50. 届かぬ声
「エメライン王女殿下……、あなた様のお気持ちは、お察しいたします。幼き日の、心を捧げた恋のお相手が、あなた様のもとを去った。……きっとそれは、王女殿下にとって、とても大きな心の傷になったのですよね」
「ええ。死んだの」
「……っ」
おそるおそる声をかける私の言葉をざっくりと斬り捨てるかのように、王女はすぐさまそう答えた。
「だから代わりの騎士様を探し求めたわ。今度こそ、人生の最後の時まで、あたくしだけを愛し、あたくしだけに身も心も捧げてくれる本物の騎士様を。……あなたが奪った」
王女の声はどんどん低くなる。その声は、強烈な怒りを孕んでいるように感じた。けれどそれは、明らかに理不尽な怒りだ。
「……クライヴ様は……サザーランド公爵令息様は、エメライン王女殿下の誓いの騎士様ではございません。他の者たちもそうです。王女殿下は、かつての方の代わりを探そうと必死でいらっしゃったのでしょうが……。誰もその方の代わりになどなり得ないのです」
エメライン王女は、光を失った目で私のことをじっと見つめている。私は懸命に言葉を繋いだ。
「王女殿下のお心に空いてしまったその穴は、別の誰かを無理矢理押し込んで埋められるようなものではございません。クライヴ様も、王女殿下が求めておられる誓いの騎士の代わりではありません。クライヴ様という、一人の男性です」
ふいに、エメライン王女の口から乾いた笑い声が漏れた。
「……偉そうにお説教なさるのね。ただの伯爵家の娘が、このあたくしに。あなただって、サザーランド公爵家の子息だから、王国騎士団の騎士だから、クライヴ様の婚約者の座に喜んで納まったのでしょう。皆同じよ。あなたの仲良しの、ノエリス・オークレインだって……」
突如ノエリスの名を口にした途端、王女の顔は一層陰を増した。
「そう……。彼女のことも、あたくし大嫌いだわ。あたくしの代わりに、ラシェール王国王家に嫁ぐことになったのよね、あの人。きっとあたくしのことを見下し、嘲笑っているんだわ。嫌な方。……あなたもそうよ。彼女と一緒になって、このあたくしを笑っていたのでしょう? 人のものを横取りして。嫌な人。嫌な人たち。……大嫌いだわ……」
ぶつぶつと恨みの言葉を吐き続ける王女は、もはや正気を保ってはいないようだった。それでも私は彼女の言葉に向き合おうと、必死に耳を傾ける。
(サザーランド公爵家のご子息だから……王国騎士団の騎士様だから、私はクライヴ様を好きになった……?)
そんなことはない。そうと知っていても、最初は怖くて、苦手だった。
じゃあ、一体いつから……?
クライヴ様からの婚約の打診があったと父に聞かされ、初めてクライヴ様が私に会いにタウンハウスに来てくださったあの日のことが、頭をよぎる。
『……君を他の誰かにとられてしまう前に、どうしても俺のものにしたかった』
寡黙で無愛想だった彼が、あの日眦を赤く染め、情熱的な言葉を私にくれた。
その時のことを思い出した瞬間、これまで彼とともに紡いできた時間が、クライヴ様の優しさが、堰を切ったように胸に溢れる。
私を喜ばせようと、大好きなラプルのカフェまで作ってくださった。
王女のブローチの件で疑いがかかった時も、微塵も疑うことなく私を信じ、そばで支えてくださった。
幼稚でみっともない私の姿さえ、愛おしいと言ってくださった。
私に対してだけじゃない。
長年わだかまりのあった実のお兄様のことを、ずっと胸の内で大切に思い、悩み抜いた末に真っ直ぐに向き合おうとなさった。
その誠実さと強さ、そして無骨な見た目からは想像もできないほどの情の深さ。
彼のその全てを、私は好きになったんだ。
(……クライヴ様に会いたい)
胸に浮かぶ大切な人の穏やかな顔が、私に勇気をくれた。
私は顔を上げ、王女の目を真っ直ぐに見つめる。
「違います、エメライン王女殿下。私はクライヴ様のお心に惹かれたんです。彼が騎士だからでも、公爵家の令息だからでもない。クライヴ様がどんなお立場にあっても、私は彼を好きになります」
王女は口を結んだまま、私のことを見つめている。その顔には相変わらず表情がなく、ただ陰鬱な陰だけが濃く差していた。
「王女殿下……、人は皆、それぞれに違う人生を生き、違う傷を抱え、違う未来へと進んでいきます。誰一人として、誰かの代わりになんてなれません。自分のもとを去った愛しい人の代わりを作って、無理に埋めようとしたって、余計に苦しみが増すだけです」
「……」
王女の様子は変わらない。ただ私のことを見ている。
「どうかもう、理想の中の騎士様を追い求めるのはお止めくださいませ。今のままではきっと、王女殿下は一歩も前に進めず、苦しいままでございます……」
私は無我夢中だった。王女がこの場に現れた時から感じていた恐怖心さえも、いつの間にか忘れていた。
ただ、過去の傷にとらわれたまま立ち尽くしている目の前のこの人を、少しでも救ってあげたい。その一心で、私は語りかけた。
やがて、口を閉ざしたままの王女がついに足を動かした。
はっと我に返り見つめていると、王女はゆっくりと私に背を向けた。そしてご自分が入ってきた扉の方へ、頼りない足取りでゆらゆらと歩いていく。
奥の部屋に戻られるつもりだろうか。
心配になり、息を詰めて見守っていると、王女は扉の取っ手に細い指を添えゆっくりとひねった。
金具がわずかに鳴り、扉が静かに開いていく。その部屋から、こちらへ光が差し込んだ。
「もういいわ。あとはお好きになさって」
扉の向こう側へ、王女がそう声をかける。……奥の部屋には、他にもまだ誰かいたのか。途端に全身が強張る。
その人物のために場所を空けるように、王女が一歩下がった。祈るような思いで扉を凝視していると、長い人影が伸びる。
「────っ!」
その人物が誰であるかを認識した私は、衝撃のあまりめまいがした。




