名もなき天使たち
ガラス張りのラルフローレンが眩しい。
クラクションが飛び交い、町に入ってから車は一向に進まなかった。建付けの悪い露店が隙間なく並び、そのいずれにも人がたかって話し込んでいる。髪を切る男、ゼッロクスでコピーする男、カラフルな服を物色する女、皆一様に浅黒く、大きな目をしている。よほど外国人を見るのが珍しいのだろう、時折窓ガラス越しに私の顔を覗き込む。別段気まずさはなかった。彼らはあまりに無害に見えた。
「They like talking.」
「Yes, Sir. They are always talking like this.」
付き人の英語は聞き取りやすい。例に漏れず腹は出ていたが、聡明な目つきや、皺のない白シャツからも彼の出自がうかがわれた。名前を聞いては忘れを繰り返しているうちに、最後まで覚えられなかった。
「What do they have to talk about?」
「Talk about nothing, Sir. People here enjoy their companies.」
「Their personal space sometimes makes me inconvenient.」
「I cannot catch you.」
「They come too close to me like they want to hold me.」私は笑ってごまかそうとした。
「Sorry, Sir.」
彼は、私と彼の間の空間を盗み見て、座りなおした。しかし、そうした妙に日本人くさいところも気に入っていた。もちろん彼に対して言ったのではなかったが、何となく弁解するタイミングを逃してしまった。
若い女が窓を叩き、かごに入った花飾りを見せてみる。私は視界の端でうかがいながら、気づかないふりをしていた。女はふてくされて、一度強く窓を叩くと、諦めて次の獲物を探しに行った。
駅に着いた時には十時を過ぎていた。
漸く車を降りられるのだ。フロントガラスの割れたトヨタは、鼻をつく臭いで充満し、結局眠れなかった。運転手は何日も風呂に入っていないのか、首元が象の肌みたいだった。髪は脂っぽく、街頭の光を躍らせていた。彼はこれまでも、そしてこれからもこのトヨタを運転し続けるのだろう。
「I appreciate your kindness to bring us here late in the night.」
私はにこやかに微笑みチップを差し出し、しばらく感傷的な気分にひたる。彼の生活を想像するほど、五百ルピーは私を満足させた。異国はすっかり私に愛国心を植え付けていた。
運転手は私を理解できなかったような無邪気な笑みを浮かべた。
付き人はトランクから私のキャリーケースを降ろすと、強い口調で運転手を追い払った。身分の差があるのだろう、私は高揚感が冷めていくのを感じる。彼はキャリーケースを転がし、私は後ろをついていく。
レンガ造りの駅舎は、暑さと疲労で輪郭を失っている。赤色の電光掲示板が現在の時刻を告げていた。列車のアナウンスが響いてくる。
付き人が発券している間、丸めた新聞紙のような老婆が私の腕に触れた。私はこの滞在で乞食にはすっかり慣れてしまった。執拗に道をふさぐ少女と遠くでうなだれる父親らしき男、片手のない老人、水分の多い目で見つめる女……。しかし、この老婆は私を触っただけで立ち去ってしまい、かえって不気味だった。
「Sir, your train will arrive at Platform No. 2 in 30 minutes. I will be with you.」
私はチケットを受け取り、ひどく安心した。私の席を占領しているであろうキセル客を追い払うという大仕事は取り合えず免れたというわけだ。
プラットフォームは賑やかだった。しかし、そのうち列車を待っているのはどれくらいなのだろう? 地べたに寝転がる男、薄汚れた布にくるまった子連れの女、上半身裸の仙人みたいな男、ビジネスマンに金をせびる老婆――彼らは今日という糸が明日にも繋がっているという微かな光を待っている。一方で、柱にくずおれた男には蠅がたかり、あばら骨の浮き出た犬が、彼から流れ出た液体を舐めていた。
跨線橋で若いカップルとすれ違う。旅行帰りだろうか、派手なキャリーケースが膨らんでいる。タンクトップ姿の男は自慢の筋肉を見せつけ、女はこれでもかとばかりピアスをあけていた。駅の浮浪者にどうして若者が少ないのか、ふと疑問に思った。駅にはベテランの浮浪者をひきつける魅力があるのかもしれない。
例えば、親子の浮浪者の場合……それなりの収入がなければ電車に乗れないことを考えれば、当然降りてくる人間は一定の身分である可能性が高い。彼らにポスター・チャイルドをけしかけることで、より効率良く稼げるという寸法である。しかし、ポスター・チャイルドもひとたび青年になってしまえば、以前の稼ぎはどこへやら。やがて青年は町へ旅立ち、親は駅にしがみつく。蛍光灯カバーに入った蛾も、例え死が待っていようと、そこから出ようとはしないのだ……。
つまらないことを考えながら跨線橋を渡り、プラットフォームの先端へ誘導される。途中、水飲み場で青年が車内販売用の夕食を準備していた。プラスチックの容器へ手際よくタイ米をつめている。強烈な香辛料が鼻をついた。プラットフォームは長く、数分歩いた。いよいよ人がまばらになり、時折向こう側から線路を渡ってくる若者のみ。慣れた身のこなしだ。
「Sir, how was your stay?」
「Basically nice.」
ようやく帰途についたのだと、私は全身の力が言葉とともに抜けていく気がした。付き人は、明日も仕事であるのに、嫌な顔ひとつしない。屈託のない笑顔でしめっぽい間を埋めようとしてくれる。
「Everyone was very kind to me. My hotel room was clean and tidy with hot water readily available. But I can’t get to like riding in a car. They run too fast, in the dark, on one lane road even when a truck is coming. It’s like I’m in a moving coffin.」
「Well said. The local government is reluctant to light uninhabited areas. Sir, Did you enjoy food here?」
「Far better than I thought, except for my bad stomach. I hope that it won’t get over me during the long way home.」
「I’m sorry for that, Sir.」
線路を挟んだ向かい側はプラットフォームが短く、駅舎の外に白塗りの施設がぼんやり佇んでいる。重厚な鉄扉前にグリーンのバンが止まり、その近くで二人の少女と少年が溝をのぞき込んでいる。少女たちは半袖シャツに、短めのパンツから長い脚をあらわにしている。長髪が気まぐれな風をもてあそび、浅黒い顔がちらりと見える。遠目からだが、二人とも美人で、よく似ていた。少し年下と思われる少年は、ボーダーのポロシャツ姿で、白い肌が印象的だ。混血かもしれないなと思った。
汚職、浮浪者、横領、宗教的確執、差別、政治的混乱、格差に侵された国にも、こうした牧歌的場面の余地があるのだ。着飾った立候補者のポスターが素足で歩く浮浪者を見下ろす国、超高層ビルで働く青年が一流ホテルでティーをすするかたわら、薄汚れた老人が財布と相談しながらチャイを値切る国にも、日常は存在するのだと私は安心した。
男がバンにもたれかかっていた。子供たちを眺める姿は親のようにも見えたが、親にしては少し若すぎる。腹は出ておらず、裕福というわけではないらしい。しかし、子供たちは揃って清潔な身なりをしている。そうすると、彼らを繋ぎとめているのはこの夜だけだろう。たまたま通りかかった男が、私と同じ気分にひたっていることだってないわけではない。
「What do you think the man is doing?」
「Which man?」
「The man nearby the van.」
「I don’t know, Sir. But he may be a merchant of something, just like men you have seen on the street.」
「There is no reason that he begins a business out there. On the street, he would have more customers.」
「Possibly.」
少女たちはお互いをつつきあい、時折黄色い声がかすかに聞こえてくる。少年が長い木の棒を拾ってきて溝の中を探り始めた。棒の長さから、思っていたより溝が深いことがわかった。少女たちが少年を挟むようにして寄り添うと、少年は少し縮こまった。少女のひとりは少年のポロシャツの裾をもてあそび、もうひとりは少年の手を誘導し始めた。少女の手つきには、いやに慣れたところがあった。彼女は何か象徴的なものを探しているように感じられた。
付き人は落ち着かない様子で顔を触っていた。別段こだわりがあったわけでもないが、彼と話すことで少しでも彼が報われるのではと続ける。私は話題に飢えていたのだ。
「I think they are playing with the moon in the ditch.」
「You are a poet, Sir. Anyway, I will buy you water. It will be a long ride for you.」
バンの男は、繰り返しジーンズからスマートフォンを出し入れし、落ち着きがない。すると、時間になっても来ない女を待つ男が相場だ。キザなバンにも説明がつく。それにしてもあまりに目立たない場所で待ち合わせるものだ。いずれにせよ、私は推測が外れたことに幾分落胆した。
少年は突然思い出したかのように立ち上がり、ぎこちなく少女たちに手を振ると、こちらへ駆けてくる。勢いよくジャンプし、なんとかプラットフォームへしがみつく。痩身の紳士が少年に手を貸し、引き上げた。少年の服を払い、頭をくしゃくしゃに撫でた。間もなく彼らは列車へと消えていった。
少女たちは、少年がいなくなった後もぼんやり溝を眺めていた。溝の中へ投げ出した脚はすらりと長く、精巧なドールを思わせた。バンの男もエンジンをかける気配すらない。十時半を過ぎていた。もちろん私の列車は遅れていた。
ふと少女のひとりが、棒を拾い、溝をかきみだした。棒は反発を受け、しなり、折れてしまった。
駅舎の方から男がひとり、バンへ近づいてくる。足が悪いらしく、左足をほとんどひきずるような歩き方。駅舎からバンまで百メートルも離れていないのに、ひどく長く感じられた。少女たちは摺り足に気づき、振り返る。しばらくの間、哀れな男を見ていた。
男は何回か休憩を挟みながら、漸くバンへたどり着く。バンの男は労をねぎらうかのように肩を叩き、何かを受け取った。足の悪い男はそのままバンの奥へ消えた。男は受け取ったものを乱暴にポケットへしまうと、少女たちに呼びかける。少女たちは身体をこわばらせ、溝を見つめる。男はしびれを切らし、棒を持った少女の手を引く。少女の身体は石膏のようだった。男はいよいよ力を入れた。棒が溝に落ちた。少女はもうひとりの少女を見つめたまま、バンの中へと消えていった。
脂っぽいシャツの裏で汗がわざとらしく流れる。
「Thank you.」付き人が戻ってきて水を受け取った。
「My pleasure, Sir.」
彼の顔には不自然な微笑みの残響がこびりついていた。狐につままれたような気分だった。電光掲示板が点滅し、無機質な女の声が私の列車を読み上げる。ビジネスマンが慌てて階段を降りてくるのが見えた。無理もない、次の列車がどれほど遅れてくるかわからないのだから。売り子は香りをまき散らしながら思い思いの場所で待機する。洋書を売り始めている者もいた。やがてブルーの列車がのろのろと現れる。爽やかな色合いがかえって威圧的に感じられた。監獄みたいな三等車の窓から、無数の目がきらきら光り、あざ笑っていた。私は幸い二等車だ。カーテンを閉めて、頭から毛布を被ろう。ノミだらけの毛布でもかまいやしない。きっと眠りが解決してくれるだろう。キャリーケースは何倍も重く感じられた。ふと握手を忘れていたことに気づき、彼に手を差し出した。彼の手は硬く、冷たかった。