見上げる竜
竜の羽ばたきで乱された枝々の隙間から光の欠片がキラキラと輝きながら降ってくる。
シャラシャラとかそけき音を立てて、地面に落ちた葉は、光を反射して再びきらりと鋭く輝いた。
ノヴァイハが一歩、踏み出すとパリン、シャリンと靴の下で薄氷のような音を立てて、落ち葉が砕ける。
拡げられた枝の下で立ち止まり、見上げた頭上は様々な光を透かす緑色が重なりあいキラキラと輝いている。
それはまるで水底から見上げた魚の群れのように刻一刻とその色と形を変えていく。
ああ、美しいな。
ノヴァイハは急にそう思った。
そっと落ち葉を一枚拾い上げる。
緑の葉は光に透かすと氷のように透明で、わずかに黄色がかった葉脈が透けて見えた。
枝についている葉よりも色が薄いのは、この葉が地に落ちてしばらく経ったものだからだろうか。
そっと指先で撫でると葉はシャリンと儚い音と共に砕けてキラキラと光を溢しながら落ちていった。
脆くて美しい。
そう、世界で生きる全てのものは竜から見ればどれもこれも繊細で壊れやすく…
そして何より美しい。
自分はこんな当たり前の事を随分と忘れていたらしい。
そのことに漸く気付き、ノヴァイハはそっと胸を押さえた。
何かが肺につまったような、この感覚は何だったか。
久しぶりに感じるこの苦しいような感覚、同じような感覚を随分と昔に感じていたたような気がして、ノヴァイハは足元の重なりあう落ち葉をそっと伏せた眼差しに写しながら考える。
この感覚は…
気に入っていた美しい青い泉が見る影もなくカラカラに乾上がり、灰色のひび割れたときに、その底をのぞきこんだ時のような…
ヒリヒリとした、くるしいような、痛いような感覚?
あぁ、でもそれも随分と昔のことだった気がする。
ノヴァイハは胸を押さえたまま、再び大木を見上げた。
濁りのない透かすような緑が様々な色を重ね、輝いている。鮮やかな、碧、黄緑、緑が揺れて、キラキラと…
見上げた瞳は繊細な葉を水面のように静かにうつしていた。
番に出会えない日々を重ねるごとに世界は刻々と色を失っていった。
今、再び世界を美しいと、鮮やかに色付いていると感じるのは自分自身が番に、ツムギという最愛に出会えたからだろう。
ふと、足元に咲く小さな青い花に気づく。
僅かな風に揺られる花をじっと見つめ、フッとノヴァイハは笑った。
それは酷く満足げで、満ち足りた微笑み。
お気に入りだった枯れた泉は、水脈を乱す原因となった地竜を蹴り起こして退かしても元の美しい泉には戻らなかった。
ただ、竜が地の底で寝返りをうっただけだというのに、美しい泉は以前とは違う白く濁った汚い泉になっていた。
たった、それだけのことで、ノヴァイハの好んだ泉は無くなった。
あの頃から、世界は美しくて、そしてどうしようもなく脆かった。
竜の爪が掠めるだけで、すべてボロボロと崩れて
ただの汚いものになる。
ノヴァイハは再び頭上を見上げた。
木々の輝きは美しく、その先にあった実はさらに美しく輝いて見えた。
ああ、そうだ。
今だって美しいと感じるのは、この木、だからだ。
あの子にとって必要なモノだから美しく感じるのだ。
くつくつとノヴァイハは喉で笑った。
笑って邪魔な足元の花を踏んだ。
そうだ、世界なんてどうでもいいのだ。
あの子と己を長く引き離していた世界なんて。
あの子を傷つけた世界なんて。
世界が美しくなくても、ひからびた灰色だって構わない、灰のように崩れても、手に入らなくても、
もう、自分にとって、そんなことはどうだっていいのだ。
あの子さえ、ツムギさえ側に居れば、世界が美しかろうが醜かろうが、そんなものは自分にとっては心底どうでもよいことなのだ。
キィキィと花と共に靴底で砕かれた葉は耳障りな鳥の囀りのような音を散らした。
ノヴァイハはそれを気にすることもなく、熟し地に落ちた実を広い集めた。
「ん?」
目的としていた実を粗方集めた頃、西の離宮に張り巡らされた結界が揺らぐ気配にツムギのいる方向、城のある方向を思わず見た。
「ツムギ?」
結界が一度だけ何かを弾いた感覚があり、その後暫くして今度は結界が内から干渉され始めたのだ。
綿密に張り巡らせた結界の微かな綻びを拡げ…
いや、むしろこれは…結界を解かれた?
不可解なその現象に意識を集中した後、ノヴァイハは思わず眉を潜めた。
番同士の能力は干渉しあうということか?
結界へ干渉しているのはノヴァイハの番、ツムギだった。
ゆっくりとだが確固たる足取りで結界の隙間を縫うように、まとわりつく糸を引きちぎりながら本来の道ではない場所を進むツムギの気配。
そして、進むその先には友の気配。
番の居ない雄竜が己の不在中に巣に近寄らないように…と虫除けに張った結界。
友だとはいえ雄竜の存在など看過できるわけもなくノヴァイハはチッと舌打ちをした。
まさか己の結界を人族に破られるとは…ツムギの番の能力を見くびっていたな。
ノヴァイハは滅多にない事態に焦りよりも心地よさを感じた。
こんな風に己を振り回す対象がいることこそが、長い、長すぎる時を過ごす竜にとっての一番の救いなのだと、番を見つけた今ならば解る。
一先ずツムギに纏わせていた守護を強化し、万が一に備えた。
ツムギに危害を加えた瞬間に相手を弾き業火に包まれるように。
それからツムギの体の周りにも気を巡らせる。
未だに不安定なツムギの身体に魔力を直接注ぐのは躊躇われたので体の表面を守るよう魔力を纏わせる。
安全性は上がったとはいえ、己の居ない場所で雄竜人と触れ合うなど許せるわけもない。
ノヴァイハはツムギのいる離宮へと転移しようとしたその瞬間
ツムギの気配がブツリと消えた。