45. 雪解け
初めて見る、クライヴ様の緊張した面差し。
対してハロルド様の方は、ずっと穏やかな表情のままだ。彼はクライヴ様の言葉に、小さく「うん」と答え、頷いた。まるで何もかも分かっているかのように。
クライヴ様はゆっくりと語りはじめた。
「俺たちはこれまで、ほとんど私的な会話などないままに過ごしてきました。幼少の頃は、あなたは臥せっていることが多く、たまに起きていられる時でも、ずっと私室にこもって勉学に励まれていた」
「……」
ハロルド様はクライヴ様を見つめたまま、その話を黙って聞いている。何をお考えなのかは分からないけれど、その眼差しはずっと穏やかなままだ。
「その頃から、俺は兄さんに遠慮してばかりでした。努力する兄さんの姿や苦しんでいる様を陰から見ていながら、何一つ分かち合えず、声をかけることもできず……。ずっと距離を置いてしまっていた」
クライヴ様の膝の上にある拳は、強く握られている。その手に自分の手を重ねたいと、強く思った。けれど、私はただ静かに彼を見守った。
「兄さんは、サザーランド公爵家の嫡男であることに責任を感じ、ひたすら懸命に、この家のために尽くそうとしてこられた。悲鳴を上げる体に鞭打って前に進もうとするその姿を、俺はずっと見ていました」
ほんの一瞬、ハロルド様のグレーの瞳がかすかに揺れた気がした。
「でも、兄さんの苦しみを知っていながらも、俺には何もできなかった。声をかければ、兄さんの重荷になるのではと。あるいは……頑強な俺の姿を見せれば、兄さんを傷つけるのではと。そんな独りよがりな理由で、逃げていたんです。……だけど俺は、あなたと向き合いたい。これからはもっと、きちんと話がしたいんです。サザーランド公爵家の息子同士として」
クライヴ様の言葉が途切れると、応接間はシンと静まり返った。息をするのも憚られるほどの緊迫した空気の中で、私は祈るように、そっとハロルド様の様子を窺う。
ハロルド様はどこか寂しげな笑みを浮かべ、クライヴ様のことを見ていた。
「うん。分かっていたよ、お前のその気持ちは」
ハロルド様の言葉に、クライヴ様が目を見開く。彼はクライヴ様の気持ちに応えるかのように、静かに語りだした。
「お前の言うとおりだよ。私はサザーランド公爵家の嫡男でありながら、何もなせない自分に苛立ち、焦っていた。何もかも思うようにならない苦しみから、お前に対しても、理不尽な怒りを抑えることができない時もあった。お前はきっと、全てを分かっていたはずだ。……未熟な兄で、申し訳ない」
正直なその告白は、私の胸を打った。この穏やかな言葉の中には込められないほど多くの思いを、この方も抱えてこられたのだろう。
「多くの縁談が持ちかけられているはずのお前が、ずっと婚約者を決めない理由も、なんとなく察してはいた。きっと私のことを一層追い詰めることになると思ったのだろう。サザーランドの後継ぎを自分が作る、家の将来を担うのが自分であると、覚悟を決める。そう見える選択をして、それで私が傷付くことを、きっとためらっていたのだろう」
クライヴ様の瞳が、明確に揺れた。その顔を見て、胸に刺すような痛みが走る。この方は、この体躯で堂々と振る舞いながら、どれほど繊細に頭と心を悩ませて来たのだろう。そしてハロルド様も、そのことを知っていたのだ。
ハロルド様のお顔に、雲が晴れたかのような爽やかな笑みが広がった。
「何もできなかったなんて、とんでもない。お前が立派で、しっかりしてくれているからこそ、私はどこか安心していられたんだ。そして、ようやく腹を括ることができたよ」
そう言うと、ハロルド様は膝の上に置いた長く細い指先に一度視線を落とした。そして再び、クライヴ様を見つめる。
「長く葛藤してきたが、ようやく理解したんだ。自分が追い求めてきた役目は、サザーランド公爵家の後継になることだけではないと。神が私に与えたこの体は、自分の意志や努力ではどうにもならない。こんな自分が無理に先頭に立つよりも、誰よりも強く、冷静で、物事を正しく見極められるお前が先頭に立つ方が、この家はずっと良い方向へ進む」
ハロルド様のその声色は、悔しさでも劣等感でもなく、静かな決意に満ちていた。
「私が担うべき役目は、お前が真っ直ぐに歩いていけるよう、土台を整え、支え続けることだ。兄として、そしてサザーランド公爵家の一員としてな。いまだに人前に出られぬ日が多くとも、頭は動くし、手も動く。各地からの報告書の精査や記録、資料作り、領地経営の長期計画案の作成……、私にできることは山ほどある」
クライヴ様が息を呑む。
ハロルド様は優しく言葉を続けた。
「お前が前に立て。私は後ろから支える。それが最も自然な形だと、今なら素直に思えるんだ。……このサザーランド公爵家を、どうか胸を張って継いでくれ。お前に託すよ」
その言葉の中に、悲しみは見当たらなかった。
むしろ、長い葛藤を乗り越えた末の、静かな誇りさえ感じられた。
「兄さん……、ありがとう。あなたの後ろ盾は何より心強い。これからよろしく頼みます」
そう応えるクライヴ様の声は、少し震えていた。
(クライヴ様……よかった……)
互いにずっと、簡単には言い表わせない心の澱を抱えて生きてきたのだろう。それが今、ようやく言葉になり、兄弟で向き合う瞬間が訪れたのだ。こんなにもお互いのことを心の中で思い合っていた二人だ。きっとどちらにとっても、今日という日は忘れられない日になるのだろう。
(じゃあクライヴ様はこれから、サザーランド公爵に今日のご兄弟の会話を……ご自分がサザーランドを継ぐ覚悟を決められたことを、お話するのかしら。……ということは……、あれ? 将来私が、サザーランド公爵夫人になるということで……ほぼ決まり、なのよね……?)
クライヴ様が次男ということもあり、これまでは別の道も考えられた。彼が騎士として別の爵位を得る、あるいは、分家を興せば私はその妻として、もう少し気楽な立場に収まっていたかも……。けれど、ご兄弟の間で話がこの方向でまとまったということは……。
自分の重責もほぼ確定したということに気付き、大きな動揺の波が来そうになった、その時だった。
ハロルド様が、一層優しい笑みを浮かべ私に視線を向けた。
「そして、この頑固な我が弟がようやく心を許した相手が、あなたというわけだね、ハートリー伯爵令嬢。ぜひ弟との馴れ初めを聞かせてくれないだろうか。昼食はまだだろう。準備させてある。ご一緒しよう」
「っ!! は、はい! ぜひ……っ」
慌てて居住まいを正しそう返事をした私は、クライヴ様の表情をそっと窺う。
彼はこのうえなく晴れやかな顔で、私を見つめて微笑んでいた。




