90 悲劇
空から落ちてくる黒い雨に私が触れることはない。
私には『防御魔法』が施されているからだ。
両手両足細部に渡る、指の爪先まで、満遍なく魔力は通っている。
普通の人だったら、すぐに魔力切れを起こしてしまうであろう魔法展開もライムの無限大な魔力がそれを可能にしていた。
ライムは空を駆ける。
徐々に高度を下げて地上を目指す。
空中を闊歩していても、薄いベールのように全身に張り巡らされたそれは私を包み込み、雨粒たちを弾き、一粒も触れることを許さない。
ーーもしこの雨粒たちが身体に触れたらどうなる?
ミザリの街の人々を思い浮かべながら、痛む頭の端っこで考える。
考えている間にも豪雨は魔法のベールを叩きつけるように打ちつけては流れていく。
土砂降りで周りの音も何もかもが消されている。
強烈な黒い雨は街中を包み込んでいた。
(学園区での入学試験の最中に、森林で降った雨も黒い雨だったわ……)
黒い雨を受けた人がどうなったか、もちろん私は覚えている。
惨状を見た私はたくさんの魔法を使って、出来る限りのことをしたけれど……救えなかった人もいた。
もっと早く駆けつけられていたらと思うと、苦い後悔と罪悪感が私を襲う。
今、それと近い感情が波のように待ち構えている。
視界には徐々に黒い点がはっきりと見えてくる。
背けたくなる気持ちが僅かに芽生える。
するとズキッと心のどこかが痛んだ。
(いいえ……私は知らなきゃいけない!)
目の前を、見るんだ……目の前を見ろ!
ライムはボロボロになった精神でも自身を奮い立たせる。
気付がないふりをしないで!
今起こっていることに、目を背けるんじゃない!
目をギュッと瞑り、首を振って雑念を払い落とし目の前の惨状を直視する。
(無数に倒れたーーこれは人……?)
地面へそっと降り立つと、ビシャッと液体が弾ける音がした。
『ひっ……』
視線を移すとそこにはドロドロに溶けた四肢。
ヘドロのような液体に赤い血が混じり、肉片さえも形を成さず、ただただ地面へゆっくりと流動している。
さらに、空からの黒い雨粒が形のない肉体へ爆音と共に無慈悲に、容赦なく、その者を抉りとる。
それがいくつもーーいくつも、見渡せば数百はあるだろうか。
ミザリの繁華街ということも相待って、その数は莫大だ。
ライムは小さな頭を抱えた。
(前回の比じゃない。こんな悲劇が学園の外で幾度も繰り返されていたなんて……)
アレス先生の話だと、隔離された学園以外の土地では頻繁に黒い雨が目撃されていたのだという。
それが必ずしも人の住む場所だったのかはわからないけれど、確実に被害は出ているであろう。
(これが世界の崩壊だと言うの……?)
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不明。
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何人が犠牲になった?
どれだけの人の命が、この黒い雨に奪われた?
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世界の知識を再生できません。
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頭がクラクラする。
じわじわと身体中の血液という血液が引いていった。
サァーっと絞り取られるような感覚。
目の前が真っ白になるような感覚。
現実を受け止めろ……。
立ち直るための思考を始めた時、またあの声がした。
『全部、全部全部全部……。お前のせいさ』
『いやっ!!』
一瞬意識が遠ぬく。
今、一番言われたくない言葉だった。
その言葉は私の心を抉る。
罪悪感の奥の方、深層心理には、もしかしたら私のせいかもしれないという思いが消えない。
(誰……)
(これ以上……やめて……)
『お前が、堕落を求めるからだ。だから、人々は犠牲になる。この世界もーー』
『嘘……』
『お前だけ……普通に生きられると思うなよ』
夢で見た誰かの声だ……。
意識が混濁する中、突然後ろからピチャリという足音が聞こえた。
ピチャリ、ピチャリ、ピチャリとその人は一定のリズムでゆっくりと近づいてくる。
『はぁ、はぁ……だ、誰?』
「…………」
『ラクリマなの?!どれだけ私が苦しめば満足するの?!』
「…………っ!」
『でも私は、諦めないわよ!例え、全部が私のせいだとしても、ボロボロになっても……!私は私の力がある限り、必ずこの世界をーー!!』
「……もう十分です」
はっと見上げるとその人は大きな黒い傘をさしていた。
影から覗かせるのは白髪の髪。金色の瞳。
彼はそっと、傘を私に傾けた。
「……あなたのせいじゃない。ただ事態の原因が見えないだけ。世界が崩れる?とやらも、理由も原因も明確でないだけ。だから、あなたが気に病むことではないのですよ。あるとすれば、悪意。その悪意があなたを巻き込んでいる」
『あ……』
「フヒヒ……待ち合わせの夕刻時はずいぶんと過ぎてしまいましたね」
ずいっと顔と身体を近づけて、一緒の傘に入れてくれたのはーーアレスさんだった。
「見つけましたよ。ミザリの研究所の最深部へ行く方法を」




