88 ドーマ
『『あはハはハはは!!』』
黒い人影ははち切れそうな程大きく口を開けて、金切り声で嗤う。
耳に響くその声をライムは何度も聞いてきた。
耳を塞ぎたくなるような嫌な声だ。
黒い人影は少年の周りで蠢いているが、こちらへ襲ってくる様子はない。
少年はピチャピチャと足元の血飛沫を踏みつけながら、ライムの元へ歩き近づく。
ドロっとした血液。
辺りには血溜まり。
ミサだったもの。
そのえぐられた胸からは未だ赤い液が広がっている。
ライムは辺りを見渡したことを後悔した。
堪えきれない。
こみ上げてくる液体を我慢できない。
自分の口に手を当てるが、それを止められるはずもなく激しく嘔吐する。
跪き、身体を両足と片腕で支え、顔だけは必死になって歪な少年の方に向けた。
口元から伝う生暖かい液体が気持ち悪い。
ぐいっと手で拭う。
ーー早く、落ち着け。
口を塞がれていては、魔法を唱えられないから。
『ずっとこの機会を伺っていたーー。君は存在希釈をしていてなかなか出会えなかったからね。でもやっと会えた。これで、やっと、ーー殺せるね』
今まで襲われたり、追われたりしたことはたくさんあった。
けれどここまで明確な殺意を向けられたのは初めてだった。
そこまでの目的。
彼が、私に固執する理由。
頭の中で強く問うと、魔力回路が組み合わさる。カチリという音。
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少年アーノルド・ジョセフ、否、ラクリマは魔術書の確保を目的としている可能性が高いです。
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『なんでそこまでーー』
『僕はもともと一つだった。だから、集めている。それだけさ。だから君を殺して、魔術書の力を手にしたい』
血で塗られた右手を優しくライムの頬に添えると、白い肌が赤く染まった。
ゆっくりと頬を撫でながら、
『僕はね、こいつの父親の権限を使って、君の情報をミザリの科学者に売ることにした……。君は強いからね。僕なんかの魔法じゃ太刀打ちできないのはわかってる。だから、消耗させる!君の魔力も体力も精神も……!!全部削ぎ落として、殺してあげるからねーー』
(何をーー?)
一息で言い終えると、ニコリと笑った。
『あぁやっと揃う……もうちょっとの辛抱さ』
歪な少年はライムに向けた手を戻し、自分の胸を優しく撫でたかと思えば、自分の口に突っ込んだ。
ドバドバと唾液が溢れ出てる。
……異様としか言いようがない。
姿からは想像ができないような殺人行為と言動から、もうこの少年は人間ではないのだと思い知らされる。
ーー彼はラクリマ。
『創生の魔術書』の一冊であるラクリマの伝記と関連があるのかもしれない。
ただその詳細は不明だ。
わかるのは一つになりたいという欲求だけ。
その欲求のためにアーノルド・ミサは殺された。
また何か被害が出る前に私はこいつをーー。
魔法を唱え、彼の動きを封じようかと思ったその時。
ドアの向こうの廊下から人の声が聞こえた。
「「この辺りに銀髪、紅目の少女がいるはずだ!少女を殺せばこの雨も止む!!必ず捕まえて殺せ!!」」
『……!!』
(私を探しているーー?!)
ライムはバタバタと騒がしくなってきた廊下を見て、少年に振り返ると、
『あなた、何をーー?!』
『なんでもないさ。言っただろう?父親の権限を使ったって。黒い雨を君のせいにしておいたよ?彼等はちなまこになって君を探すだろうね』
『なぜーー』
『君に人は殺せないだろう?』
『………っ』
『だから、君を科学者と黒い人影に追わせることにしたのさ。ほら、もうやってくるよ』
再びパチンと指を鳴らすと、少年の周りに鎮座していた《ドーマ》が一斉にライムの方へ襲ってきた!
『完全防御!』
『束縛魔法!』
すぐに動きを封じるために魔法をかけるが、ごっそりと魔力が持っていかれるような感覚に陥った。
『?!』
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黒き魔法に対抗するため、黒き魔法で対応しています。
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(連発はできないーー!)
黒き魔法は何度も使えない。
使うたびに、身体が黒く灰になっていくのだ。
これも、力の代償。
絶望の効果。
ライムがくすぶっているうちに、ラクリマはタンっと軽やかに跳ねて窓の淵に立つ。
視線を移動してから初めて気付いた。
ああ。
彼の後ろ。
窓から見える景色はーー。
真っ黒だ。
ーー雨が降っていた。
彼とやりとりをしていて気付かなかった。
ーー黒い雨が街全体を覆い尽くす。
豪雨。
激しく雨が地面を街を打ち付ける音が遅れてやってくる。
黒い風景をバックにラクリマはニヤリと嗤う。
ライムを嘲笑うように。
救いなど初めからないかのように。
『つまり……君は《ドーマ》と科学者と……そして黒い雨から逃げなきゃってことだ。まぁどうでもいいから、早く、死んでよね?』
と彼は這いつくばったライムを残して、一瞬にして暗闇に消えていった。




