102 目覚め
深海に落ちていくように深く深く意識が沈んでいく。
何も思考せず何も受容せず何も行動しない。
ただ眠りにつくことがどんなに楽で、どんなに素晴らしいことなのだろうか。
確かな満足を感じながら、ライムはわずかに微笑むだった。
その笑みが苦しみに覆われているのにも気付かずにーー。
歪みゆく意識が脳内の奥まで辿り着いた時、古い記憶がノイズのように煩く頭に流れてきた。
「おい感情度は揃ったのか?」
(ああ……ここはもしかして、研究室での記憶の夢ーー)
すぐにこれが記憶の中だとわかった。
昔自分が経験したこと……つまり身に覚えがあったからだ。
若い研究者が私のステータスを見たらしく悲鳴を上げる。
「まだか?なんだ、絶望しかないじゃないか!」
「……これは失敗だな」
『感情度』という物差しがあって、それは神様になる上で必要なもので、しかしそれは私の中には存在しないものだった。
世界は『神様』を求めていたのだ。
いくら経っても現れない神を作るために、ミザリは『黒き魔法』を使える私を連れてきた。
しかし、神の器を持つはずだった私には圧倒的に足りないものがあった。
感情だ。
神になるためには感情が必要なのだ。
人を慈しみ、嘆き、憂い、導き、全てを包み込むには人と同じものが必要なのだ。
幼少の頃から『黒き魔法』による苦痛に耐えてきた私の中には、絶望と、ダンからもらった優しさによるほんの少しばかりの幸福しかなかったのだ。
(…………)
ーーだから、私はただの実験台となった。
「次の候補を探そう」
崇められるはずのその身は、焼かれ、切り裂かれ、抉られ、薬を飲まされて、あらゆる数値を叩き出され、研究者によって苦痛という言葉では足りない程のさらなる絶望を与えられた。
先程の夢で見た研究者の言葉は本当のことなのだろう。
ダンと呼ばれる人物。ライムと同じ、紅色の瞳の人だ。
彼が私を捨てたのだと思っていたが、どうやら思い違いらしい。
彼は私が実験台になると知って、『存在希釈』を施した環境を用意し、化学者から逃げられる道を作ってくれていた。
『そっか、私は自分からその環境を出たのね……』
ぐーたらできる最高の環境から自ら外へ出た。外へ出たら、今の私みたいに研究者に追われてたくさんの絶望を抱えて生きていかなければならない。
ーー記憶を失っていたとはいえ歯痒い思いはある。
(でもなんでだろう……)
後悔を感じない。
ぐーたらを一番に考える私にとって、その気持ちは可笑しいはずなのに。
ーーそうやってノイズに振り回されるように記憶を振り返っていると、またあの音がした。
どんどんどんどん。
音は鳴り止まない。
気付くとあの心地よいベッドの上から離れ、いつの間にか白い廊下に立っていた。
左手にある深海を映す窓は、相変わらず気持ちが悪い。
なのに、窓の外からは何者かがさらに力強く叩いている。
(これでは、窓が割れてしまうわ)
焦燥を感じ、そう思ったかどうかの瞬間ーー。
パリンと大きな音を立てて窓が弾けた!
弾けた窓の破片がそこら中に広がり、同時に外から黒い液体がドバッと流れ込む。
黒い液体はぐねぐねと押し寄せるようにやってきて、何もできない私を飲み込む。
いやーーもう飲み込まれていなのかもしれない。
(溺れるーー!)
なんでもいいから周りの状況を把握しようと目を開く。
掴めるものがないかと細い手を伸ばす。
魔法が使えないと気付くまで、3回も瞬きをした。
部屋の中から見えたゆらゆらはライムを掴み、黒い渦へ引き込もうとするーー。
『ごはっ……誰か、た、す、け、て……!』
もうだめかと思った時、手に優しい温もりを感じた。
そしていきなり上空へ投げ出されるみたいに強引に引っ張り出されたのだ。
ーー何が起こったのか分からなかった。
意識が浮上し、ようやくこれが現実だと認識してから目を開けるまで、恐ろしいくらいに勇気が必要だった。
薄く開けた目をさらに少しずつ広げていくと、豪華な天井が見えた。
大量の汗をかいていたようで、額に髪がへばりついている。
バクバクと心臓の音が跳ね、息が荒くなったのを静かに慎重に整える。
そうやって現実を受け入れるまで、どれくらいかかっただろう。
(夢から、戻ってきた……?)
長い夢を見ていたような気分だ。
ふと近くに感じる気配。
息が整うまで無視していたが、そうは言っていられない。
硬直する身体に鞭を打ち、起き上がろうと力を入れるとーー、
『ライムの荷物、半分もらったぜ』




