101 音
ふわりと温かい風が頬を撫でて、辺りの木々や花は舞うようにさわさわと揺れた。
溢れるくらいの新緑と日光の眩しさに目が霞み、手をかざす。
まさしく、私が幼少の頃過ごした場所だ。
木造の簡素な建物は初々しい植物に囲まれている。
ふとした懐かしさと安堵感からなのか、生暖かい液体が頬を滑っていく感覚があった。
と同時に疑問が脳裏を巡る。
『なんで……こんなところに……』
可笑しな夢を見ているのだと思う。
それ以外説明しようがない。
ここは白い建物の中のはずだが、夢であるなら納得がいく。
魔術書を読んでそして絶望と知識を得て、私は……、私は……。
ーー私でなくなった。
まだ頭がなんとなくぼんやりとしている。
ひたすらに欲求に溺れて、我を忘れて……。
ただ、たとえこれが夢だとしてもこの目の前の景色をすぐに手放したくはないと思った。
だってこれは私が過ごした場所。
ぐーたらして、自由気ままに生きた場所。
宝物のように今も胸の中にしまってある。
その場所を前に私は立ちすくむことしかできないのだ。
「おい、君。……おかしいな。立ち入りは禁止していたはずだ」
『………っ』
夢だという推測を裏付けるかのように、向こうから人影が見えた。
実家にはいるはずのない、白服を着たいかにも研究者と思われる人物だ。
「迷子でしょうか?どうやって抜け出したのかは気になりますが」
話しかけてきたと思えば、研究者は何やら忙しそうに会話を続ける。
「まぁいいだろ、この子、もうすぐ器になるんだろ?」
「可哀想ですねぇ。運命には逆らえませんよ」
(この人たちは何を言っているのだろう)
背の高い方の研究者はこちらへ近づいてきて、
「いいか、この部屋はダンがせめてもの救いにって、お前に与えた空間だ。ここにいる限り『存在希釈』とやらが常に働いて、外からの刺激を受けないし、お前自身が守られる」
……でもまぁ、それもすぐ忘れちまうんだろうな」
(ダンって……?いえ、ちょっと待って……)
彼らの言うことが本当なら、ダンという人物が私の住んでいた実家を用意していたということになる。
しかも、私は神様になるべくして器に選ばれたのだという。
(ダン……なんだか聞き覚えがあるわ)
「だから大事にしろよ。ちゃんと神様の仕事を全うするんだ」
「……言って伝わるでしょうか?」
「さぁな」
そう言って扉の外に無理やり押し出され、ガチャリと戸を閉められた。
ーー所詮夢なのだ。
身に覚えがある名前も、懐かしい場所も、温かい空間も。
私が空虚の中で見る夢なんて詮索しても意味がないし、する必要がない。
名残惜しさを後にして顔を上げる。
そうして部屋から出ると、すぐ目の前の窓からまたあの気味の悪いゆらゆらが見えた。
黒く渦巻く深海にゆらゆらと揺らめく何か。
(気持ち悪い……)
目を背けて、次の部屋へ向かおうとしたその時ーー。
ドンドンと窓を叩く音が聞こえた。
……外からだ。
よく見ると影が見える。
(正直窓の外は行きたくないわ……)
暗いし、怖い。
窓を睨め付けるとあることに気がついた。
私は子どもなのだ。
4頭身くらいで、15歳の時のよりもずいぶんと背が縮んでいる。
(……もうさすがに何が起きても疑問を抱かないわね)
ここは夢の中なのだから。
ーー次の部屋を開けてみた。
ふかふかのベッドがある。実家の、私の部屋だ。
嬉しさが胸いっぱいに広がり、思わず笑みが溢れる。
小走りでベッドに向かい、ぼすんと体を預けるとなんとも心地よかった。
(ずっとこのままがいいわ)
何にも縛られず、自由で、ぐーたらに過ごしたい。
好きなだけ食べて、好きなだけお昼寝して、好きなだけごろごろして……。
ただ、それだけだ。
私はただそれだけを望む。
いつもは眠るのが怖くて目を瞑れなかったけれど、今度は大丈夫。
絶望付与効果である『死の恐怖』は現れず、私は深海に沈むようにゆったりと眠りにつくのだった。




