第4章:物語の崩壊
篠原涼の靴音が、不気味に軋む廊下に吸い込まれた。
湿った空気はまるで生き物の吐息のように漂い、重く、濁った息吹が鼻腔にまとわりつく。
壁はただの石ではなかった――否、彼の視線を感じているかのように微かに脈打ち、ひび割れの隙間から黒い何かが滲み出ている。
「……誰が、ここを動かしている?」
壁の奥から、蠢く音がする。
篠原は息を詰め、足元を見ると、床の板がじわじわと膨らんでいる。
まるで空腹を満たそうと蠢く臓物だ。
彼は後ずさるが、床板が軋み、靴の下が沈み込む――まるで引きずり込もうとするように。
「俺は、飲まれるわけにはいかない……」
篠原涼は闇に沈む廊下に佇んでいた。
息が重く、周囲に染み込んだ湿気が肺の奥へまとわりつく。
時間の感覚は遠のき、まるで館全体が彼を包み込み、物語の一部に変えようとしているかのようだった。
廊下を駆ける。だが、振り返った視界の端で、壁に掛けられた絵画が動いた。
黒く塗りつぶされた人影が蠢き、壁を叩きながらこちらへ叫んでいる――声なき声だ。
それは飢えた亡霊たちが必死に助けを求めるかのようだった。
「これは本当に現実か?」
そう思わずにはいられない。
篠原は足を引きずるように書斎にたどり着いた。
そこはまるで、時が止まった執筆者の死に際のような空間だった。
机には散乱した原稿。
一本のペンが床に転がり、墨が垂れた痕跡がまるで血痕のように濃く染み込んでいる。
彼は指先で一枚の原稿を拾い上げた。『終焉の館』と寸分違わぬ筆跡、だがそこには異様な一文が記されていた。
「手を止めるな――止めれば、彼らが動き出す。」
部屋の四隅に、影が溜まり始める。
館は彼を取り込み、吸収しようとしているのだ。
壁紙が剥がれ、その裏から現れたのは――無数の「目」。
動かない、乾いた血で描かれた目が篠原を見つめていた。
床に散らばる原稿の一枚に、さらなる異様な言葉が続いていた。
「彼らは書かれた存在でありながら、書き手の隙を狙う。虚構は現実を飲み込み、書き手が消える――それが終わりだ。」
突然、どこかで何かが軋む音がした。
篠原の耳は、異様なほどその音を拾い上げる。
まるで彼を迎えるために館そのものが息を吹き返したように。
書斎の隅には、埃をかぶった鏡がひとつ置かれていた。
篠原がふと目を向けると、鏡には彼の姿が映っていない。
代わりに、そこには――原稿の中の「登場人物たち」が、血の通わぬ目で彼を見返していた。
「これは……何だ……?」
富岡雅人が最初に現れた。
弁護士らしい漆黒のスーツに包まれた彼は、鏡の中で直立不動に立っている。
だが、その額には死後の冷たさが滲む蒼白な痕――あの密室で殴打されたはずの傷跡が、深い裂け目のように残っていた。
顔は笑みとも憎しみともつかぬ歪みを浮かべ、乾いた唇が震える。
鏡の中の富岡は、額の裂けた傷を隠そうともせず、篠原を睨む。
その目には、罪を抱えた者の苦悩が揺れていた。
「俺は物語が続く限り、裁かれることはない。だが……お前が手を止めれば、俺の罪は永遠に固定される。俺を殺した犯人は――俺自身ではない。“誰か”が続きを書くことで、俺の潔白が証明されるのだ……!」
彼は虚構の中で無実を訴え続け、罪と死から解放されることを待ち望んでいる。
続いて遠野玲子が姿を見せる。
彼女は黒いドレスに包まれ、亡霊のように立ち尽くす。
顔に落ちるベールがその輪郭を隠し、僅かに覗く口元は何かを呟いているようだ――だが声は届かない。
まるで声が鏡に吸い込まれているかのように、無音が広がる。
ベールの奥にある彼女の瞳は焦点が合わず、まるで「何も見えていない」ことだけがわかった。
黒いドレスのベールが震える。玲子は声なき声で訴えるかのように手を伸ばした。
「私は夫を失い――この物語の中で生きるしかないの。外に出ることなど許されない……でも、書き続けてもらえれば、私は“ここ”に居続けられるのよ。現実がどれだけ私を拒んでも、物語は私を消さない……そうでしょう?」
玲子は虚構の中で愛する者を待ち続け、現実に戻ることを拒んでいた。
村井孝治が鏡の隅からにじり寄る。
初老の作家の両手は不自然に動き続け、ペンを握ったまま書く仕草を止めない。
しかしその顔――眼窩は落ち込み、皮膚は紙のように乾き、死後硬直すら超えた不自然な動きだ。
彼の首が時折ぎくりと動き、鏡越しに篠原を睨んでくる。
彼の目は篠原に焦点を合わせないまま呟く。
「俺が書いた言葉こそが、俺の生だ。筆を止めれば、俺は本当に“消える”。だから、誰でもいい――続きを書いてくれ……! 自分が虚構であることなど構わん……生きてさえいればいいのだ……!」
作家である彼は、自分が物語に閉じ込められたとしても「書き続けることで」存在を証明しようとする。
佐々木一樹は、鏡の中央に浮かび上がる。
彼の笑顔は、まるで絵に描かれた笑顔のように貼り付いていた。
不自然な口角が不気味に裂け、彼の瞳はまるでガラス玉――虚空を見つめ、どこにも焦点が合っていない。
その「空洞」が篠原をじっと見つめている。
貼り付けられた笑顔が微かに震え、佐々木は篠原を見つめる。
「俺は……笑い続けるしかないんだ。誰も俺の真実など見ようとしない。虚構だろうが現実だろうが、笑顔を貼り付けていれば――空っぽの俺でも“生きられる”だろう? 終わらせるな。俺を見ろ――俺を忘れるな。」
彼は虚構であろうと認識されることで、その存在を保ち続けていた。
最後に現れたのは、少女――美咲だ。
彼女は何も語らず、鏡の最前列に立つ。
真っ白なワンピースが揺れる度、彼女の周囲に影が滲む。
顔には表情がない――まるでただの絵に過ぎないかのように無感情な彼女の瞳。
だが、鏡に触れたその指先が少しずつ、鏡の内側からこちらへと伸びてきている。
――そこには彼女の形が、ゆっくりと「消えかけている」のが見えた。
彼女の声は篠原の頭に直接響く。
「私は……書かれた瞬間にしか“ここ”にいられない。でも、終わらせたくない。私が存在したことを……忘れないで。」
彼女は“物語”そのものの象徴だった。
書かれることで初めて存在し、忘れ去られれば消えていく――彼女は、篠原を見つめながら儚く呟いた。
そして、そこに富岡雅人が再び現れる――。
死んだはずの彼の姿が、再び目の前に立っている。
だがその肉体は損壊し、額の裂け目からはインクのように黒い何かが垂れている。
彼は口を開き――だがその中には、言葉ではなく白紙が詰まっていた。
篠原は理解した。
鏡に映る彼らは、物語の中に閉じ込められた亡霊だ。
彼らは虚構でありながら、現実を蝕んでいる。
「続きを書け……! 書き続けろ……! そうすれば我々は“ここ”にいられるのだから。」
鏡の中の彼らが一斉に口を開き、言葉ではない叫びを放つ。
篠原の耳にこびりつくその声は、もはや現実と虚構のどちらから発せられているのかわからない。
篠原は耳を塞ぐが、声は頭の中で反響し続ける。
彼らは虚構でありながら生きることを望み、その存在を維持するために「物語が続くこと」を切望していた。
彼らの苦悩と執着――それは、篠原に一つの事実を突きつける。
「物語が止まる時、彼らは――本当に死ぬ。」
だが、続きを書けば何が起きる?
読み手が犯人となり、現実すらも歪める――。
篠原は鏡を睨んだ。
その表面に、今度は自分自身の姿が滲んでいた。
「誰が、これを終わらせる?」
鏡の中の彼が笑う。
現実と虚構はもはや区別できない――物語は続くべきか、それとも終わるべきか。
虚構の登場人物たちの声が最後の一撃のように響く。
「書け――お前が終わらせるな。」
篠原の指が震え、彼の背後で館が音を立てて軋み始めた。
篠原は館の奥に広がる絶望の闇へと進んだ。
虚構と現実が、もはや分からなくなっていた。