいることに気付き、照れた私はわざと拗ねた表情で目を逸らした。
「恥ずかしいから止めて……」
クッキー生地とラプル風味のクリーム、それにスポンジとラプルのジュレが四層に重なる凝ったケーキにフォークを入れながら、ノエリスがくすくすと楽しそうに笑った。
「ふふ、あなたの反応が可愛いから、ついからかいたくなっちゃうのよ。ごめんなさいね、ローズ。愛されて幸せね。きっとあなたを飽きさせないために、こんなにたくさんの新メニューが出るんでしょう?」
「さ、さぁ。別にそんなことはないと思うけど、ここの職人さんはラシェール王国でも特に評判のいい人だったみたいよ。クライヴ様が直接交渉して、今はここで働いてくれているんですって」
これ以上冷やかされたらたまらないとごまかしたけれど、本当はクライヴ様からはこう言われていた。
『あのカフェを気に入ってくれている君が、何度訪れても飽きることなく楽しめるよう、店主には定番メニューの他に、常に目新しいものをいくつか考案し提供できるようにしてほしいと言ってある。……何度でも一緒に行こう』
クライヴ様の優しい笑顔を思い出し、体温が上がる。
「ふぅん。……幸せそうな顔をしてるわね、ローズ。今サザーランド様のことを考えているでしょう?」
……ノエリスは鋭すぎて困る。
薄くスライスされたたくさんのラプルが大輪の薔薇のように飾られたタルトをつつきながら、私は彼女を咎めるように軽く睨んだ。けれど、こんなに火照った顔では迫力などないらしい。きっと今、私の顔は真っ赤に染まっているのだろう。ノエリスが一層楽しげに笑いだした。
「……それにしても、本当に美味しい。あなたの影響で、私もすっかりラプルが大好きになっちゃったわ。ラシェール王国に嫁いだら、王宮の皆にはラプルが好物だとすぐに伝えなきゃね。デザートに出してくれる回数が増えるかもしれないわ」
「ふふ。そうね」
ノエリスの言葉に頷きながら、卒業後のことを考える。
「……こんな風にあなたと一緒に過ごせる時間を、大切にしたいな。自由な今を満喫しましょうね」
私がそう言うと、ノエリスはほんの一瞬目を見開き、とても穏やかな笑みを浮かべる。
「もちろん。悔いの残らない学園生活にするわよ。いっぱいお喋りしましょうね。……ふふ。大丈夫よ。サザーランド公爵領とラシェールは縁が深いわ。私が向こうに行っても、会う機会は何度でもあるもの」
やっぱりノエリスには敵わない。察しがよくて賢くて、そしてとても優しい。
「ありがとう、ノエリス。あなたには本当に感謝しているわ。初めて学園に登校した日、私あんな格好で……自分がすごく惨めで、不安で仕方なかったの。家族の前では心配をかけたくなくて、強がって笑っていたけど、本当はいたたまれなかった。……ノエリスが声をかけてくれた時、どれだけ嬉しかったか。あれからずっと、あなたは私のそばにいてくれた。あなたには他にもたくさんの友人がいて、わざわざあんなみっともない姿の私を相手にする必要はなかったのに、私を独りぼっちにしないでいてくれたわ。……ありがとう。あなたはきっと、素晴らしい王子妃になるわね」
「な、何よ急に。改まって……」
珍しく頬を染めて狼狽えたノエリスが、恥ずかしそうに私から目を逸らし、ケーキを口に運んだ。……目が少し潤んでいる。その姿を見ていると、なんだか私も感極まってきた。
食べながらこちらをちらりと見たノエリスが、ぎょっとした顔をする。
「……やだ、ちょっと。どうして泣くのよ。もらい泣きしちゃうじゃない」
「こっちがもらい泣きしてるのよ、ノエリス……。本当にありがとう。大好きよ」
「も、もう。止めてよ……」
ついに私たちは食べる手を止め、互いにハンカチを取り出し目元を拭う。そして目が合って、同時に噴き出した。
少し落ち着いた頃、ノエリスが静かに口を開いた。
「……私の方こそ、ローズと出会えてよかったって思っているのよ。最初はおどおどして不安そうなあなたのことが心配だったから、声をかけたんだけど……。まさかこんなに気の合う友人になれるだなんて。淑女科に入ってよかったって思ってるわ」
「ノエリス……」
その温かい言葉を噛みしめ、幸せな気分に浸っていると、彼女はいつもの勝ち気な笑みを浮かべて言った。
「あなたに大好きって言われると、こんなに嬉しいのね。ふふ。サザーランド様にも、ちゃんと伝えてる?」
「……へっ!? な、なんでここでクライヴ様の名前が出てくるのよ」
ほんわかした気持ちから突然我に返ると、動揺のためにまた体が熱くなる。ノエリスは私に言い聞かせるように、優しい眼差しでこう言った。
「恥ずかしがりなあなたのことだから、自分の気持ちをはっきりと口にすることなんて、きっとあまりないのでしょうけど。たまには伝えてあげてね。きっとサザーランド様、天にも昇るほど嬉しくなるはずよ」
「……。……そう?」
「そうよ。当たり前じゃない」
たしかに、クライヴ様から好きだと言われると、これまで経験したことのないような幸福感に包まれる。
(クライヴ様も、喜んでくださるのかしら……)
勇気を出して、伝えてみよう。
できるだけ早いうちに。
そんな決意を固めた私は、ドキドキしながら紅茶を口に運んだ。
それからさらに数ヶ月が経ち、夏の長期休暇を目前に控えた、ある週末のこと。私はサザーランド公爵家のタウンハウスを訪れていた。
二年生になってから、月に一度はこうしてサザーランド公爵家で、嫁ぐための教育を受けている。
公爵夫人からは、サザーランド公爵家の理念や心構えをはじめ、家臣の管理や社交界での振る舞い、来客応対や、慈善活動の采配などの指導を。
家令からは、屋敷の運営や、家財管理、書類の扱いなどの実務を。
そして専任の教育係からは、宮廷マナーやダンス、王国史や外交上の慣習、公式書簡の書き方といった、王宮で通用する教養を教わっている。
学園での授業は真面目に受けているし、クライヴ様との婚約が決まってからは、家でも複数の家庭教師を招き高度なマナー教育を受けてきた。そのおかげで、公爵邸で教えられることは何でもスムーズに覚えることができていた。
「あなたは飲み込みが早いわ。この調子なら、将来サザーランド公爵家の夫人としての務めも安心して任せられましょう。頼もしいわね」
「ありがとうございます、ヘレナ様」
厳粛で一分の隙も見せなかった公爵夫人が、最近では少しずつ私に笑顔を見せてくださる時間が増えてきて、とても嬉しい。お名前で呼ぶことも許していただいている。けれど最初の頃は本当に怖くて、緊張したものだ。
公爵夫人から二時間ほどみっちりと教育を受けた後、お茶をいただきながら二人でお話しをしている時だった。静かに扉が開き、クライヴ様が姿を現した。……今日はお屋敷を訪れた時に少しお会いしただけで、まだほとんど会話をしていない。お顔が見られて、ほんの少し体温が上がる。
「……教育が終わっていたのなら、呼んでほしかったのですが」
私と二人きりでいる時とは違う、クライヴ様の迫力あるむっつりとした顔が、余計不機嫌そうになる。
「あら、女性同士のお茶会って楽しいものなのよ。近い将来我が家に迎える大切なお嫁さんとの貴重な時間を邪魔するなんて、無粋な息子ね」
公爵夫人は澄ました顔で紅茶を口元に運びながら、クライヴ様にそう返している。楽しいというか、私は何か粗相をしてしまわないかとまだまだ張りつめた気持ちで臨んでいるのだけれど、公爵夫人からそう思っていただけているのならありがたい。
クライヴ様は一層不満げな表情になり、公爵夫人に抗議する。
「俺だってローズの顔を見るのは数週間ぶりなんです。遠征から無事に戻った息子に、婚約者とゆっくり過ごす時間を少しは譲ってもらえませんかね」
決して引かないクライヴ様に、公爵夫人は珍しく、小さく声を漏らして笑った。
「そんなに言うのなら仕方ないわね。国境砦の視察と軍事演習、お疲れ様。労いを兼ねて、そろそろロザリンドさんを譲りましょう。二人でお庭でもお散歩してきたらどう? まだ白百合やラベンダーが綺麗よ」
「ありがとうございます。……おいで、ローズ」
「は、はい」
クライヴ様は間髪を容れずにそう答えると、私を促した。慌てて立ち上がり、私は公爵夫人に礼をする。
「本日もお時間を作っていただき、ありがとうございました、ヘレナ様」
「ええ。また来月を楽しみにしていますよ。ハートリー伯爵と夫人にも、よろしく伝えてちょうだいね」
公爵夫人はそう言うと、部屋を出る私たちを穏やかな眼差しで見送ってくださった。
サザーランド公爵家の庭は、色とりどりの花々で満ちていた。石畳の小道の両脇には、真夏の陽射しを受けて輝く白百合が咲き誇り、通り抜ける風に揺れるたびに、淡い香りがふわりと漂う。
その奥には、重なり合うように植えられたラベンダー。優しい色が、胸の奥の緊張をそっとほどいてくれる。
噴水の周りに夏咲きの薔薇たちも咲き乱れており、どこを見ても花々が大切に育てられていることが分かる。公爵家らしい優雅な庭だった。
「母の教育はどうだ? 手厳しいだろうが、大丈夫か。きついことばかり言われていないか、心配だった」
「ふふ。いいえ、全然。相変わらず緊張しますが、ヘレナ様はとても丁寧に教えてくださいますし、最近ではいろいろなお喋りを楽しんでもいます。……クライヴ様こそ、遠征お疲れ様でした」
遠方に行っていた彼とこうしてゆっくり会話を交わすのは、とても久しぶりだ。会えない数週間は、まるで何年も時が経っているかのようにもどかしく、寂しかった。
それを素直に伝えればいいのだろうけれど……。
(お会いしたかったですと、ただ一言言えばいいのに……。な、なぜそれがこんなにも、気恥ずかしいのかしら……っ)
今日こそ私の想いをたくさん伝えようと意気込みつつも、なかなか勇気が出ない。内心悶えている私の隣で、クライヴ様は、ああ、と優しく微笑む。
「何度も手紙をありがとう。君の筆跡を見るだけで、心が踊った」
「……わ、私の方こそです……」
すっかり聞き馴染んだ、低く穏やかなその声に、心が浮き立つ。隣にいてくれて、言葉を交わすだけで、こんなにも幸せな気持ちになれるなんて。
暴れる心臓を落ち着けようと、ひそかに深く息をつく。するとクライヴ様が、突然私の右手を包み込むように握った。
「ナイジェルはどうだ? 元気にしているか」
「……は、はいっ。変わらず。婚礼に関する準備で、慌ただしくしています」
包まれた右手に意識がいってしまい、返事が遅れた。
兄の婚約者は、遠方の伯爵家のご令嬢だ。幼少の頃から聡明で礼儀正しいと評判のお嬢さんで、およそ十年前、父がぜひにと頼み込み、我がハートリー伯爵家の嫡男の妻にと迎えることになった方だ。
本人同士はほとんど会う機会もないままに結婚の日を迎えることとなった。そのためか、兄は最近心ここにあらずといった様子で、ぼんやりしていたり、そわそわしていたりする。
「それならよかった。……ナイジェルの結婚式では、また君は泣くんだろうな」
「……えっ?」
また、という言葉が何を意味しているのかを考えながら、そう問い返す。……絶対にあの時のことだ。そう思い至った時、案の定クライヴ様が言った。
「君は兄想いだからな。命にかかわる怪我をしたわけでもないのに、あんなにも涙を流したくらいだ。きっと彼の晴れ姿を見たら、感極まってまたしゃくり上げて泣くのだろう」
(や、やっぱり……)
騎士科の実技試験の時のことを言われているのだと分かり、私は火照った頬を少し膨らませる。
「もう子どもではないのですから。それに、兄がどこか遠くに行くわけでもありませんもの。あんなに泣いたりしません」
私の様子が可笑しかったのか、クライヴ様が楽しげに破顔する。その笑顔に、胸が甘く締め付けられた。
ああ、私は本当に、この方のことが大好きだわ。
「そうか。……可愛かったけれどな、あの時のローズも。ナイジェルの新たな出発を、君とともに祝えることが嬉しい」
(……クライヴ様……)
「……私もです。ずっとそばで見守ってきてくださったあなたと、人生の大切な瞬間を、これからも一緒に過ごしていきたい」
想いが口をついて溢れ、気付けば私はそんな言葉を紡いでいた。クライヴ様が驚いたように目を見開き、そしてまた優しく微笑む。
ふいに、婚約してからこれまでに起こったたくさんの出来事が、次々と脳裏をよぎる。
辛い時はいつでもそばにいてくれて、楽しい時はずっと、私の笑顔を見つめてくれていた。
頼もしくて愛情深いこの人と、私はこれから先の人生を生きていくんだ。
「クライヴ様……、あなたのことが、大好きです」
これまでどうしても言えなかったはずのその言葉が、今自然と、私の唇からこぼれた。
クライヴ様の表情が、ほんの一瞬固まった。その眦がじわじわと朱に染まり、やがて彼の頬も耳も、真っ赤に染まった。
それを見て我に返った私も、急に全身が熱くなる。たまらず顔を伏せると、頭上からかすれた声が降ってくる。
「……ありがとう、ローズ。俺もだ。君を愛している」
そのまま優しく抱き寄せられ、私は震える瞼を閉じ、そっと息をついた。そして彼の胸に頬を寄せる。
重なり合う鼓動を聞きながら、幸せを噛みしめる。この人と生きる未来のためなら、どんなことでも頑張れると思えた。与えてもらった安らぎと喜びを、私もこの人に返していこう。
その決意とともに、私はそっと顔を上げた。
愛おしい人の漆黒の瞳が、私のことだけを映している。
やがて、クライヴ様のお顔がゆっくりとこちらに寄せられる。
私は自然と目を閉じ、静かに重なった彼の唇の熱を受け止めた。
花々の香りを含んだ柔らかな風が、私たちのそばを吹き抜けていく。
まるで、この幸せをはるか未来へと、優しく運んでいくように。
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