32. 失われたブローチ
しばらくの間微妙な空気が流れたけれど、次第にまたもとの明るい雰囲気に戻りはじめた。
天候や各領地の作物の収穫状況、参加している慈善事業や、王都で話題の菓子店、新しく仕立ててもらったドレスなど、貴族家の令嬢が集まると話題には事欠かない。そうしてお喋りやお菓子をしばらく楽しんだ頃、ふいに王女が胸の前で軽く手を合わせ、目を輝かせた。
「そうだわ! 皆様、せっかくですから、奥の花園を見に行ってみませんこと? 今の時期なら、きっとダリアやアスターが綺麗だわ」
王女のその提案に、女子生徒たちは皆口々に「いいですわね」「まいりましょう」と賛同する。たしかに、普段はあまりゆっくりと学園の花園を散策する時間などない。楽しみに思って皆と同じように立ち上がると、王女が私の耳元でそっと囁いた。
「ロザリンドさん、レストルームへ行ってきたらいかが?」
「……え?」
戸惑いながら王女の顔を見つめると、彼女は言いづらそうに眉を下げた。
「お化粧、少しよれてしまっていてよ。さっきからずっと気になっていたの。今のうちに……ね?」
「っ!! も、申し訳ございません。ありがとうございます」
「ええ」
にっこりと微笑んだ王女が、お茶目に片目をつぶってみせた。学園長やマナー教師を含め皆が花園の方へ移動を始める中、私は一人で反対方向へと早足で向かう。顔から火が出そうだ。一体いつから、化粧がよれてしまっていたのだろう。
けれど、一番近い校舎のレストルームに入り鏡を覗いた私は、目を丸くした。
「……別にどこも……崩れてない気がするんだけどな……」
前髪、目元、頬、唇。パーツごとに丁寧に検分した後、少し体を引いて全体的にチェックしてみる。けれど、特におかしなところは見つからない。
(変だな……。王女殿下はどこを見ておっしゃったのかしら)
再度念入りに確認してみたけれど、やはり分からない。私は一応口紅だけを薄く塗り直し、髪も整えてから中庭へと戻った。
「ローズ! 見当たらないからびっくりしたわ。どこへ行っていたのよ」
中庭の奥の花園まで戻ると、真っ先にノエリスが声をかけてきてくれた。
「ごめんね、ちょっとレストルームへ……。ね、ノエリス、私の顔、変じゃない? 大丈夫かしら」
「顔? ……うん、全然変じゃないけど。どうして?」
至近距離で私の顔をまじまじと見たノエリスにそう言われ、ほっとした。
「ううん。大丈夫ならいいの。ごめんね」
「そう? ……私もちょっと、行ってくるわね」
「ええ」
そう返事をすると、ノエリスもレストルームの方へと向かった。
辺りを見回すと、いくつかのグループに分かれるように女子生徒たちが散り散りになり、花園の中を散策している。エメライン王女の周りには四、五人の生徒がいて、少し離れたところに騎士科の男子生徒と、王女付きの護衛がいる。学園長やマナー教師も、離れたところで辺りを見回しながら、花々を堪能しているようだった。王国騎士団の騎士様たちは、もっと遠くからこちらを見ている。
私は所在なく、近くのダリアをぼんやりと見つめていた。しばらくすると騎士科の男子生徒が、王女のそばに近付いていくのに気付く。
「王女殿下、肌寒くはございませんか? ショールをお持ちしておりますが」
「あら、ありがとう」
王女がそう言って軽く手を広げると、彼は手にしていた薄いショールを王女の肩に丁寧にかけていた。王女はそれを胸元で軽く結んでいる。至れり尽くせりだ。
ちょうど戻ってきて私のそばにやって来たノエリスが、冷めきった目でその様子を見ていた。
その後は各々がお喋りをしながら花園をのんびりと歩き、うち数人はレストルームへと姿を消しては戻ってきていた。やがて王女の希望で、また全員でテーブルへと戻ることになる。休憩していた芸術科の生徒たちがまた演奏を始め、新しいお茶やお菓子も出された。
予想していたよりも長い時間続いた茶会は、学園長の「そろそろお開きにしましょうか」という一言で終わりを告げた。頷いた王女が、皆を見渡して言った。
「とても有意義で楽しい時間をありがとう、皆様。これからはぜひ、仲良くしていきましょうね」
皆は上品に目を伏せ、口々にお礼の言葉を述べた。控えていた男子生徒が王女の椅子を引くと、彼女は静かに立ち上がる。ふと、彼が先ほどまで王女のそばにいた男子生徒とは別の人だということに気付いた。今日の付き添いは交代制なのだろうか。
王女は羽織っていたショールをそっと外した。
すると、私の向かいに座っていた女子生徒が「あら?」と声を上げた。
「王女殿下……。あの、サファイアのブローチは、お外しに?」
「え……?」
その言葉に、王女はきょとんとした顔をした後、自分の胸元に視線を落とした。そして短く息を吸い込む。
「本当だわ、ブローチがない。どうしましょう……。お、落としてしまったのかしら……」
王女は不安そうな顔で男子生徒の方を見る。彼は背筋を伸ばし「探してまいります!」と言うと、芝を見回しながら花園の方へとゆっくり移動していく。
辺りは騒然となった。国王陛下から贈られたというあの豪華な宝石が消えてしまったのだから、一大事だ。私も無意識のうちに立ち上がり、周囲の芝や長テーブルの上を見回す。皆が一様に同じ動きを見せはじめた。「大変だわ……」「早く見つけなくては……!」などと口々に呟き、学園長らや王宮の護衛たちも皆、あらゆる場所の捜索を始めた。
「……あんなもの着けてくるからよ。ねぇ? 学園で何度も私物を紛失しているのでしょう? それなのに、あれほど貴重な宝石をよく身に着けてくる気になったものよね」
腰をかがめ芝を見回している私のそばにやって来たノエリスが、小声で王女を非難した。
「それはそうだけど……、このまま見つからなかったら大変よ。王女殿下がどれほど落ち込んでしまわれるか……。国王陛下もきっととてもお怒りになるはずだわ。いいから、ほら、探してさしあげましょうよ」
「はいはい。あなたは優しいわね、本当に」
私の言葉に肩を竦めたノエリスが、渋々といった様子でブローチを探しはじめた。
けれど、どれだけ皆で探しても、ブローチは出てこない。
心配になって王女殿下の方を見ると、彼女は真っ白な顔をして俯き、両手で口元を覆っている。いつの間にか戻ってきていたもう一人の騎士科の男子生徒が、そんな王女を気遣うようにそばについていた。異変を察知し走って戻ってきたのだろうか。肩で息をしている。
すると、その時だった。
顔を上げた王女が、弾かれたように駆け出した。何事かと思いその姿を目で追うと、いつの間に来ていたのか、その先にはクライヴ様の姿があった。
「クライヴ様……」
思わず小さく呟いた、その瞬間。
(……え……っ?)
エメライン王女が、クライヴ様の胸に飛び込んだ。
「クライヴ様……っ! あ、あたくしの私物が、また失くなりましたの……! 一体どうして? 誰があたくしにばかり、こんなことを……」
王女の甘えた仕草とそのか弱い声に、心臓を強く摑まれたような衝撃を覚えた。二人の姿を呆然と見ていると、クライヴ様はすばやく一歩下がり、王女から距離をとった。
「王女殿下、どうぞお心をお鎮めください。すぐに確認いたしますゆえ」
毅然としたその態度に、少しほっとする。
すると、騎士科の男子生徒の一人が王女のもとへと歩み寄った。
「エメライン王女殿下……。これだけ探しても、この辺りには落ちておりません。大変心苦しいのですが、念のため、列席者全員の持ち物及びロッカーなどを確認させていただくべきかと。中庭から離れた方も、何人もおられましたし」
すると王女は、弾かれたように顔を上げた。
「そんな! そこまでしなくても……。あたくしは、皆様を疑いたくはないわ……! せっかくこうして、あたくしの招待を受けて集まってくださった方々ですもの。それなのに……」
悲しげに俯く王女の姿に、周囲の空気が沈む。
誰もが気まずそうに視線を交わす中、王女の護衛の一人が、一歩前へ出る。
「殿下、あくまで確認のためでございます。ご参加の皆様のお立場を守るためにも、念のため、持ち物やロッカーなどをお調べするのがよろしいかと」
その言葉に、もう一人の護衛も小さく頷く。
「国王陛下より賜った宝飾でございます。念入りに捜索するほかございません」
王女は震える指先を口元に当て、ためらうように言った。
「……分かったわ。皆様には申し訳ないけれど……。どうか、ご協力をお願いできますか。ごめんなさいね」
その一言で、場の空気が決まった。
王女の護衛二人は彼女のそばに控え、第二師団の騎士たち数人や騎士科の男子生徒たちが、次々に動き出した。それぞれが各校舎の方へと向かう。
クライヴ様はこの中庭に留まり、注意深く周辺を見渡しながら確認を続けていた。
「……はぁ……。大事になっちゃったわね。一体何時に帰れることやら」
ノエリスは不満そうにぼやいているけれど、私にはそんな余裕がなかった。このまま王女のブローチが見つからなかったら、どうなるのだろう。今日この場にいた全員を、徹底的に調べたりするのだろうか。
不安になり俯いていると、いつの間にか、クライヴ様が私のすぐそばまで来ていた。足元を見てそれに気付き、顔を上げる。
目が合ったクライヴ様は、私を安心させるよう優しく声をかけてくれた。
「大丈夫だ。きっとすぐに見つかる」
「……はい」
それから、しばらく経った後。
「見つかりましたーっ!」
一棟の校舎の方から、甲高い声が響いた。
皆が一斉にそちらに注目する。声の主は最初に王女のそばに侍っていた騎士科の男子生徒だった。
こちらに駆けてくる彼の手には、青い光を放つサファイアのブローチがたしかに握られている。皆から感嘆の声が漏れ、空気が一気に和らいだ。けれど、次の瞬間、別の不安が頭をもたげる。王女はずっと中庭にいたと、先ほど王女付きの護衛が王国騎士団の人に伝えていた。……一体どこにあったのだろう。
「王女殿下、こちらでお間違えないでしょうか」
「まあ……! これよ、間違いないわ……! 一体どこに……?」
王女が男子生徒に駆け寄り、安堵した表情でそれを受け取ると、私が思ったのと同じ疑問を口にする。
すると男子生徒は、胸を張って答えた。
「淑女科の教室です! ロザリンド・ハートリー伯爵令嬢の専用ロッカーの奥に置いてありました!」
(……え……?)
その言葉が響いた瞬間、周囲の空気が凍りついた。心臓が痛いほど大きく脈打つ。
全員の視線が、一気に私に集まった。
全身から血の気が引き、ぐらりとめまいがした。




