未完の物語
深夜の書店は静まり返り、時間そのものが置き去りにされたかのようだった。
篠原涼は馴染みの書棚に立ち尽くし、指先で一冊の本を滑らせるように取り出す。
その装丁はシンプルかつ不吉な美しさをまとい、まるで中に何か危険なものを封じ込めているかのように、読む者を挑発していた。
『終焉の館』――新進気鋭のミステリー作家「A」の最新作だ。
表紙には黒い館が描かれ、窓の一つが異様に歪んでいる。
その窓の向こうから何かがこちらを覗いている錯覚すら覚える。
だが、それは錯覚だ。――多分。
「ようやく出たか」
篠原は独り言のように呟き、硬い表紙を開いた。
彼の目は文字を貪るように追いかける。
書評家として数えきれないほどの本に触れてきたが、「A」の作品には他の作家とは異質な、深い暗闇があった。
物語の中に浸ることで、現実の一歩外側に立たされるような感覚。
それは読者に「何が本当の現実か」を無自覚に疑わせる、恐ろしく巧みな筆致だ。
物語の舞台は古びた館。
外界から切り離されたその場所に集められた6人の招待客。
そしてある日、密室の中で一人の男が死体となって発見される。
だが、この物語の奇妙さはそこからだった。
読み進めるほどに、言葉は重たく、場面は霧がかかったように朧げになる。
閉ざされたドア、どこからともなく響く足音、そして一瞬だけ視界の端を横切る「何か」。
文字が像を結ぶ瞬間、篠原は息が止まるような感覚を覚えた。
「――犯人は……」
ページがぷつりと終わる。
言葉は途切れ、そこから先は真っ白な余白が続く。
「なんだ……これは……?」
篠原の手が震えた。
間違いだ。
印刷のミスに違いない。
何度も何度もページをめくる。
だがそれは無駄だった。
物語は終わりを拒絶したかのように、途中で放棄されている。
「そのとき、誰もが気づかなければならなかった。
犯人は――」
その先は、ない。
篠原は苛立ちを覚え、周囲を見渡した。
だが書店は相変わらず静まり返り、店内には彼以外の人間はいない。
まるでここだけが「物語の中」に取り残されたようだ。
数時間後、篠原は自宅に戻り、乱雑に積まれた本の上に『終焉の館』を放り投げた。そして無意識のうちに、その表紙を再び見つめる。
窓――そこに描かれた歪な窓枠が、今度は少し違って見えた。
先ほどよりも、わずかに形が変わっている。
ありえないことだ。だが確かに、そこには違和感があった。
「Aの冗談……なのか?」
彼は唾を飲み込み、PCを立ち上げる。情報を集めるためだ。
しかし、その夜、ネットニュースに上がったのは『Aの失踪』の速報だった。
作家本人が、出版の直後に突如として姿を消したという。
――まるで、物語ごと消えたように。
篠原は寝つけず、手元の本を開き直す。
だが今度は、そこに恐ろしい一節が浮かんで見えた気がした。
「物語を終わらせた者が罪を負う。
書き手か、読み手か、それとも――」
――どこに書かれていた? こんな言葉が?
彼は何度も目を擦る。
だが次の瞬間、ページはただの白紙に戻っていた。
篠原涼はその夜、はっきりと悟ったのだ。
『終焉の館』は単なる小説ではない。
――これは何かの始まりだ。