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都庁安倍課  作者: 亀子
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都庁だ阿倍だ一億総活躍だ!都庁に現代病患者の課が実現!都政はいかに!

第一章 月曜日

~月曜の出社は憂鬱

誰だって会社なんて行きたくない。誰でも職場が合わない。ただ…。朝食後、阿部はもう30分も自宅のトイレに閉じこもっている。

とか考えてもしょうがないのだ。安部には家族がいる。子供たちも中学と高校。お金のかかる時期だ。家のローンも残っている。ここしか、ないのだ。アベノミクスで一見景気は上向いたかにみえる。とはいえ、経済特区がどうのホワイトカラーエクゼプションがこうのと国会議論されているが、一部のエリートを除いて大抵の中年サラリーマンは会社にしがみつき、月々の給与をもらい、あわよくば定年まで居続けたいのが本音であろう。

そして阿部にとっては特にそうだ。彼は国の定める難病300種の一つ”潰瘍性大腸炎(大腸の免疫に異常が出て大腸の粘膜、つまり最も内側の層に“びらん”や“潰瘍”ができる大腸の炎症性疾患。下血を伴うまたは伴わない。下痢と腹痛がよく起こる)現首相である安倍総理と同じ病気なのだ。

阿部は便器に座りながら遠い目をする。よく見るとローマ人風の顔立ちの彼は黙ってじっとしていると、ロダン“考える人”を髣髴とさせる。発病前はそれがいいように解釈されて、思慮深い人物とみなされていた事をかれはうすうす気がついていた。しかし、発病後は退職せざるを得なかった。なにしろ職場のトイレに1日20回~30回行ったり来たりし、思慮深さもボロが出てきて会議もままならない。最初は同情の目で見た同僚の目も次第に冷ややかになっていく。結局退社、療養し、ちょっと病気が良くなった(寛解)と思っては職につき、また再発(憎悪)の繰り返しだった。糟糠の妻、秋江はパートを2つ掛け持ちしてなんとか家計を支えてくれた。そんなときスイス製の安倍総理ご愛用の画期的な薬“アサコール”がようやく承認(スイスで発売されてから25年目)されて、たしかに症状は収まった。しかしその頃には、自分のスキルはもう古くなり、世間では使い道にならなくなっていた。   

だからこそ、ここに、しがみつくのだ。大体民間から公務員なんて夢のようじゃないか。ここが人生踏ん張りどきだ(踏ん張りすぎてもだめなのだが)。いや、だが、、、。変なのだ、同僚が。いやいや同僚が変なのはどこの職場でも同じ。同僚を人間だと思ってはいけない。そんなことはサラリーマンの常識だ。

しかし…四の五の言っている場合ではない。阿部は意を決し、トイレから立ち上がった。

「行ってきます。」

挨拶だけは明るく言い、秋江に心配かけないように阿部は外に出た。阿部の家は、妻の元実家を改築した妙蓮寺駅にあり、会社へは一本で行ける。東急の渋谷再開発の恩恵をうけて、東横線から副都心線に乗り入れが楽になり、以前と比べ通勤も随分とスムーズになった。アナウンスが呼びかける”都庁3丁目~”彼は腹に力を入れて(入れすぎても駄目なのだが)下車した。働くぞ、今日も。

そう、かれが向かう先は東京都庁。都庁49階の”都庁疾病課”通称”都庁安倍課”である。というのも、安倍総理の鶴の一声、「少子化の進む日本で、病気を抱える人でも戦力として働けるよう、環境を整えるのだ!」という一言から作られた、様々な病人の職場のモデルケースなのだ。であるがゆえに、課長はがんサバイバー、同僚は指定難病の膠原病、現代病の代表の欝、発達障害のADHDと、多彩な病を抱えている。

といっても現状の業務内容は

○お年寄り対応(センター訪問、個別相談)

○街のお祭り対応

○総務系の定型業務および雑用

と、正直誰でも対応がきくようにしてある。内容もさながら、処理スピードにいたっては、これだから公務員は…と民間から来た阿部などから見ると眉を潜めたくなる有様で、慣例文書、行事で溢れている。しかしそんな贅沢は言っていられない。フェイスブックの背景の家族写真を見て、気を取り直し、阿部は書類に向かう。

主任として部下の状況を把握しなければ。課長である山田は前立性がんの治療のため、午後出社という予定だ。今日はまだADHDの吉川君しか来ていないな。足をぶらぶらさせるのは彼の癖であり持病に関係しているので気にしてはいけない。それ以外は性格もいいし、民間でもやっていけそうなのに惜しい奴だ。膠原病SLEの古藤さんはまだかな。彼女はなまじっか中途半端に優秀だったから、現状をうけいれられないのだな。とはいえ、発症からもう5年も経っているのだから、お嬢さんのわがままもいいかげんにしてほしい。欝の小山くんは天気が悪いと体が重くなると言っていたが大丈夫かな。

阿部は周囲を見渡し、主任として現状を認識する。さて、今日は出社してくるのは誰だろう。 

火曜日

~悩み多き火曜日~

「こ、古藤さんまた休みだそうです。」

ADHDの吉川が電話を何度も切りそこねつつ報告した。

さて、本日の休みは古藤さんらしい。「また休みか…」阿部はため息をつく。別に彼女じゃないといけない仕事があるわけではない。カバーもきくよう、社内LANで仕事の進捗状況は把握できるようになっている。しかし、ここ数日の勤務態度はなんであろう。出社したらしたでぼぅーっとしている。しょっちゅう医務室で休む。「病気だからって甘えているんじゃねえ!」阿部は心の中で毒づく。どうせまた失恋でもしたのだろう。安部のキーボードを打つ音が徐々に強くなっていく。この課に入ることがどれだけの難病患者が羨んでいると思っているのだ。ああいうだらしない奴がいるから難病患者が誤解されて就職しづらくなるのだ。

阿部が心で毒づいている頃、古藤は父親に買ってもらったマンションで横になっていた。だるい。”全身倦怠感”膠原病特有の症状だ。特に台風シーズンは関節も痛む。頭がクラクラする。

昨日は柄にもなく“日経PC”を購入し、練習問題までトライした。すると、翌朝…出た!過緊張による発熱。自作のアイスノンハチマキを巻き巻き古藤は横になっていた。「まさかこれしながら出社するわけにはいかないしなあ。」ハチマキを押さえつつ古藤はため息をつく。しかし、甘い。Lineで同病相哀れもうと派遣の友人鶴田にメッセージを送った所、鶴田はリンパ節に沿って熱ピタシートを貼り、熱でも出社の準備に余念がない。「あんたはいいわよあそこに採用されて。いたっ」貼る場所をやりなおして脱毛したしい。鶴田早々とLINEから退出。古藤はぬいぐるみに向かって最近多くなった独り言を吐く。「ふん、大きなお世話よ。病人だらけの課なんてウザくってたまらないわ。絶対職場結婚なんてヤダ。」古藤は自分も病人のくせにその事は棚に上げる。「だいたい採用試験なんて、受けいれるサイドの事を考えて演じるものなのよ。」古藤はぬいぐるみに訴える。「都庁側は初めての試みで戸惑っているのよ。できるだけ手間はかからず、自己管理、つまり無理しないで素直そうな人を取るに決まっているじゃない。」古藤は昔から要領が良い。「鶴ちゃん“自分をわかってもらう”とかいって前職での経歴を朗々というから、また発症(正確には憎悪、状況が悪くなることをいう)されたらやばいと思われるのよ。だから彼氏出来ないのよね~。」最後の独り言は、自分はどうなのだと反論されてしかるべきだが、運よくぬいぐるみは言い返さない。彼女は短期的、あるいは自分の都合さえ考慮に入れなければ、正しい判断ができる人なのだ。

「今日はこれからどうしようかなあ。」ベットでゴロゴロしながら古藤は模索する。「阿部さんに嫌味言われそうだしぃ、午後から出社しようかなあ。」古藤は寝返りを打った「でも、帯状疱疹出るとキモいしなあ…いーや、先生も頑張りすぎないようにって言っていたしぃ。」古藤は図々しい割に小心者なのだ。自分の病気についてウィキピアで調べたが、先生に言われた事以外の箇所、例えば内臓疾患等々は読んでいるうちに怖くなり、結局未だに読み切れていない。大体において彼女は自覚症状が出る前に健康診断で発覚したのだから幸運な人とも言える。しかし、だからこそ、自分が病人であることをなかなか受け入れられないのだ。

「電話がADHDの吉川君でよかった。」古藤は内心をほっとしていた。「阿部さんだと怒るしなあ。似た病気なのに理解ナーイ。」といいつつ彼女も阿部の病気のことは詳しくは知らない。

暇つぶしになんとなくリモコンを手に取り適当にスイッチを押す。「昼間って韓ドラばっかり。あーあ、もしあの時発症していなかったら…。」古藤はしょっちゅう昔の恋人や職場に思いを馳せてしまう。大抵思い出とは美化されがちで、もし続けていても結婚したかキャリアアップしたかなど、分かりはしないのだ。とはいえ外資のディラーだったので、仕事はそれなりに、いや結構出来たのだ。たらたらiPhoneでフェイスブックを見ていると、日経新聞の広告が目に留まった。「前職を辞めてから一度も見なくなったなあ。ディラーのスピードについて行けなくなっちゃったものね。分析力も落ちたわ。集中しようとするとすぐ発熱するのじゃ仕事にならないし…。」TV画面はガーガーと無機音で白黒になり何も写さなくなっていた。「楽しかったなあ。動きがある物を相手にして。予測が当たった時はまるで自分が世界を支配しているような気持ちになった。」画面は相変わらず白黒のままだ。「今の私を見たら、昔の私は軽蔑するだろうなあ。」画面は自動的にショップチャンネルに変更され、古藤の歳では買うはずもないおむつパッドが宣伝されていた。「あの努力、勉強量を恋愛に回していれば、今頃は同期のバイトみたいに結婚していたろうあ。」確かに努力はしていた。仕事の後どれほど疲れていても、英語と中国語のヒアリングは欠かさなかった。仕事で飲むときは早朝か、突然決まった時はトイレの中で最低限の勉強をしていた。「私の人生ってなんだろう。留学の話も出ていたなんて、今の私を見たら誰も信じないよね。」そして発病。あらゆる民間療法を試しまくり、得た結論は「そんなもので治ったら医者はいらない」という過酷な現実であった。悪いことは重なるものである。恋愛で治ると自己啓発CDで言われたので試してみたら、ストーカーで追いかけられまくってえらい目に遭った。「やっぱり仕事しないとなあ。それも今の仕事でかぁ。やりたくないけど勉強しよう。」アイスノンハチマキの中身を入れ替えつつ古藤は再び日経PCをめくる。

 古藤は1週間前失恋をした。それも4時間半もかけて否定されまくった。弁護士という人種は話すことが仕事なのか、いつまでも話し続ける。しかもマイペースで話が飛ぶので会話にならず、一方的である。「なにも『ごめん、俺、病気とか、ダメ』と一言言えばいいじゃないか!」古藤のハチマキから雫が雑誌に垂れる。病気が嫌なのはわからないことはない。自分だって病気の課に行くのが嫌なのだから。

発病してから古藤は自分に段々嫌気がさしてきている。「男性に守られたい、甘えたい。」そして最近は「子供が欲しい。」38であるが、可能性はゼロではない。そんな焦りが相手に伝わったのであろう。重い女には徐々に距離が取られ電話が来なくなった。「自分が会いたいときは呼び出すくせに、こちらが会いたいときは用事があるとかいって平気で飲み会に行く(FBに載っているからバレバレなのだ。)無用心な奴。」別の見方をすれば「それとも私の気持ちなど奴にとってゴミみたいなものなのか?」今頃気づくのが恋愛デビュー遅すぎ甘ちゃん古藤の痛さである。「なんて傲慢な奴。区議のだれかさんのように乗り込んでやりたい!でも疲れそう…。」古藤に限らず、一般に人は弱ってくると結婚や恋愛に頼りたくなる。新しい環境、例えば大学に入った途端カップルがボコボコ出来るのは不安感からだ。そんなカップルを横目に見ながら古藤は勉学に励み、難関ゼミで切磋琢磨し、優秀な成績で卒業、誰が聞いても知っている外資コンサルタント会社に入り、ディラーとして日夜勉強に励んでいた。「その私がねえ…。」40前に男を追い掛け回して縋り付くとは思ってもみなかった。もはや無様で情けないなんて感情はとうに消えていた。

「でも、私そういうのは無理みたい。」日経PCを解きながら古藤は苦笑いをする。「さて、問題を解こう。今日は前半休を取ろう。そして、行くか、職場に。」いつの間にか外は晴れて夏の空らしくなっていた。


水曜日

~水曜の朝は極鬱~

ああ、この季節は曇ると気が滅入る。欝小山は歩道の手すりにもたれつつ、諦めて職場に電話をした。電話に出たのは課長で、その落ち着いた声が彼を安心させる。

「課長、すみません、今朝の出社、ゆっくり行きます。」

「無理しなくていいよ、直接コミュニテイハウスに向かってもいいよ。」

課長は静かに優しく言う。欝の人には当然の対応だが、この課長には誠意が感じられる。病人は馬鹿ではない。というより弱いもの特有の嗅覚をもっているのだ。

コミュニティハウスとは地域の憩いの場”のんびり屋”のことである。「下手なネーミングだ、きっと区長が付けて誰も反対できなかったに違いない。」小山は心でつぶやく。しかしハウス自体は地域のお年寄り、主婦、学生ボランティアに比較的順調に運営されている。民間の力は偉大だ。

 ああ、歩くのもしんどい。徐々に重くなる体を引きずるようにして小山はコミュニテイハウスに着いた。ハウス奥に設置した、近隣住民寄付のこげ茶色の革張りソファに腰を下ろすと、近所のご婦人(年配なのだがおばあさんというには品が良すぎる)七草さんがおいしいコーヒーを入れてくれる。小山の心が慰められるひと時である。

一息つき、なんの気なく周りを見わたすと、囲碁好きの森さんが碁板とにらめっこしている。小山の居るリビングに併設されている台所では元看護婦の多田さんが最近アロマセラピーに凝っているらしく、なにやら草を煮詰めているようだ。雨上がりの芝生のような不可思議な香りがしてくる。小山は久しぶりにゆったりとした心持になった。ここは誰も何も聞かず、そっとしておいてくれる。お年寄りは諦観を心得ている。でも時々携帯の使い方を小山に聞いてきたりと、結構人使いがうまい。小山の労をおしまない丁寧さ、何度聞かれても誠実に教える優しさはお年寄りに人気があり、また家では居場所のない老人にとっては便利な存在なのであろう。そうした彼の美点が逆に以前の職場である不動産販売業にて彼の精神を蝕んでしまったのだ。不景気下のノルマ、誇張いや詐欺ギリギリの宣伝、毎日終電…ああやめよう。気分がまた滅入ってくる。

 腰掛けて30分、外の湿気がおさまりつつある。「お天気屋」という言葉は欝の症状を示しているなあと小山は思う。天気が良くなると本当に気分が落ち着くのだ。元来真面目な彼は、調子が良くなるとすぐに(動作自体はのろのろと立ち上がってはいるが)センターの収支のチェックの為パソコン画面に向かった。これは区の使わなくなった品を転用している。区の直属雇用形態としては最後の車両部正社員の出退勤入力のために使っていたが、昨年度の退職で、車両担当運転手は全員タクシー会社からの派遣となった。そして派遣元会社で出退勤を管理するようになったのでパソコン入力は不要になり、ここに転用されるに至ったのだ。「それにしても出退勤だけでパソコン1台とは…。」小山は心でつぶやく。公務員のお金の使い方はよくわからない。彼が入力していると、七草さんがもじもじと近づいてきた。

「あ、七草さん、伝票入力でしたらいつでも代わりに打ちますよ。」

小山が手を差し出すと、七草さんはホッとした顔で伝票を手渡した。上に手書きの収支表がある。表彰状に使えそうなくらい美しい文字である。「この方はこんなところで何をしているのだろう。もっと他に居るべき場所があるのではないだろうか。」と小山は思う。

 雲行きが再び怪しくなってきた。常連客?ばかりになってしまったカフェ。小山は体調の悪化を懸念しつつ入力を始めた。単調な作業で、だからといって手を抜けないのが小山の悲しい性である。しかし、今日はいつもと違う。キーボードを打つ手が段々と遅くなる。「ちょっとまてよ、まだ昼休みには早いだろう、しっかりしろよ。」と自分で自制しつつもまぶたがまどろんできた。いかに雨が降ってきたとはいえ、これはおかしい。「あれ、おかしいな、薬の量間違えたかな…。」いつの間にか小山は深い眠りに落ちていった。

「うまくいったようね。」

小山の様子を確認すると、七草さんは低めのテーブルにて隠し持っていた書道用具のセッティングをし、結婚式の招待状を書き始める。ITのこのご時勢ではあるものの、いや、だからこそ、手書きの賞状や暑中見舞いが価値を持つのだ。しかしこのような内職を家でやると孫には小遣いをせびられ、逆に子供からはお金をもらえなくなる。

森さんもバックから超薄手のパソコンをおもむろに取り出し、自身の匿名ブログに囲碁の手筋をアップする。奥にいた他の常連客も小遣い稼ぎに株取引画面をチェックしだした。 

「ハーブと薬の相性はどうだったかしら?」

一区切り着くと、七草さんは急に心配になり、多田さんに聞く。

「大丈夫。SSIDとも向精神薬(両方欝の一般的な薬)でも問題ないわ。」

多田さんの冷静な説明は周囲に安心感を与える。多田さんと七草さんは仲が良く、去年の町内旅行の草津温泉1泊2日の際は、家族には自分たちだけ延長して3日にしたと言って実はシンガポールにいったのだ。それも“マリーナベイサンブーズ”!そう、あの屋上にプールが設置されている最高級ホテルである。森さんにネットで最安値を調べてもらい,人生初の海外旅行に出かけたのだ。

夢のような時間とはあのときのこと。二人ともしばらく家族の前で思い出し笑いをこらえるのに大変だった。うっかりすると認知症とまちがわれてしまう。うっとり七草さんとは多田さんは思い出に浸る。七草さんなどアメリカ在住IT企業家にプロポーズされたのだ。“日本女性”のブランド威力はすさまじい。

「あの時結婚すればよかったのに。もったいない。」

多田はコーヒースプーンをカチャカチャとまわす。

「でもねえ、いまさら新しく生活をつくるというのも…。それにあの方私の年20歳勘違いしていて真実を告げるのが怖くて。」

「愛があれば大丈夫よ。新しい人生というのも悪くないと思うけど。」

多田はガチャンとカップを置く。幼馴染の多田は知っている。七草さんのだんな様がどれだけ素晴らしい人だったか。だが、どんなに良い人だったとしても、生きている人が大切なのだ。多田は病院で死んでいった患者をいやというほど看ているからこそ、そのように考えてしまうのかもしれない。七草さんはその様子をみて、ふふと笑う。二人ともお互いの胸の内がわかっているのだ。この二人こそまるで夫婦だ。しかたなく、

「七草さんって本当に理想の日本女性ねえ。わたしなら即断するわ。」

多田は周りの雰囲気を壊さないためそのように言い、お茶を濁す。周囲の男性達はほっとしている。実はほとんど七草さん目当てなのだ。

「時々FBで遊びに来ないかっていわれるけど…。あの方、日本にも遊びに来たのでしょう?あちらが日本に住めば考えてもいいけど?」

七草はいたずらっぽく笑う。女学生時代から変わらない笑顔。本当は彼女に去られて一番困るのはわたしかもしれない。多田は苦笑いする。

3日も草津温泉と言っても家族は誰も疑わない。ネットで草津温泉のお土産を成田受取りで注文するアリバイ作りもいらなかったかもしれない。家族にとっておばあちゃんの旅行なんてそんなものだ。

ここに集うお年寄りたちはもう十分働き、子育てもやり尽くしたと考える人達なのだ。だからこそ自分の残り時間もお金も自由に使いたい。勿論子供や孫は可愛いが、誰だって本当は自分が一番可愛いのだ。

「いつもはもう少し遅く来られるから、安心していたのだけど…。締め切りもあるし。」

七草さんは済まなそうに小山を見つめる。

「そんなに自分を責めることないわ、七草さん。小山さんは真面目すぎるのよ。少しぐらい休んだほうがいいわ。それよりあと30分くらいよ。急ぎましょう。」

多田は働いていた女性らしい割り切りで対応する。

30分が経過した。小山はようやく眠りから覚めた。「しまった、寝てしまった」小山は慌てて周囲を見渡す。お年寄り達は共犯意識で誰も気づかないフリをする。「ああお年寄りっていいなあ、俺も早く年寄りになりたい。」小山再び伝票入力する。「小山さんはまだまだ青いわ。」多田が目で語る。「年を重ねるのは大変な事なのだよ。」森は首を回しながら応答する。「まあまあ、小山さんもあと数十年すれば気がつくのかもしれないわ。」七草さんが遠い目で微笑みながら答える。

小山が入力を終えた頃、雨はあがり、徐々に夏の青空が広がっていた。

「さて、出社するか。」


木曜日

~木曜日はわりと元気~

「そ、それでは地域の見回り行ってきます。」

ADHDの吉川は母親に教えられたとおり丁寧に挨拶をして課を退出した。看護婦さんとペアで地域の独り暮らしのお年寄りを訪問するのだ。

 「この季節は歩いていて気持ちいいから、

ちょっと回り道しない?」

珍しいことを看護婦井上さんが提案した。「そんなに気持ちいいかな?」と吉川は少し疑問に思ったが素直に従う。実はこの道は井上の通勤ルートで、この先に日赤の募金がある事を知っているのでわざと避けたのだ。

吉川は以前、NPOで募金活動をしていた。彼はその活動で世のため人のためになると信じていた。しかしそのNPOは暴力団が絡んでおり、募金は暴力団の元へ全額ピンハネされていたのだ。皮肉にも障害のある吉川は成績が良く、そのNPOでもてはやされ賞状までもらったのだ。だからこそ事が公になってからの吉川の落ち込みはひどく、誰もが見ていられなかった。そこで母親が別の事に目を向けて欲しいと主治医の推薦状も付けて都庁に応募したのだ。

「障害のある人を使って騙すなんて、許せない!」と井上は義憤に駆られる。

「井上さん、気分でも悪いの?」

吉川に顔を覗かれ井上は我に返った。いけない、気づかれてしまう。それにしても本当に吉川君は優しい。一般的にADHDの患者は優しく繊細で落ち込みやすい。だからこそ私が守ってあげなければ…。井上は看護婦の使命感に燃える。

「三つ子の魂百まで」とはよく言ったものである。「懲りない…。」井上は唖然とした。募金内容を変えてあのNPO団体が一つ向こうの道でまたやっていたのだ。吉川の顔を覗くと、もう遅かった。吉川は気がついていた。井上は意を決し、携帯から警察を呼ぼうとした。その手を吉川は止めた。

「だめだよ、井上さん。こ、これは僕が乗り越えるべき、か、課題なのだ。人に任せてばかりじゃいけないのだよ。誰だって傷つくよ。僕は極端かもしれない。でもママもお医者様も課長もいつか居なくなる。一人で頑張れるようにしなきゃ。だ、大丈夫。」

吉川はひょこひょこと飛び跳ねるように募金の集団へ近づいていった。顔見知りが数人いて、吉川に気がつき、ぎょっとして振り向いた。いつのまにかお互い対峙する形になっていた。

「み、みんな、だめだよ。」

吉川がどきどきしながら語りだす。するとざわつく集いの中から、一人髪型がわざとらしく整えられている男がおもむろにちかづいてきた。

「なんだね?」

一番会いたくない元締めのヤクザ上がりのNPO主催であった。さすがに眼光鋭い。

「こんなことしていたらバチが当たるってママが言ってい、いました。」

「なんのことかわからないな~ああ!」元締めは吉川をからかうように顔を覗き込む。目は笑ってない。

「だめなのですう~」吉川は体をガクガクさせて言った。あかん、完全に飲まれている。暴力は良くないが…しょうがない、と井上が空手の構えを整えようとすると、吉川は以前の仲間がまだやっているのをみて、前にふみだした。

「本当にいいの?そんなこ、ことばかりしていて、みんな本当はまずいって分かっているでしょう。真面目に働こうよ」

仲間のうち話好きの女性達がたまらなくなり吉川に向かう

「だってもうここしかないのよ。」

「あなたはいいわよ、居場所があって。」

「そうじゃない!」吉川は叫ぶ。

別のボランティア団体だっていいじゃないか。

最近はマックもロウドウカンキョー?だっけ?カイゼンされたと近所のおばさんがいっていたよ!僕あんな決まった通りに手早く動くなんて出来ない、途中で飛び跳ねちゃうし。みんな、出来ることいっぱいあるじゃないか。またやりなおせばいいのだよ。」

「そんなの無理。」

女性ボランティアがポツリとつぶやく

「なんで?」

吉川が下から覗き込む。

「私職場の人間関係がうまくつくれないの。どこの会社にいってもお局さんにいじめられちゃうの。」

「ど、努力だよ、少しずつ打ち解けて。」

「いいえ、分っているの、自分のどこが駄目か。…私観察したことを正しく伝えてしまうの。つまりお世辞がいえないの。」

 吉川も井上も言葉を失っていると、隣にビラを手にした育ちのよさそうな青年がうなずきながら話し出した。

「リケジョはつらいよな。僕はコンビニで働くと医師の父の顔に泥を塗ってしまう…。折角医大出てもメスを持てずにメンス用品の補充かよって…。でも、どうしても手が震えて持てなかったのだ。家には帰りたくないけど、血を見るのがいやで非行にも走れなかった。吉川君、君は恵まれているのだよ。」

最後にめがねをかけ、ポロシャツをジーンズにシャツインしている男性がうつむきつつ言う

「僕は早慶大を出ているのだ、そんな所で働けないよ。」

「仕事に貴賎はありません!」

井上は思わず声を荒らげる。早慶男はぎょっとして後ずさりをした。ええい、情けない

「井上さん、だめだよお、怒ると迫力あるのだから。」

ぎくっつ。まだ空手2段とはばれてないはず。井上は引きつった笑みを浮かべつつ

「そ、それでは資格を取れば」

と薦めた。それを聞きリケジョはため息混じりに答える。

「資格をとってやり直そうと考えた事もあったわ。でも…弁理士の兄は年収200万です…」

「もう駄目なんだ、大企業リストラされたら行く場所なんてないんだよ」

わっと泣いてかがみこむ元早慶大卒。人間どうなったって生きていけるわい!いい大人がなにを…と井上が叫びだしそうになったとき、吉川は彼の肩を抱く。

「だ、大丈夫、やり直せるよ。ぼくだって、で、できたのだ。最近ラインもつかえるようになった。なにかあったら、連絡してよ。」

「吉川君…」

周囲もその光景をみて泣き崩れていた。本当は皆、居場所がほしかったのだ。井上はそこまで分かっても合点がいかない。「居場所なんてバイトをしたり働きだせば勝手にできるのでは…。」井上ははっとする。ここの人達って、どこかで見た人たちと…そう、研修で参加した、引きこもりサークルの人達に似ている…。周囲にどうやって溶け込んでいいかわからないのに、自分から声をかけられない。その上相手の言う事を何でも悪く取ってしまい、流すこともできない。ようは他者の言動に過敏に反応してしまうのだ。

「あの、私、皆さんのような人達、知っています。」

井上の言葉に皆振り向く。

「あ、皆さんのような人達って言い方失礼ですよね。皆さんように繊細で過敏な方々(たしか批判しちゃいけなかった、危ない)最近は増えているのです。ネーミングに問題があるかとい思いますが(いや君たちはそのまんまだよ)、市役所は“引きこもり復職プログラム”という名前で皆様のような繊細な方々(気を使うって疲れるなあ)を対象とした企業もありますよ!。」

「でも、わたしなんか…。」

「怒られないかしら…。」

(それどころじゃないでしょ!)井上呆れ顔になるのを必死で抑え、

「大丈夫ですよ、皆さんに理解ある方々や企業はたくさん居ます。都庁でも毎週水曜日午後から復職説明会、と、これは産業医対象でした。なにか有益な情報を得られたらお知らせしますから、えっと私のノートに携帯のアドレスを書いていただければ連絡いたします。(ここはいったん引いて)無理に来なくてもいいですから。来たいときにお越しになれば大丈夫ですから(私もだんだん慣れてきたなあ)。」

募金活動をしている人たちは、はじめは数名がおずおずと記入し、そのうちに井上の前に復職関係のメーリングリストに参加したい人であふれかえってきた。記名が終わると彼らは以前よりほっとした顔をし、募金セットを整理して家路へと向かっていく。

「おい、みんなどうしたんだよ」

やくざの元締めの言葉は既に彼らには届かない。皆、居場所が欲しかっただけなのだ。そして、ああしてこうして、と指示してくれる人が欲しかったのだ。

「おい、金稼ごうよ!沢山募金すれば、こ、今度は賞金もつけるぞ!」

元締めはあわてて呼び戻そうとするが、皆の心にはスルーしてしまう。元参加の顔には何も分かっていないという燐便の表情さえ浮かんでいた。しかし本来哀れまれるのは元参加者のはずだが。

 誰も居なくなった広場でやくざは呆然と立ち尽くす。

「君も、やりなおせるよ」

吉川が肩を抱こうと瞬間、憤怒の表情でやくざは振り返った。

「お前が来てなにもかもおじゃんだ、どうしてくれるのだよ!」

「吉川君、こんな人に理解求めたってしょうがないよ」

「井上さん、そういう考え方は良くない…。」

「理解もへったくれもあるか!」

やくざが吉川を殴りつけようとした刹那、井上はやくざの腕を捕まえ、背中に回す。

「な、なんだぁてめえ、いて」

そして…。

「…やりすぎちゃうのですよ、井上さんは。」

「すみません」。

道場で顔見知りの管轄の警官が呆れ顔でつぶやく。吉川が咄嗟の機転で井上の乱闘を止めるため呼んだのだ。

「まあ、今回は相手が悪いので、上には報告しないでおきますよ。それに、彼の顔も立てないとね。」

吉川の誠意をこめた謝罪は結構効くのだ。運よく無罪放免になったが、井上の心中は複雑であった。とにかく訪問介護を終わらせないと、としょんぼりしていると、吉川は、自分ひとりで終わらせるからいいと答えた。

あれ、私、吉川さんに甘えている?今回、吉川君に守られた。彼はトラブル処理能力といい、立派な大人の男だったのだ。私は彼を子供扱いしていたのだ。だが実際の所、彼のほうがずっと大人であった。

つまり、彼は自立した社会の一員だったのだ。それなのに私の中に善意と言う形で偏見が形づくられていたのだ。これは…。私の看護婦としての大いなる課題だ。

さて、戻るか、会社に。

金曜日

~金曜日はHAPPY~

山田課長は淡々と仕事をこなす。定時出社、定時帰宅。管理職としてはこの上ない待遇である。彼は自分の処遇になんの不満もない。

妻と二人の夕食。妻は庭木の話をぽつりぽつりとする。山田はうんうんとうなずく。特に多弁なわけではないが、話をしないわけでもない。よくある50代後半の夫婦だ。2年前、前立腺がんのため摘出し夫婦の関係はないが、その数年前からそのようなことはなかったし、自分でもそんなものだろうとわりきっている。妻も同じだといいのだが。幸いにも特に不満には見えない。それどころか、味噌や野菜を多く使った料理を増やしてくれたりと気を使ってくれている。妻のためにも定年まで生き続けて遺族年年金が支給されるのが山田のささやかな恩返しと思っている。いたって良好な関係の夫婦である。

食後、自分の多くはないが預金、残ると処分に困るような遺品整理を淡々とこなす。医師は大丈夫と言っているが、本当のところは分からない。わざとそう言っているのかもしれないし、突然の体調変動とてあろう。いきなり体が動かなくなると家族に迷惑がかかる。かれは職場でも家でもひっそり淡々と、典型的昭和の日本人サラリーマン(寡黙系)として生きてきた。以前の職場は中堅の電機メーカー。ガンサバイバーが34万人を越す現在だが、たとえ彼のように職場に静かに豆まめしく働くタイプであっても継続して働き続けることは難しい。もっとも彼は自分の考えを表情に出さないので不満か満足か誰も分からない。

隣の部屋でラーメンをすする音がする。彼の息子である。3日前、トイレに行った時すれちがい、やや青白い顔を見たきりだ。いわゆる、引きこもりなのだ。

引きこもりは甘えだ、厳しくといった精神論は意味をなさない。父親が病気になったからといって、治るわけではないのである。あの子の事は死ぬ前になんとかしなければ。妻にだけ苦労を残すわけにはいかない。

翌日、山田は職場を前半休にして検診に向かった。最近は血液検査を受けて1時間で医師の診察を受けられるようになった。医学の進歩はすごい。

山田が時間つぶしに喫茶店に行くと、見慣れた顔が見えた。声をかけようとした山田は、その手をすぐ下げ、観葉植物の後ろに身を隠した。あれはまさか…。壁際の絵のそばのテーブルに座っているのは妻の比沙子だった。妻が喫茶店にいることぐらいは何の問題もない。問題は、向かいが若い男だということだ。

「じゃあこれで」

なにやら分厚い封筒が妻の手から若い男の手に渡る。30代、働きざかりに入りたてといったところか。まだ歯は入れ歯では、それどころか白髪もほどほど。一体あれは何者だ。

山田は薬をもらい忘れて途中駅で戻ってから家に戻った。

「お帰りなさい、今日は遅かったわねえ。」

妻はいつもと変わらず夕食の準備をしている。しかし、そのいつもの夕食が、自分にとっていかに幸せな時間であったかに山田は気がついた。

「比佐子、今日どうしていた。」

 比沙子は端をとめて山田を見つめる。その視線が痛い。

「珍しいわね、あなたの方から質問なんて。あなたこそどうだったの?」

「あ、検査結果?いつもと変わらないよ。」

「そう?」

いかん、これで会話が終わってしまう。それにしてもいつからだ?こんなに話さなくなったのは…昔からだ。山田は比佐子の若い男と話すときの生き生きとした表情を思い浮かべ暗澹とした気持ちになった。タブレットなんかいじって嫌味な奴だった。

妻の外出日は分かり易い。前日に衣服の準備をして、アイロンをかけておくのだ。もちろん山田のスーツも同じように毎日準備されている。バレバレではないか。その妻が、まさか…。妻が衣服の準備をした翌日、会社には急な検査が入ったと言い訳をして妻を尾行している自分がいた。俺は何をやっているんだ。ばかな、と思いつつ先日の喫茶店に再び入る妻を見て、山田は動揺を隠せなかった。あの若い男と話している。山田は意を決し肩をいからせて出来る限りの威厳を保ちつつ近づいていったー。


「しゅ、出版?」

「比佐子さんのブログでの株予想は大人気なのですよ。なんと言っても説明がいい。素人にも分かりやすい理論を駆使されている。ここ数年は英訳もされているのです。それで、ぜひ出版を。」

「ほめすぎですよ、編集長。それに英語は息子が・・・。」

比佐子は誇らしげに、ほんのり頬を赤らめた。

「お前、確か大学は文学部だったよな。」

「ええ、文学部図書館情報料よ。」

勉強熱心な彼女は最新の図書館情報学のプログラムを学びなおしてブラッシュアップしている。そのプログラムは学際的であり、情報科学や旧来の図書館学の領域のみならず、様々な社会科学や統計学、システム分析などの領域と重複する。そこから株に結びついた。

ここからは息子の入れ知恵で、最新のエコノミストというふれこみでブログをアップ。当初戸惑っていた妻も、閲覧数が増えるにつれ段々乗り気になり、息子は更に翻訳し、今ではいっぱしの有名ブローカーとなった。

「お前達、いつから株式取引をしていたのだよ。」

ダイニングテーブルにて久しぶりに親子3人が会した。

「5年くらいまえかな、リーマンショックがひと段落してから。私って小心者だから、はやっているときには飛びつけないの。」

株式取引としては最上のタイミングではじめたのだ。そして息子は株のため米国の情報を仕入れる作業をし、時差ボケで昼間寝ている。更にブログの翻訳が縁で息子はブログ仲間の友達が出来て、2ヶ月月に1度くらいは皆で会食するらしい

「外に出ると、隣のおばさんにぎょっとされるけどね。」

息子は苦笑交じりに話す。

「いいじゃない、貴方がたのしければ。」

比佐子はゆったりとした口調で話す。

時々コンビニにもいっていたらしい。また、言葉に対する完成が鋭い(がゆえに寡黙)繊細な彼は絵本の翻訳を頼まれるようになり、最近ではファンクラブがネット上にあるそうだ。山田の知らない世界である。

「…何で今までいわなかったのだ!」

山田が喜ぶべきか怒るべきかもう分からなくなり混乱で頭を抱えながら聞く。息子は頭をかきながら、

「いや、別に隠していたわけではなかったのだけれど、タイミングをのがしちゃって。」

「そうなのよね、家族だと、つい。」

比佐子がかばう。段々腹が立ってきた。

「でも翻訳の世界は難しいだろう?今自動翻訳とかいろいろあるらしいし。」

「いや、だからこそ人の手を解した血の通った言葉が大切なのだよ。心配かけてごめん。でもちゃんと生活成り立っているよ。貯金もしている。ひきこもりのときは落ち込んでばかりいたけど、もう昔の話だよ。今は彼女ができて、あ、彼女はタスマニアで研究しているのでちょうどリアルタイムでメッセージ送っているよ。」

か、彼女なんていたのか?じゃあ、俺の心配は。いやそもそも俺の存在意義は…。そんな山田の心中を察したのか、

「ねえあなた、あなたがいてくれるから私好き勝ってできるのよ。病気になったから、自立も考えることが出来たわ。だって、みんな与えられた環境でしあわせでいるようにしないと、ね?」

晴れやかな笑顔で比佐子は言った。そうだ、この笑顔だ。あくのない、澄み切った青空のような笑顔に一目ぼれしたのだ。

「大分貯金も増やしたし、あなたは何も心配せず、療養に専念してもいいのよ。」

「は?」

「辞めても大丈夫よ。でも仕事があったほうが生きがいは」

「あたりまえだ!一家の大黒柱だとおもっていたのに、ひどい。」

「ごめんなさい、言い遅れたのは、心配を駆けたくなくて。」

「おいおいお袋ばかり責めるなよ。親父だって俺のこと引きこもりと決め付けていたのだろ。単に生活時間帯があわなかっただけなのに。そっちの方がひどいぞ。」

「あなたは馬鹿ねえ。大体貴方の場合、前立腺肥大症でみつかったから、がんのステージも上がらず、予後なんて100パーセントなのよ。こういってはなんだけど、病気前は同僚と焼肉食べ歩いたり…いいわ、今更言ってもしょうがないわ。」。

 段々雲行きが怪しくなってきたので山田はもう黙ることにした。しかし今夜は珍しく話したな。

 明日は、行かないとな、会社に。

~土曜日はみんな一緒~

「相変わらず古藤さんは遅れているなあ。」

安部は貧乏ゆすりをしながら盆踊りに使う広場前で皆の点呼をとっていた。

「まあまあ、主任、古藤さんは準備時間開始には現れますよ。」

ADHD吉川は場の雰囲気に気を配る。

要領がよければいいってもんじゃねえ!再び叫びたくなる阿部であった。でもまあ、今週の勤務態度はまあまあであった。

今回の祭りの目標は“怪我なく事故なくそこそこ楽しく”。よって火は極力使わない。段差をなくし、お年よりや小さな子供の安全に配慮をし、お店は整理整頓するよう指導、配置もわかりやすい。お祭りにつき物のテキヤは入れず、町内会のみでお店を出す。ただし例年と変化をつけるため、ゲームセンターに協力をあおり、プリクラを設置する。

「あんまりわくわくしないわねえ。」

 古藤さんがぶつぶつ言いながら現れる。

「こ、古藤さん、聞こえますって。」

吉川は焦る。安部の無言の怒りが背中から伝わってくる。欝の小川は

「ごちゃごちゃしていると気が滅入ってくるからこれぐらいがいいです。まるで僕の部屋みたいだ。片付ける気力がなくて…。」

…それはフォローになっているのだろうか、と、古藤と吉川は顔を見合わせる。

「おお、吉川君、すまない、道を広げるためすこし屋台をずらしたいのだ。力を貸してあげておくれ。古藤さんは小石を拾って子供が走り回っても怪我をしないように。」

山田課長が指示してくれたおかげで場の雰囲気が変わる。皆ほっとして準備を開始した。

お祭り中はトラブルが起きないように持ち場を離れられない。業務なので楽しむ余裕はない。といっても、綿飴をなめている子供や孫のシャテキをうれしそうにながめているおじいさんをみて、なんとなく心がなごむ。さらに、例の募金集団に仕事を割り振った。社会復帰の訓練として、お祭りの誘導係のバイトをさせることになった。

「大丈夫ですかねえ。」

吉川は不安そうだ。同じ配置の井上は励ます。

「大丈夫、なるようになる!」

「井上さんは気楽だなあ…。」

吉川は不安そうだ。だが段々とお祭り全体をやさしい空気が包んでいった。ゲーセンでスリルを味わっている若者も、たまにはこういうのもいいか、と穏やかな空気を感じ取り、恒例の乱闘騒ぎ(神社の階段で女子をもめて頻発する。)も今年はなかった。町内会というより子ども会のような雰囲気でお祭りは特にトラブルもなく終わりを迎えた。

翌朝、アンケートを集計していると意外にも評判がよかった。毒のない出し物は子供家族連れ、そして実は有暇人口の多数を占めている老人の出足を広げた。更に例の募金集団はお年よりに感謝された事に感動し、介護の道に進もうという人が数名出てきた。

「進路が決まってよかったですね。」

弱者を考慮したお祭りがいい方向にまとまったのだ。そうなのだ、どんな人でも結構使い勝手はあるのだ。

「それじゃあ、打ち上げといくか!」

阿部は威勢よく切り出す。

「でもアルコールは欝には…。」

小川がつぶやく。

「じゃあ、無印良品のレストランで食べようよ!」

古藤の提案で即決した。なんとも打ち上げにふさわしくないが、これでいいか。そういえば今日はノー残業デーだ。

さて、出るか、会社を。




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