第1話 ヒロインは天使系。
「自分」とは何か考えたことはあるかい?
明るい?暗い?優しい?いじわる?
それは本当に君が決めたことか?
その“根拠”は何だ。
君は「それ」すら、分からない。
いや、理解しようとせずに生きてきたのか。……。
その程度の疑問すら考えることのできない「君たち」に私から、ささやかなプレゼントだ。
せいぜい楽しんでくれたまえ。
そしてせめて————。
はっと目が覚めて、瞬間的に体を起こす。鼓動が早い。呼吸も荒い。
どうやら悪夢を見ていたらしい。早まる鼓動は鳴りやまないのに、何を見ていたのかさっぱり思い出せない。だが、それが身に覚えのない空間であったことは間違いない。
波打つ脈を抑えようと深呼吸を2回する。そしてゆっくりと辺りを見渡した。
見慣れた白い天井。見慣れた部屋に見慣れた時計。
良かった、何も異常はない。
やっと体も平穏を理解できたのか鼓動は落ち着いてきた。
そして時計の針は——午前8時30分。
数秒時計を見つめ、ふわぁっとあくびをしながら、腕を伸ばし、再度時計を見つめる。
やっと理解できた。遅刻だ。
「……やばい」
慌ててベッドから飛び起きて洗面所へとダッシュする。
大川心都は普段、寝坊するような性格ではない。毎朝しっかりと6時にアラームをセットしているし、目覚ましが鳴る直前に起きるほど体内時計が正確だ。しかし今日は、目覚ましが鳴らないどころか自分で目覚めることさえできなかった。なぜだと自問自答したくなるが、そうは言っていられない。まずは着替えよう。
相当悪い夢を見ていたようで、寝間着が肌に張り付くほど汗でびっしょりとなっていた。いったい何を見ていたのか、それが全く思い出せないのだ。だが、とにかく今はこの不快感から一刻も早く解放されたい。寝間着を脱ぎ、そのまま洗面台の隣にある洗濯機へそのまま放り入れる。
時間はないが、シャワーは浴びよう。
そう考え、風呂場へと駆け込む。
軽く汗を流してすぐに風呂場を出た。本当は髪も洗いたかったが、肩にかかるほど伸ばした髪を乾かす時間を考えたらそこまでの余裕などなかった。
歯を磨き、髪を結えながら、時間が惜しいと制服に手を伸ばす。
心都の通う国立九城大学には、大学としては珍しい指定制服がある。白シャツを着て、首元部分に付けられた、紺と水色のネクタイを結びながら、こういう時は面倒なんだよなぁ、と心の中でぼやく。そして、ジャケットとソフトタイトスカートを身にまとえば支度は完了だ。
「朝ごはんは……、今日はいいや!」
いつもならピカピカ炊き立ての白米をほおばりたいところだが、今日のところは我慢して玄関へと向かう。
ここまでの所要時間は15分。幸いにも学校は目と鼻の先なので十分に間に合う時間だ。
そんな計算をしながら、いそいそと靴を履きかけていると思いだしたことがあった。
「おっと、忘れ物……」
家の外へ向きかけた足を、居間へと戻す。
居間に置かれた仏壇の前に正座をし、鈴台をチーンと鳴らして、手を合わせて心を落ち着かせる。
「お父さん、お母さん、行ってきます」
両親への挨拶を済ませ、心都は家をあとにした。
4月4日、午前8時45分。
今日は九城大学の入学式だ。正門に続く通りには数多くの生徒たちが学校へと向かう姿が見られる。
多くの学生が学校への移動中に仲良くなる中、単身黙々と歩いている眼鏡の男——若松凪音もまた、入学生の一人である。
凪音は焦っていた。
通学の時点でわかる。陽キャしかいない。
凪音は明るい性格ではない。かといって別段コミュニケーションが苦手というわけでもない。
しかし、ウェイウェイ騒ぐ奴らとはどうもウマが合わない。
なんというか……、圧を感じるのだ。
(ここはなるべく下を向いてひっそりと大学を目指そう……。平穏、万歳)
などと考えていると、右前方から何かが激突してきた。
凪音は慌てて踏ん張ろうとしたが、ちょうど下を見たタイミング、かつ突然の出来事に脊髄すら反応できなかった。
「うわっ!?」
と叫んだ時には、凪音はすでに眼鏡を飛ばされ、しりもちをついていた。
あぁ……。僕の平穏、さようなら。
泣きそうになるのをぐっとこらえて、早速平穏を奪ってくれた人物に一言文句を言ってやろうとぼやけた目を擦り、見据えると。
「大丈夫ですか!?お怪我は!?」
そこには天使がいた。
栗色の髪、透き通った黒の瞳。薄いピンクの唇。
眼鏡が無くても分かる。かわいい。
あと、ちょっといい匂いもする。
お帰り。僕の幸せな学校生活。
「……。あの、本当に大丈夫ですか?」
しまった。見とれすぎてつい返答を忘れていた。
「あぁ、すみません。大丈夫でしッ……」
噛んだ。噛んでしまった。絶対変な奴だと思われた。だって陰キャだし。顔もよくないし。
などと卑屈なループ思考をしていると天使(仮)はふふっと笑い手を差し伸べる。
「大丈夫そうなら良かった。立ち上がれますか?」
さすがに初対面の女の子の手を握るわけにはいかない。いやぁ、とかぶりを振り、立ち上がる。
「ぶつかってごめんなさい!寝坊しちゃって急いでたの。私、大川心都。心の都って書いてミヤコ。指定制服を着ているということはあなたも新入生?」
外見だけじゃなくて声もかわいい。
正直付き合いたい、という下心を捨て、こちらも自己紹介をする。
「僕の名前は、若松凪音です。凪の音って書いてナオトです。九城大学新1年生です」
つい敬語になってしまったが、今度は噛まずに言えた。頭の中で面接かよ!と突っ込みをいれたくなるが、とりあえずよくやったと自分をほめよう。
「敬語じゃなくていいよ!でも、君が優しそうな人で良かったぁ。怖い人にぶつかったら危なかったよー」
ぶつかってくれてありがとうございます!と叫びたくなるが、それは完全に不審者なのでやめておこう。
しかし、何か忘れている気がする。何だろうと思いだそうとすると、心都が言いにくいことがありそうな表情で話し始めた。
「それでね、君の眼鏡なんだけど……」
そう言いながら差し出した彼女の手の中にあったものは、レンズの割れた凪音の眼鏡だった。
「あちゃー。こりゃダメだ。でも、大丈夫だよ。ちょうど買い替える口実ができたし」
入学早々、眼鏡を割ってしまって幸先が不安になるが、そのメガネは3年前に買ったもので、元々入学式が終わって落ち着いたら買い替えようとしていたのだ。だから特に気にしなかった。
しかし、彼女は気になるようで。
「いや!弁償するよ。私が当たったのが悪いんだもの」
というと、カバンからスケッチブックを取り出した。
「その気持ちは嬉しいけど、眼鏡って意外と高いんだよ。気持ちだけもらっておくよ。……って、何してるの?」
凪音が説得しようとするのも聞かぬまま、心都はスケッチブックに何かを描きだした。
ささっと描いてこちらに見せたものは、眼鏡の絵だった。
そして、心都は半ば興奮気味に凪音へと迫る。
「この絵に手を触れて、心の中で
『今壊れている眼鏡を、着けていた日々』
を強くイメージして」
言っている意味が分からなかった。絵に触れたから何だと言うのだ。さすがに天使の言葉でも疑わしい気持ちになる。
「はぁ……?何を言って……」
「いいから!分かんなくてもやって!」
勢いに負けてしまった。
あれ、僕って被害者だよね。と心の中で呟きながら言われたとおりにする。
絵に触れて眼鏡をイメージ。
その眼鏡は、凪音が高校の時に親が買ってくれたものだ。決して高いものでもなかったが、親に買ってもらったものだからと大切に扱ってきた。メンテナンスだって毎日欠かしたことはないし、だんだん愛着も沸いて店員さんにコンタクトをおすすめされた時もお断りしたほどだ。
凪音の心に、眼鏡が4次元的に形成された瞬間、手の内がほのかにあたたかくなった。
「凪音君、お疲れ様。成功だよ!」
心都に呼ばれ目を開けると、そこには新品同様の眼鏡があった。
そしてそれは、確かに凪音が先ほどまで着用していた『壊れたはずの眼鏡』だった。