119 欲望
威厳のある顔つきはどこへ行ったのだろうと思ってしまうくらい、彼の顔は酷いものだった。
赤く腫れた目。
影を落とす隈。
眉間によった皺。
それほどに娘のピアノを想っているのだ。
しかし、そんな彼のギャップにライムは一瞬だけ眩暈を感じた。
(いけない……)
ぐらついた理由はわかる。けれど、今ではない。今はいけない。
「結界を何重にも重ねていて悪かった……。あまり……人には見られたくないものだった」
「ごめんなさい……」
「謝らなくて良い。ところで君ははじめましてのようだが?」
ピアノの側で悲しんでいた場面を1番に見てしまったレイラが、バツの悪そうに顔をうずめている。
大人が泣いている姿を子どもに見せたくないという気持ちは、レイラにもなんとなくわかるのだろう。
ルドルフはレイラをじっと見つめてからさらに、ちらりと鋭い目をライムに向ける。
その見透かされそうな……意味ありげな視線にドキリとする。
(どうか……バレてませんようにーー)
自身の気持ちが認知されませんように……そう願いながら彼女の紹介をする。
『レイラです。今さっき別の世界から戻ってきたばかりで……私の大事な友人なのです』
「そうか。ライムよ、君がこの子を助け連れてきたのだな。無事で……何よりだ」
言葉には含みがあった。おそらくどこかの未来で私が死に、誰も助けられずに世界が崩壊する予測もあったのだろう。
そして戻って来たという事実からか、ルドルフは安堵の息をもらした。
『君がいなければ、ピアノの命は救えないとわかっている。君の体を大事にしてくれたまえ』
労いの言葉にまたドキリと胸が高鳴ってしまう。
ルドルフはつい最近まで『未来予知』のアビリティを所持していた。
国王にしか得られない特殊なアビリティ。
未来を見ることができる唯一無二の魔法だ。
誰かに知られるとその効力は失われるため、私たちが知ってしまった時点でもう知ることはできないのだが。
それよりもーー
(さっきよりも眩暈が)
ライムは一瞬だけくらりと足をよろけてしまい、それを見たレイラが心配そうにこちらを覗いている。
『国王陛下、そうであれば一つお願いがあるのですが』
一歩出たのはシオンだ。彼はライムと一切目を合わせず国王ルドルフだけを見つめる。
「どうかしたか?今から彼女を助けるのに何か問題があるのか……?」
不安そうに目頭を押さえてから薄目を開け、隣のベッドで横になっているピアノの頬を撫でる。
実の娘は目を開く様子すらない。
私たちが魔法陣を解除しなければ永遠に眠ったまま、もしくは眠りが解けて早過ぎる寿命を迎えてしまうピアノ。
『一刻も早くピアノを……いえ、ピアノ様を助けたいお気持ちは十分にわかっているつもりです。俺たちもそのつもりです。ですが……』
「なんだ、申してみよ」
シオンは一息に思っていることを口にした。
『ライムたちを少しばかり休ませて欲しいのです。ライムは……今さっきまでとんでもなく苦労をしてきているようです。どうか、休息を』
「ああそうだったな、悪かった。時間が惜しいが、確実に成功してもらいたい。疲れただろう。しばらくの間休息をとってくれ」
ルドルフは「王宮内は自由に使ってくれて構わない。必要であれば執事に食事も運ばせる」そう言うと、近くの椅子に腰掛け再びピアノを姿をじっと見つめる。
(あぁ、ああ……やっぱりシオンはわかっている)
それに気づいた瞬間、ライムは恥ずかしさのあまり顔を上げることすらできなくなった。
シオンは知っている。
私の気持ちを。
シオンの固有アビリティ『心中暴露』で私の声が心の声が……漏れてしまっているのだ。
絶対付与によりどうすることもできないこの感情をーー。
『シオン……』
苦し紛れに両手をぐっと握り、唇を噛み締めながら、まだ僅かに残っている理性をかき集める。
『心配するな。俺たちは絶望を分かち合ったんだろ?今更どうってことないし……だから遠慮しないで早く休んでこいよな』
『ありがと……。レイラちゃんもごめんね。お姉ちゃん、ちょっと1人になりたくて……』
「うん、わかった!」
『レイラちゃんも、ゆっくり休むんだぞ』
「あい!」
2人のやりとりをうっすらと聞き、シオンの優しさに感謝しながら、ライムは急いで空いている部屋に駆け込んだ。
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巡ってくるのはーー性欲。
『創生の魔術書』を読了した結果、得たのは膨大な知識と情報、そして絶望だ。
この絶望こそが『性欲』。
4冊目の絶望はもともと『食欲・睡眠欲・性欲以外の欲求の欠如、及びこれら三大欲求が誇張する絶望』だったが、シオンとジュエルが貰い受けてくれたのだ。
シオンには『食欲』を。
ジュエルには『睡眠欲』を。
そして、ライムには『性欲』だ。
他にも幾つか絶望を得ているライムにとって、絶望が減るのは本当に有難いことだった。
分け合ったおかげが、その他の感情も問題なく働いている。
しかしーーだからといって、その絶望が容易いものであるはずが、ない。
ほとばしる熱。
速くなる鼓動。
熱い身体……。
『きえてきえてきえてきえてーー』
定期的に巡ってくるこの感情は、どうやら本人の感情とは無関係に襲ってくるらしい。
(国王様が泣いていたからーー)
おそらく、思いもよらない出来事に気持ちが驚いてしまった。それが発端だろう。
胸を掻きむしり、熱くなる身体に、溶けてしまいそうな脳みそに、ライムは耐えることしかできない。




