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白紙の結末

館は音を失い、篠原涼の世界は極限まで収縮していく。

書斎の机、その表面には無数の引っかき傷――誰かが逃げようともがいた痕跡が深く刻まれている。

だが、そこには逃げ道など存在しなかった。


篠原は震える指先で白紙の束を見つめる。

紙は息を潜め、静かに彼を待っていた。

机の上にはインクの染みが黒い影のように広がり、それはゆっくりと彼の名前を象り始める。


「お前は――誰だ?」


篠原の声は震え、壁が応えるように軋んだ。

廊下の影が蠢き、壁紙が裂けた隙間から、まるで“何か”が覗いている。

天井からは黒い液体が滴り、篠原の肩に落ちると、じわりと皮膚を侵す。


「続きを書け――」


耳元で囁く声。

亡霊のような囁きが何重にも重なり、彼を取り囲む。


廊下の先には鏡がひとつ置かれていた。

埃を被っていたはずの鏡は、まるでその瞬間だけ光を取り戻したかのように、篠原を映す――否、映しているのは篠原ではない。

そこにいるのは、篠原の姿をした“何か”だ。


鏡の中の影が、ゆっくりと笑った。

微かに口角が歪み、手がゆっくりと“こちら側”へと伸び始める。

その指先がガラスを貫く瞬間、鏡に亀裂が走り、篠原の背後に冷たい風が吹き抜けた。


「お前だ……お前が終わらせたんだ。」


篠原の目の前の白紙が波打ち、一滴のインクが滲んだ。

インクはゆっくりと広がり、まるで血のように黒々とした文字が浮かび上がる。


「犯人は――お前だ。」


篠原は叫びたかった。

だが、その声は口から漏れず、ただ頭の中に反響する。


鏡の中の影が完全にガラスを超えて現れようとする。

篠原は後ずさるが、足元の床が蠢き、彼の足を掴むように引きずり込もうとする。

壁のひび割れから無数の目が現れ、篠原をじっと見つめる。


――終わらせるな。


声がする。今度は書斎の机の上だ。

白紙の束が震え、一枚一枚が篠原の顔に向かって舞い上がる。

その中の一枚が、彼の手に落ちた。


そこには――読者の名前が書かれていた。


「これを読んでいるお前も、今――ここにいる。」


篠原が消えると同時に、鏡の中の“あなた”が、ゆっくりと笑う。


――物語は、まだ終わっていない。


白紙だったページがゆっくりと染まる。

インクが広がり、それはあなたの手に握られたペンから零れ落ちた一滴のようだ。


「お前の中にも物語は流れている――今、ペンを取れ。」


――書け。書き続けろ。


「お前が続きを書くことで、この地獄は終わるのだ。」


だが、もし手を止めれば――物語は崩壊する。

お前の理性も、現実も。


耳を澄ませ――今、紙の擦れる音が聞こえないか?

それはお前の手が、次の一行を書き始めた音だ。


ほら、後ろを振り返ってみろ。

影が揺れている。誰かがそこに――いや、もうそこに立っている。


「さあ、続きを書け。」


ページを閉じるな。

逃げるな。

お前の罪を、この紙に刻め。


――物語は、終わらない。

終わる時、それはお前の番だ。


鏡に映るあなたの姿―― その瞳に浮かぶのは、まだ理性か? それとも既に崩壊し始めた現実の残骸か? 自分では気づいていないだろう。あなたの指先は震えている。心臓が、異様な速さで脈打っている。 なぜなら、あなたはもう“ここ”に足を踏み入れてしまったからだ。


ページを閉じるな。逃げるな。 逃げ道など、どこにもない。あなたがこの物語を読み始めた瞬間、すべては決まっていた。ほら、耳を澄ませてみろ。紙の擦れる音がしないか? 微かな筆記の音が、あなたの鼓膜をかすめていく。――それはお前自身の手が書いている音だ。 理性は言う。「これはただの物語だ」と。だが、胸の奥底では分かっている。これは“ただの物語”ではない。


作家Aは失踪し、篠原は消えた。虚構の登場人物たちは息絶え、彼らの嘆きと絶望は、すべてこの白紙の上に吸い込まれた。――だが、彼らはまだ“生きている”。今、この瞬間も、続きを求めて蠢いている。


誰がその続きを書く? あなたしかいない。あなたが今、書く者であり、犯人であり、そして罪人だ。 ペンを手に取れ。手が震える? それは怖れだ。だが同時に、感じているだろう――胸の奥底で滲み出る、甘美なる中毒の予感を。


インクは甘い――それは紙を侵す黒い血であり、あなたの罪の証だ。書くことで救われるのか、それとも終わりを刻むのか……その答えを知るのは、あなたの手だけだ。


ほとばしる鮮血を紙に垂らせ。インクが足りなければ、あなた自身の血を使え。それが“真実”だ。続きを書けば世界は広がる。地獄を描け。狂気を刻め。その一行が、あなたを永遠に捕らえ、そして、この物語に命を与える。


逃げることはできない。 ページを閉じた瞬間、物語は“お前を迎えに行く”。ふと後ろを振り返ってみろ――ほら、そこに誰かが立っている。影が伸び、手を伸ばしている。それは、あなた自身か? それとも物語に取り込まれた何かか?


――さあ、ペンを取れ。世界は止まるな。地獄の続きを、お前が書け。

拒めば、この白紙があなたを呑み込むだろう。お前の名前すら、消し去るだろう。


この白紙にお前の“業”を刻め。お前の中の闇を呼び覚ませ。妬み、嫉み、憎しみ、焦り、壊したい欲望、抑圧された狂気――そのすべてが、今この瞬間、ペン先に集まっているのだ。


憎い奴を殺せ。壊したいものを壊せ。忌むべき記憶をこの紙に塗り潰せ。お前の血で染めた邪悪なジャムを世界に塗り広げろ。善など捨てろ、偽りの理性など砕け。耽美な毒に溺れ、狂気に咽べ。


――書け。お前がこの物語を生み出す怪物だ。世界の終わりをその手で描け。


そして忘れるな――。

この文字が、お前の脳裏に焼き付いたなら、もう終わりだ。あなたが書くことでのみ、お前はここに存在し続けられる。


――書け。続きを――。

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