噛まれた私
痛いという、感覚は驚きすぎると感じないと聞いたことがある。
脳が興奮物質を大量にくつるためだと。
それは、捕食される生き物が逃げるために必要な能力。
痛みは動きを妨げるから、だから感じ無いようにして、その場から逃げるのだと。
逃げる…?
逃げられるの?
こんな大きな生き物から…
目の前には、大きな爬虫類の口元だけが視界いっぱいに広がっていた。
近すぎてまるで岩のようにしか見えないその口に、歯の隙間に私の腕は挟まれている。
手の甲にふれるのはぬるりとした感触、目の前にはごつごつとした、けれど滑らかな鱗、鋭い歯は一本が一本が物凄く大きい。
そして、その歯の奥に私の手がある。ぬるりときつく握りしめた拳に触れているのは舌か、歯茎か、わからない。
大きな歯の隙間に嵌まっているだけなのか、それとも、既にその先が千切れているのか…
指先の感覚は幻想なのか、それとも現実なのか。
やけに冷静な感覚だった。
頭の中は真っ白なのに。
どうでもいいことばかりがものすごい早さで巡っていく。
目の前のものが近すぎて何だか解らない。
離れてみたら何だかわかるのに。
離れられない。
だって、私は噛まれてるから。
噛まれている。
そう、改めて認識した瞬間、
ヒュッと喉の奥が奇妙な音を立てた。
今さらながら息が止まっていたことに気づく。
息を、そうだ、息をしなくては。
そう思っているのに咽は動きを止めたまま動こうとしない。
まるで、頭と体がすっかり別れてしまったかのように。
思考は奇妙なほど冷静に空回り、瞳は私の腕を噛むその口の繋がる先をたどる。
ゆっくりと、大きな大きなその生き物、見上げるとその先にギョロリと大きな目が。
その縦に割れた瞳孔とかちりと目があったその時。
再び、今度はヒュッ、ヒュッと2度風を切るような音が私の咽から生まれた。
その、音に反応したのか、わすがに恐竜の歯が動いた。本当にごくわずかな動き。
けれど、人間にとっては大きな動きだったのかもしれない。
噛まれたままの腕が、ごきりと鳴った。
ごきりって鳴った。
どうやら、歯のこちら側とあちら側はまだ、繋がっているらしい。
そして、再びごきりと鳴った瞬間、腕に奇妙な感覚が走った。
熱い
まるで、焼けるように腕が。
痛みを熱として認識した瞬間、酷くゆっくりと感じていた私の時間が急に動き出した。
「あ、あ…あ…」
熱い、イタイ、腕が熱い、私の、私の、腕?そう、腕が…
腕が痛い。
大きな口に、食べられてしまったから。
「いゃぁぁぁぁぁぁ!!!」
肺にたまった空気を全て出すような叫びが聞こえた。