風を聴く竜
ひゅうひゅうと耳障りな音が聴覚器官のすぐ横で聴こえノヴァイハは顔をしかめた。
今さら、自分がこの音を昔から嫌いだったことを思い出したのだ。
長らく飛ぶことをしなかった翼は、今も何の問題もなくノヴァイハの巨体を空へと舞わせ、不快な風の音を聴かせてくる 。
羽ばたくびに裂かれた風は聴覚器官のそばにある角から続く角状突起を撫でる。
細かく裂かれた風は通り過ぎる際に、隆起した鱗の間で乱れ、不快な音を立てていく。
ノヴァイハは音を止めようと首を振るが、向かい風の中で飛んでいるため音は止むことがない。
甲高い音その音は、殺される前の生物の閉じかけた咽から漏れる吐息に似ている。
そうノヴァイハは思う。
水竜種のノヴァイハは元来水棲だ。
竜は竜種の違いこそあれ、どのような地でも行動は出来る。乾いた地でも溶岩の中でも。とはいえノヴァイハはやはり水棲。眠るのに好ましいのは水辺や水底、纏うなら水がいい。
そう、出来るだけゆったりと、たゆたっていたいのだ。
だからこんな奇妙な音を聞きながら忙しなく飛ぶことにノヴァイハは魅力を感じない。
火竜である兄のヘリディオフは昔は飽きることなく常に空を舞っていた。
時折地に足をつければ必ず辺りを火の海にしていた。
我が兄ながら心底、こいつは本当に大丈夫なんだろうかと心配するくらい、落ち着きがない幼竜だった。
ノヴァイハは羽虫のように飛び回る兄をよく水の中から見上げていた。
あんな風に飛ぶより水の流れと一体になりながら真っ暗な水辺に沈んだり、流れるままに流される方が何倍も楽しいのにと思いながら。
ひゅうひゅうと音が止まない。
乾いた風の音が煩わしい。
まるでしつこく飛び回る兄の羽音のようにさえ思えて…
ぐ、とノヴァイハの眉間にシワが寄る。耳障りな音を散らそうとするが、やはり、風向きは変わらず音か消えることは無かった。
(ああ、そういえば…)
ふと、ノヴァイハは昔廻った人族の国では人は空に憧れていたことを思い出す。
高速で飛ぶ飛竜種の後ろには白い雲の線ができる。
人族達はよくそれを見上げていた。
地に縛られた人族は空を舞う術を持たない。そのため希求するように熱く空を舞う生き物をみあげていたのを覚えている。
ならば、人族のツムギも大空を羽ばたくことを夢見たかもしれない。
(今度ツムギに聞いてみよう)
ノヴァイハは離宮に居る番いに想いを馳せ強張っていた頬を緩めた。
竜体のためその変化は殆ど解らなかったが。
(ツムギが空を飛びたいというのなら…そうしたらツムギをこの背にのせて空に…いや、落ちたら困るからそれはやめよう。…手のなかにそっと包みこむように懐いて飛ぼう)
うむ、と頷くとヒュイィと耳元の音が変わる。
ツムギがそばにいれば、この乾いた音も水底から水が涌き出る際に転がる貝の欠片が触れ合ったような、軽やかで好ましい音に変わるかもしれない。
けれど、それよりももっと空を舞うことに喜び笑うツムギの声の方が何倍も素敵だろう。
(そのうち水底にも連れていってあげよう)
水の中は賑やかだが、こんな刺すような音ではなく、もっと柔らかでゆったりとした音がする。
二人で水底力に沈んでその音に耳を澄ませたらさぞかし楽しいことだろう。
(いや、まてよ、ツムギは人族だから水の底に招いたら死んでしまうな…)
むむむ、とノヴァイハは考え込む。
よし、ツムギの体調が落ち着いたら、水辺に巣を作ろう。
空気の膜を作れる方法をメロデイアに考えさせている間に地面をピカピカの平らにしよう。
その場所に巣を作ればいい。巣には沢山のピカピカ光るものを集めて飾り付けよう。それから柔らかい布と、つるつるの石と花と…
ノヴァイハははっと我にかえりぶるぶると頭をふる。
今はそれよりも大事な役目があるのだ。
そう思い直し、弛んでいた気を張り直す。
番がはじめて望んだものを見つけられなかった。
などという不名誉なことがあってはならない。
幸い季節外れとはいえ、あの実を探すのが不可能というわけでもない。
それに、木をみつけさえすれば軽く時を操れば味は落ちるが実が手に入らないわけでもない。
この手で作ったあれをかじるツムギはきっと可愛い。
かじった時に聴こえる音は水底で聞いたどんな音よりも素晴らしいだろう。
見下ろす森の中に漸く探していたモノを見つけ、淡く光を反射する薄紅色の竜はクルクルと上機嫌に喉をならし旋回した。
不快な風音は止まっていた。
そして、濃い緑の葉が艶々と光る大木の下へ、竜型から人型となったのちノヴァイハはそっと降りた。