花の香と竜
空はいつのまにか夕暮れの気配を端に漂わせ始めていた。ノヴァイハは回廊の端からツムギの部屋の露台をぼんやりと見つめた。
今頃ツムギは、マリイミリアに洗われ、茶でも飲んでいるのだろうか?
かくいうノヴァイハも、ツムギを部屋に送り届けた後、凄まじい匂いの染み付いた服を着替え王城に戻る途中だった。
あの部屋に番がいる。
側に、手を伸ばせば触れられる距離に番がいる。
その事実だけで満たされるとあの頃は思っていた。
ノヴァイハは無人の露台から視線をひきはがすように回廊の先へ向け歩き出す。しかし、思考は未だツムギに囚われたままだ。
口に含んだ飴を持て余したツムギに口づけ飴を舌で絡めとり、それを砕き、またツムギに与えた。
相思相愛の番同士らしい給餌行為。ツムギはまるで雛鳥のようにそれを受け入れた。
そう、雛鳥のように。
私が求めているのは親愛の情ではなく互いの全てを奪い、混ざりあい融けていくような…そんなドロリ、と重い愛だというのに…無垢で柔らかな信頼を差し出され、困惑してしまう。
全くもって欲望には際限のがない。
かつては番と逢えればそれでいいと思っていたのに。
逢えば言葉を交わしたくなり、
言葉を交わせば、愛の言葉が欲しくなり
愛の言葉が与えられれば、より深い想いを求める。
呆れるほどに強欲だ。
はぁ、とため息をつく。
そしてふと進む先にレーゲンユナフが立っていることに気づく。
どこかぼんやりとした様子で立ち竦むその姿は、常の溌剌とした様子が伺えない。
「レーゲンユナフ、何かあったのか?」
「うん?ノヴァイハか。いや、ただ何だ…うーむ、よくわからん。空気がちがう様な?いや、違わないか…」
声をかけるも纏まらぬ答えが帰ってきた。
何か気になるんだが…どう違うのかわからん。ぶつぶつとぼやきながらレーゲンユナフは腕を組み首を傾げた。
「ところでお嬢ちゃんの様子はどうだ?」
そう聞かれ、ノヴァイハは胸に手をやり奥底の魔力を探る。
そしてツムギの中を巡る己の魔力を確認した。
「今は、安定している。」
「そうか…しっかし、ノヴァイハに番が見つかるとは思わなかったな。」
レーゲンユナフはそう言って、はっはっは。と朗らかに笑った。
「俺はお前の暴走で世界が滅びるのを、この目でみるかと思ってたんだがな。久しぶりに竜人国に戻れば街はお祭り騒ぎ、そうこうしているうちに厨房に突っ込まれるわ、人間の食べ物を調べなきゃならねえし、怒濤の毎日だったな。」
「すまない。」
ノヴァイハは苦笑しながら謝罪の言葉を口にした。
世界中を旅しているレーゲンユナフには昔、非常に世話になったのだ。荒れているときも、悲嘆にくれているときも、カラリとしたこの竜人にどれだけ救われたことか。
「あれが、お前の番か…」
レーゲンユナフは出来の悪かった弟子がやっと店を構えた時のような、晴れ晴れとした、少し寂しいような笑顔を浮かべてノヴァイハを見た。
「ああ。」
迷いのない揺るがない想いをノヴァイハは瞳にのせて返事を返す。
「幸せになれよ。」
以前は同じだったノヴァイハの白い髪。
似ていない兄弟と旅する先でよくからかわれたその頭。今はもう揃いではなく薄赤くそまった頭をレーゲンユナフはワシワシと撫でた。
「レーゲンユナフも…」
番と逢えるといいな。ノヴァイハのその言葉は声にはならなかった。安易に言えるほど番に長く逢えない事実は軽くはない。
そう悩むノヴァイハの髪をグシャグシャとかきまわしながら、レーゲンユナフは切り替えるように明るい声で「いいにおいだな!」と言った。
視線の先には花盛りの庭。
「ああ、皆がはしゃいでいるんだ。」
庭師も、その使い魔や庭に住む精霊たちも、皆が何百年ぶりに現れたこの宮の主人のために大量の花を咲かせている。
「ああ、本当にいいにおいだ…」
すぐそばで再びしみじみと呟かれたレーゲンユナフの言葉。
先程の凄まじい臭いが脳裏から洗われていくのを体感しているのだろう。そう思うと苦笑がもれた。
ノヴァイハは鼻腔をくすぐる満開の甘い花の薫りを、胸いっぱいに吸い込む。
それは甘い祝福の薫り。