七話
アルテミア事件のあった週末、授業のために用意するお茶菓子の参考にするからと適当な理由をつけて、私は母から高級なパティスリーについて教わっていた。
真っ先に名のあがったアルテミアとそのお値段におののきつつも、何とか王都の高級店の有名どころの名前は把握することができた。
私がルーカス様との交換条件としてお菓子を認めたのはあくまで『お菓子ぐらいなら』と思えたからだ。あんな高級品では釣り合いが取れなさすぎる。
今度またあんな高級品を出されたら、釣り合わないことを説明してしっかりお断りをしよう。そう心に決め、次の第二の曜日を待った。
第二の曜日、作業が一段落したところでルーカス様から休憩にしようか、と声を掛けられた。
今日は一体何が出てくるのか、またすごく高いお菓子が出てきたらどうしようと、ある意味ルーカス様との作業の初日より緊張しながら、私はお菓子が出されるのを待った。
「ここのプチフィナンシェは私も好きなんですよ」
そんな言葉と共に出されたのは、私もたまに買い物をする黒猫亭のお菓子だった。確かに黒猫亭は焼き菓子の美味しいお店だけど、値段はごく普通のお店だ。見慣れたお菓子に私はこっそりとホッとため息をついた。
その安堵が言いにくいことを言わずに済んだことにより出たものなのか、この関係をこのまま続けられることに対して出たものなのか、このときの私は無自覚でその理由については全く気付いていなかった。
その後しばらくはお菓子が出される度にちょっと緊張していたけど、二回目のお手伝い以外のときは私でも手の届くようなお菓子を用意してくれていた。お陰で私も気負いすぎることなく作業ができるようになっていった。
ルーカス様のお手伝いにも慣れてくると、少しずつ彼のことを見る余裕も出来てきた。最初は少し取っ付きにくく感じた彼の表情も、しばらく一緒にいるとあれは不機嫌ではなくただ集中しているときの表情なのだと分かった。
あとはルーカス様はとても努力家であることも側にいるとよく感じられた。びっしり書き込まれたノート、たくさん貼り付けられたメモ、使い込まれた万年筆。彼の持ち物はどれもそのことを感じさせるものばかりだった。
課題に真摯に取り組むルーカス様を見て、私はいつからか埋め合わせのためではなく、純粋に彼の力になるために手伝いがしたい、そんな気持ちになっていった。
そんな中、ルーカス様とのお手伝いも10回目ぐらいになったかというある日、休憩中に私はルーカス様からあるお誘いを受けた。
「実地調査……ですか?」
「ソフィア嬢の力添えもあって情報はかなりまとまってきているんだ。だから実際に街中に出て色々確認をしたいと思っているんだ。この週末、予定が空いていたら手伝ってもらえないだろうか?」
思わぬ申し出に心臓がドクリと嫌な音を立てた。ルーカス様のお手伝いが嫌な訳では決してない。私だって情報だけでなく、実際の街中の様子も一緒に見たいと思っている。
けど、「行きます」と答えられる勇気が自分の中で湧いてこなかった。
私といることでルーカス様にご迷惑がかからないかが気になってしまって、まるで押さえつけられてしまったかのように喉から声が出なくなってしまった。
俯き、黙り込んだ私にルーカス様はそっと言葉を続けた。
「昔流れた君に関する噂のことは私も知っている。君がそのことで私を気づかってくれていることにも気付いているつもりだ。
けど、それでも君と一緒に街に出たいと思っているんだ。この一ヶ月ほど一緒にいて、君という人を見て、私はそう思っているんだ。噂より君を選びたい。
私も貴族だ。噂にさらされるなんて慣れている。それにもし何か言われたてしても、君と同じように下らない噂の前でも毅然と立つつもりだ。だから、週末のこと考えてはもらえないだろうか?」
「困ったな、泣かせるつもりはなかったんだが」という言葉と共に差し出されたハンカチを見たときに、私は自分の視界が滲んでいることに初めて気がついた。
自分にはずっと根も葉もない噂なんて気にするなと言い聞かせてきた。両親や私の側に残ってくれた数少ない友人は私を気づかい、噂のことを意識させないように振る舞ってくれていた。
心の底でずっと噂のことを意識してた癖に、これはもう仕方のないことなのだと見ない振りをし続けてきた。だから噂のことを知りながら、そのことを避けず、こうして真正面から私と向き合ってもらえたのは初めてかもしれなかった。
そう思った瞬間に、耐え続けていた涙が瞬きと共にポロリと流れた。
それは喜びだったかもしれないし、救いのように感じたのかもしれなかった。胸の中では複雑な感情が渦巻いていた。
しかしそれがどんな気持ちなのかということ考えるより先に、本格的に泣き出してしまった私を見て、目の前でハンカチを持ったまま狼狽えているルーカス様を何とかしなければと思ってしまった。
悲しくて泣いているのではないときちんと伝えたかったのに、ポロポロと泣く私がつっかえながら言えたのは「私も行きたいです」の一言だけだった。
あんなに難しいと思っていた言葉が、自然と口から零れていた。