物語の中の密室殺人
ページを開くと、物語の冷たい空気が篠原涼の首筋を這うようだった。
『終焉の館』はすでに単なる小説ではなかった。
読み進めるごとに、言葉が彼の視界から世界そのものを塗り替えるように広がり、重力さえ軋みを上げる。
館――物語に描かれるその場所は、不気味なまでに完璧だった。
古びた石造りの壁、灰色の天井には黒ずんだシャンデリアが不気味にぶら下がり、風もないのに揺れている。
館の廊下は異様に長く、まるで訪れる者の記憶を引き延ばす罠のようだ。
招待状を受け取って集まった6人の登場人物たち――それぞれに欠けた何かがある、いびつな存在。
彼らの描写は妙に生々しく、篠原の脳裏に直接、映像として浮かび上がる。
富岡雅人:弁護士。眉間に深い皺が刻まれ、常に何かを憎むような目をしている。
遠野玲子:未亡人。黒いドレスに沈む顔は影を帯び、どこか現実を拒絶している。
村井孝治:初老の作家。彼の筆はとっくに折れたはずなのに、手首だけが不自然に動く。
佐々木一樹:青年実業家。顔は笑顔に貼り付いているが、その裏には空虚が覗く。
美咲:少女のような女。誰も彼女が何者なのかを語らない。
木島徹:招待状を手渡した男。顔の輪郭がぼやけている――名前は存在し、だがその姿は誰も思い出せない。
彼らは「誰かが自分たちをここに集めた」と理解しているが、その意図は誰にもわからない。
唯一の手がかりは手元に届いた手紙――。
「物語を壊すのは誰か? 真相を語らぬ者に罰を与える。」
物語は突如として転調する。
館の中に漂う静寂が、突然ひとつの叫び声で引き裂かれる。
音の出どころは二階の小部屋――。
全員が息を呑んで駆けつけたとき、扉は内側から鍵がかかり、窓は塗り固められたように動かない。
そして――部屋の真ん中に、富岡雅人の死体が横たわっていた。
死体は妙に無機質だった。血の一滴も流れていない。
頭蓋骨の真ん中に微かな陥没があり、その口は何かを伝えようとしていたかのように半開きだ。
だが――それは、言葉の一歩手前で凍りついている。
篠原は本を握りしめ、何度も読み返す。
何かが――決定的におかしい。
「扉は閉じている。窓は動かない。犯人は――ここにはいない?」
その時、物語内の村井孝治――あの作家が、不意に視線を上げてこう呟く。
「誰だ……書いているのは……誰だ?」
篠原の背中に冷たい汗が流れる。
登場人物が、まるでこちらを見つめているように思えた。
違う。そんなはずはない。
だが――次のページにはさらに不可解な描写があった。
「ページの外を覗くな。覗けば――壊れる。」
篠原は首を振り、ページを閉じた。
だが、書かれた文字がまだ瞼の裏に焼き付いている。
「Aは何をしようとした? これは……」
現実がゆがむ音がした。
いや、それは単なる錯覚か。
彼はただ、物語に飲み込まれつつあるだけなのか――。
虚構が現実に滲み始めているのだ。
そしてこの物語は、まだ終わっていない。