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フェアリー・テイル

作者: 水野 洸也

 妖精のように跳ねて歩く女の子がいた。


 おそらく高校生なのだろう。朝八時頃の駅、プラットホームの椅子に座ってぼんやりと前方を眺めていると、視界の隅っこから突如としてその子は出現したのだ。まるで演劇において、争いを鎮める大いなる神が檀上に登場するみたいに。現に僕は最初、彼女のことを女神か誰かかと勘違いした。あまりにもきらきら輝いていて、直視することもおぼつかなかったからだ。だがよく見てみると、彼女はきちんと高校生らしき制服を着ている。少し短めのチェックのスカートを履き、青いリボンを胸元で咲かせ、紺色のブレザーを身につけている。黒いソックスは膝下数センチのところまで覆っており、伸び伸びした両脚はやけに素早く動いている。百人中、きっと百人全員が彼女を学生だと思うだろう。それくらい彼女は若々しく、いかにも学生といった雰囲気だった。ただ、最初のうち、彼女の姿をはっきりと捉えていたわけではなかったから、それで彼女が女神だなどという錯覚を起こしてしまったのだ。無論、その学生服を見てからは、もう彼女のことを女神だと思ったりはしない。けれど、初めて彼女を目撃したとき、彼女を現実には存在しないようなものとして認識してしまったことは、れっきとした事実だった。僕はそれを否定したくなかった。なぜなら、僕の彼女に対するそういう評価は、たとえ多くの点で間違っていたとしても、ごくわずかな部分において真理を語っているとも思えるからだった。


 夏も、冬も、ほとんど毎日のように彼女を見かけた。これは偶然などではない。彼女と僕とは、同じ時間の同じ電車を常に利用しているのだ。一寸の狂いもなく、まるでその電車以外に乗ることが禁止されてでもいるみたいに。だからこれほどに僕たちの出会いが続いているのだろう。それにしては多すぎだとは思うが。同じ電車に乗る、とはいっても、気分の違いによって、乗り込む位置は違ってくるはずだ。今日は前の方の車両に乗ろう、とか、中央あたりでいいや、とか。しかし彼女は(ここに僕を加えても何ら差し支えはないだろうが)、そのような変化とはまったくの無縁だった。僕たち二人は常に同じ時間、同じ場所で電車に乗るようだった。それは季節が変わっても、気分が変わっても、決して変わることがない。彼女はいつも、同じようなタイミングで、ホームで座っている僕の目の前を、ぴょんぴょん跳ねるようにして通り過ぎていった。


 そのあとは、わからない。目の前を横切ったことははっきりしている。それから彼女がどこに行って、何をしているのかについては、不明確なままだ。ここS駅の三、四番線ホームは、通勤時間帯はわりに混んでおり、ピーク時にはずらりと並ぶ人々の行列を見ることができる。僕のいつも乗っている七時四十四分の快速電車も、乗る人はたくさんいる。プラットホームは僕と同じスーツ姿の会社員や、元気な学生たちなどで埋めつくされてしまう。女の子はそんな中を飛ぶようにして行き過ぎていき、あとは人ごみに紛れて行方がわからなくなってしまうのだ。待ち合わせている友人でもいるのかもしれない。あれだけ楽しそうなのだ、きっとすごく愉快で気の合う仲間が彼女の行く方向に控えているのだろう。あるいは、待っているのは彼女と付き合っている男かもしれない。僕なんかとはくらべものにならないほどに格好がよく、背の高い人物だ。彼女はだからあんなに嬉しそうに飛び跳ねて移動しているのかもしれない。そういう可能性も、なくはないと思う。なにせそのあとの彼女の動向がわからないから、いくらでも仮説を立ててしまえるのだ。


 一度ならずも彼女をストーキングしてみようと思ったことがある。飛び跳ねる彼女の後ろからそっと近づき、その詳細な行方を探るのだ。僕はストーカーの技術についてはほとんど知らないし、その行為自体に嫌なイメージを抱いていたので、多少のためらいは感じた。それに、僕はもう社会人だ。ある女学生のことが気になるから後ろを追ってみようなどとは、普通あまり考えないだろう。にもかかわらず、僕は最終的には、ストーキングを実行した。まるで入ってはいけないとさんざん注意を受けている洞窟に、意地でも入りたくなってしまうように。そういうわけで、僕は勇気の湧いた日に限って、そっと彼女のあとを追うようになった。


 しかし、何度もチャレンジしていることからもわかるように、ストーカーは成功しない。彼女の行く先に何が待ち構えているのかがいつまでも判明しない。なぜなら、毎回何かしらに邪魔されてしまうからだ。あるときはでっぷりした体を持った巨漢が、行く手を阻んできた。左へ行こうとしても、右へ回ろうとしても、通ることがどうしてもできないのだ。巨漢は僕の方を、飛びまわる蠅でも眺めているかのような目つきで見ていた。僕はその視線に耐えることができなかった。本気で、手の平で叩かれるのではないかと考えていたからだった。結局ずいぶんと大回りをしなくてはならなかった。もちろん、彼女がどこに行ったのかを知ることはできなかった。またあるときは、わけのわからない稚魚の群れみたいな男子高校生が僕を取り囲むようにして陣形を張り、僕の進もうとしている道を遮ってきた。まさかそんなことが起こるはずはないと思えるのだが、でも実際にそれに近い状況になったのだ。彼女を見失わないよう慎重に歩みを進めていると、一人の男子高校生が正面に立ちふさがった。僕はそれを避けようとして、左にずれた。すると今度は、その男子高校生の影から別の男子高校生が現れて、進行を邪魔してきた。また左にずれる。また男子高校生が現れる。それが繰り返される。そしてもう左にずれることができなくなったところで(もう一歩横に踏みだせば、線路に落ちてしまうことになる)、迂回しようとして後ろへと下がる。そうしたら、またもや似たような背格好の男子高校生が出てきて、僕の前にすっと立ったのだ。それが続くうちに、僕は自分が何か得体の知れない集団に取り囲まれているのではないかと思われてきた。彼らが何をしようとしていたのかまではわからないけれど、僕にとって不利益なことをしようとしていたことは確実だ。ちょうど電車が到着して、ぞろぞろと彼らがそれに乗ったことで危機は回避できたが、電車の来るのがもう数分遅れていたら、僕はどうなっていただろう。僕はその日、電車を一本遅らせざるをえなかった。


 自分でもタフだなあと思う。いろいろと変な目にあっても、めげずに女の子の行方を追い続けているのだから。でもそれは、多くの繰り返しの作業に見られがちなように、最初のうちは意気揚々として、やる気も充分にあったのだが、途中からだんだんと熱意が薄れていき、十回目かそのくらいで、ストーキングは義務的なものになっていった。巨漢やら男子高校生やらに邪魔されても、そこを潜りぬけて彼女のあとを追おうという気にはなれなかった。邪魔されずにいられる幸運な日を待つだけになったのだ。もしも、歩いている途中において、これまで妨害を行なってきた者たちの影が見え隠れでもしたものならば、すぐさま身を引くようになった。


 結局のところ、僕は彼女にストーカーをしてはいけなかったのかもしれない。それはきっと、運命の許さないことなのだ。運命は変えることができず、僕はそれに従うことしかできない。運命を変えようとしても、必ず軌道修正がなされる。断念する、ということしか、僕の選択肢には残されていないようにも感じられた。


 でも、僕は続けてしまった。何の精神的歓びもなく、調子もすっかりくじかれてしまったが、それでも彼女の行方を追い求めた。何度も何度もストーキングを行なった。そのたびに邪魔が入った。あの巨漢やら、男子高校生の群れやらには幾度となくこらしめられた。余計な真似はするなと彼らは目で語っているようだった。お前はおとなしく、平和で何も起こらない日常生活を送ってさえいればいいのだ。会社に行き、仕事を済ませ、寝る。それだけを繰り返していれば、わざわざ俺たちの出てくる必要はないのだから、それでいいじゃないか。そういう言葉が、彼らの鋭い眼光から伝わってきた。にもかかわらず、僕はストーカーを続けた。季節が巡り、春になった。どれほど季節が変わったところで、僕の生活スタイルは変化を見せなかった。初めて彼女に会ってから一年半ほどが経過したが、女の子は相変わらず、僕の目の前を飛び跳ねるようにして通り過ぎていった。


 彼女に直接、声をかけてみようと何度思ったかわからない。目の前を横切る彼女を呼び止めて、親しげに挨拶を交わすのだ。ただ思うだけで、実行に移そうとは絶対に考えなかったが。それは僕がとっくに成人しており、どこからどう見ても社会の波にもまれているサラリーマンであり、そんな僕が女子高生に朝から声をかけるということは、いろいろと問題を含んでいるせいでもあった。運が良ければ、無視されるだけで済むだろう。しかし、もしもそのときに悲鳴を上げられたりしたら、僕はどうなるのだろう? そんな過剰とも言える心配もあって、ずっと実行できないでいた。思いとどまっていたのはきっと正解だ。声をかけてみたところでどうなるというのだ。彼女と仲良くなろうとでもいうのだろうか。そんな夢はさっさと捨てて、彼女の通る場所に二度と近づかなければいいのだ。そうすればもう彼女について思い煩わされることはなくなる。僕は晴れて、もの思いの一つから解放されて、もう一つのもの思い(つまり会社だ)に集中することができるようになる。


 彼女になんと声をかけたらいいのかも問題だ。「おはよう」とにこやかに挨拶したとしても、それで相手をますます警戒させてしまうのがオチだ。「元気にしてた?」と、かつての知り合いを装うのはいいかもしれない。相手は記憶力に自信がないかもしれず、私の憶えていない知り合いが声をかけてきたのかしら、と勘違いをさせることができるからだ。しかし、そのあとが困る。この場合、僕は彼女と話すあいだ、ずっと彼女の知り合いというていでいなければならない。嘘はいつか絶対にばれてしまう。ばれてしまったとき、少なからず彼女を傷つけもするだろうし、僕自身も大いにへこむ。嘘をつくのは得策とはいえない。では、僕はどうやって彼女に声をかけたらいいのだろう? 一週間、この問題について悩んだ。でもいい考えはまったく浮かんでこなかった。


 本当に諦めるべきなのかもしれない。五月の澄み切った空気を吸いながら、僕は思った。僕は彼女とは縁がなかったのだ。それも相当に強く、反発し合っている。僕と彼女との出会いは、いわば二つの歯車の連結部分に入りこんだ異物みたいなものなのだ。それが歯車の円滑な回転を阻害している。おかげでこれまで滞りなく回り続けていたものに狂いが生じる。その異物を取り出さないと、ものごとが順調に巡らなくなる。だから、これほどしつこく邪魔が入るのだろう。早く断念してくれ、でないと次はもっと痛い目にあわせるぞ、と彼らは言ってきている。僕は暴力は嫌いだ。誰かにいじめられたりはしたくない。だからここは、いさぎよく、きっぱりすっぱり彼女への想いを断ち切るべきなのだ。


 しかし、どれほど決意をみなぎらせたところで、僕の行動は変わることがなかった。僕は相変わらず同じホームの椅子に座って、左から右に通り過ぎる妖精みたいな女の子を眺める。そして彼女のあとをついていこうとする。変な男に阻まれそうになる。僕は去る。電車に乗り、外の景色を眺めながら、今日もうまくいかなかったなと思う。それら一連の行為が、淡々と繰り返されていった。




 五月があっという間に過ぎ、六月にしても風のように去っていき、七月に入った。高校生にとってはお楽しみの、夏休みの到来する時期がやってきたのだ。でも、学生たちが休みに入ってしまえば、駅で彼女を見かけることはなくなってしまう。それはすごく残念なことだった。去年の夏もそうだったから、今年の夏もきっとそうなることだろう。むっとした空気を吸いながら、僕は密かに嘆く。今日は七月九日。そろそろ彼女が目の前から消えてしまう。それを思うと、身体は一挙に重くなるのだった。


 それからの一、二週間はやけに早く進行したような気がする。明日が来て、そのすぐあとで明後日が現れて、何の爪痕も残さないままに通り過ぎていき、次の日が手を振ってくる。時間という魔物は恐ろしいものだ。こんなに時間のことを恨めしく思ったことは今までにない。駅で見かけるあの妖精のような女の子も、気のせいか少し歩くスピードを速めているようだった。邪魔をする者たちも、いつもより何だか張り切っているようだった。まるでこれで仕事納めだと言わんばかりに。去年の夏はここまでひどくはなかったはずだ。今年に限って、色々なものが僕に意地悪をしてきているみたいに思えた。気がついたころにはもう、七月の中旬が終わろうとしていた。


 今日が金曜日で、明日から三連休だ。ということは、明日から実質的に夏休みが始まることになる。そうなれば、あの女の子の登校時間と僕の出勤時間とにずれが生じて、彼女を見かけることがなくなってしまう。何か、とんでもない偶然が起きてくれれば、彼女に会えるだろう。たとえば彼女の所属する部活動の開始時間が、偶然平日の登校時間と同じだった、だとか。あるいは友人との待ち合わせが普段と同じ時刻だった、だとか。だが、去年は一度も出会うことがなかった。だから、今年の夏も同じように過ぎていくのだろうなと思っていた。そのせいで、ここ最近、僕の夏の営業成績は著しくダウンしている。病は気から、とはよく言うが、まさしくその通りだとこのときほど実感することはちょっとなかった。


 とにもかくにも、たとえ女の子がいなくとも会社には行かなくてはならないから、夏休みに入ったあとはほとんど亡霊のようにして日々出勤した。自宅の窓から太陽の光が差し込み、急いで支度をし、車で自宅近くの駅まで行く。それから各駅停車の電車に乗り、そこで十五分ほど揺られ、乗り換えのためにS駅で電車を降りる。一、二番線ホームから三、四番線ホームへと移動し、そこで女の子を待つ。待つあいだはずっと外の景色を眺めている。そしてついに電車がやってきてしまうと、今日はいなかったな、明日はいるだろうか、という落胆した気持ちを抱きながらそれに乗り、会社へと向かう。夜の八時頃に会社から解放され、同僚と途中まで会話をしながら帰宅をする。簡単な夕食を済ませ、風呂に入り、しばらくテレビを眺めたあと、眠りにつく。そういう生活が一か月ほど続いた。女の子は一向に現れなかった。


 この期間はそれが当たり前なのだから、それはそれでいい。しかし、自分でもわからないうちに、彼女への恋慕というか、それに似たような気持ちが、いつのまにか極限まで高まっていたらしかった。去年までは我慢がきいた。彼女への想いにセーブをかけることができた。彼女と仕事とを混同させることもなかった。けれども今年は違う。いつまでもいつまでも彼女との接点を持つことのできないおかげで、今の僕は二週間ほど性欲を放出できていない男子中学生並みに、奮い立ち、狂い立ち、苛立ち、そそり立っている。これほどまでに女性に執着するのは生まれて初めてかもしれない。若い頃、とはいってもほんの五、六年前にすぎないのだけれど、その頃は僕だって、人並に経験は持った。何人かの可愛い女の子と知り合いになったし、そのうちの二、三人とはさらに深い関係も持った。今だって、その気になれば、誰かしらと付き合うことは可能なのだろう。実際僕は、あの女の子に出会って以来、三人の女性と付き合った。彼女たちはみんな優しくて、自分の意見をしっかり持っていて、親しみやすく、好感も持てた。彼女たちと将来を共にするのも全然悪いことじゃないと(おそらく)本気で思っていた。


 でも、彼女たちと長い期間一緒にいることはできなかった。彼女たちと一緒にいると、どうしてもあの妖精のような女の子の姿が脳をよぎってしまう。そこで僕の思考は一時中断し、付き合っている女性が隣にいることすらも忘れてしまう。そこで交わされていた会話が止まり、女性からしたら大変気まずい時間が流れる。彼女たちの話によれば、僕が「止まる」時間は、おおよそ十分ほどだという。そのあいだ、何を話しかけても、まったく応答がなくなる、と彼女たちは口をそろえて言った。僕にはそのあいだの意識が文字通り飛んでしまっているから、彼女たちの話をそのまま信じるしかなかった。どうして十分間なのだろうと頭をひねってみるが、よく思いだしてみればそれは、S駅で彼女が僕の前を通り過ぎるのを待つ時間と同じだった。つまり、「止まる」発作が起きると、僕は一時的にその場を離れて、僕の頭の中だけに存在している仮想空間において、あの女の子が来るのを待つことになるのだ。そばにいる女性のことなどまるっきり無視して。そんな調子で彼女たちとうまくいくはずもなかった。彼女たちは僕のことを異常者か何かと思い、自然と距離を置いていった。僕の携帯にはまだ彼女たちの連絡先が残っている。でも、それを使おうとはとてもじゃないが思わなかった。そして彼女たちにしても、もうこちらに連絡を送ってくることはないのだろう。もう僕のことなんて、すっかり忘れている可能性だってある。彼女たちの携帯に、僕の連絡先が残っている可能性は、ほとんどないだろう。ほんの一時いっときで終わってしまった関係だけれど、それもまた、運命によって固められた、予測可能な結末だったのかもしれない。僕があの女の子に囚われた時点で、僕はもう、どうしようもなくなってしまったのだ。


 八月十九日、八月二十日。僕は待ち続けた。でも女の子は現れない。ただ、彼女とは似ても似つかない面立ちの人間が通り過ぎるだけだ。彼女のように、跳ぶようにして歩く人なんていない。単なる女子高生ならば何人も見た。けれど、彼女たちはあの女の子の持っていた、幻想的で、ちょっと現実離れした、ふわふわした感じは、まったくと言っていいほど具わっていなかった。みんな歩き方は堅実で、重々しい。コンクリートの地面に耳を当ててみれば、彼女たちの足踏みが竜のいびきみたいに聞こえてきそうだ。彼女たちはだいたい数人で行動しており、場合によって制服だったり、ジャージだったりした。耳にきいんとくる会話を交わしており、どのグループであれ、話している内容に大差はなかった。数人の役者が服装を変えて僕の前に現れているのではないかと疑ってしまったほどである。彼女たちの話は、別段害があるというわけではないのだが、彼女たちが近くにいると、どうしても妖精の女の子のことを想ってしまう。そんなときは決まって椅子を離れ、夏のもやっとした空気を胸いっぱいに吸い込むのだった。


 一度だけ、あの女の子にすごくよく似た女の子を見かけたことがある。あれはたしか、八月の十日頃だった。その日もいつもと同じように、駅ホームに並ぶ椅子に座っていると、懐かしい感情が瞬間的に僕の身体を流れていったのだ。はっとして頭を上げてみると、僕の正面に、彼女と雰囲気のそっくりな女の子が立っていた。けれど、彼女をまじまじと見てみると、あの女の子とは明らかに違うことがわかった。まず髪の色が違う。その子の髪は薄い茶色に染めてあった。制服の柄も違う。スカートの丈も少し違う。手提げ鞄にしても、趣味がまったく合致していない。あの女の子であれば、あんなにたくさんのキーホルダーを飾りつけたりはしない。さらに、ある重要な点で、彼女はあの妖精の女の子とは違っていた。彼女は僕の目の前に立ったりはしない、ということだ。その事実によって、僕はひとまずは幻から解き放たれた。けれども、一時的にとはいえ勘違いしたことは事実で、そのショックに翻弄されたのか、その日はほとんど仕事が手につかなかった。営業先から、さんざん怒鳴られた。今にして思えば、ささやかな夏の思い出といったところである。


 そうしているうちに、とうとう八月三十一日がやって来た。明日は平日だし、高校の登校日だ。僕は興奮した。ここまで我慢した甲斐があったな、としみじみ感じていた。このときには僕は、栄養ドリンクを一日に数本飲まなくてはやっていけないような身体になっていたが、いよいよ明日だと思うと、元気がみるみる出てくるのだった。彼女の姿を拝めるようになれば、栄養ドリンクともおさらばできるだろう。あわよくば彼女についに声をかけて、僕の思っていること、感じていることをすべてぶつけられるかもしれない。そのあとにどうなるのかはまったく想像がつかなかった。とにかく、やっとこの長い、全然ありがたくもない夏休みが終了するのだ。夏休み最後のこの日は何もかもがスムーズに進行し、資料の打ち間違いも一度もなかった。仲間たちからは驚嘆される始末だ。「おい、良い女でもできたのかよ」と口々に言ってくる。僕は一応、「そんな感じかな」と答えておいた。それは半分は間違っているが、半分はちゃんと当たっているからだった。僕は家に帰ると意気揚々と時間を過ごし、夜の二時頃にベッドに入った。あまりに興奮しすぎて、寝つけなかったのだ。明日は眠気覚ましが必須になるだろう。でもそれは明日の僕にとっては何の苦にもならないに違いない。眠りに着く直前に僕はそのように想像した。




 翌朝、僕は今までにないほど溌剌とした気持ちで身体を起こした。この調子ならば、彼女との会話でどもったりすることはないはずだ。朝食を済ませ、スーツに着替えているあいだも、僕の頭にあったのは、彼女との会話の予行練習だった。彼女はどういう声をしているのだろう? きっと透明感のある明るい声に違いない。僕は彼女の声の響きを勝手に想像しては、気持ちの悪い笑みを浮かべたりしていた。


 車を走らせて駅に向かい、電車に乗る。途中で降りてホームを移動し、いつもの椅子へ腰を下ろす。そのあとは沈黙が辺りを支配したようだった。周囲はいろいろとざわついているけれど、僕にとっては何の関係のないことだった。ただ、目の前を目的の女の子が横切ること。僕はそれだけを期待しながら、じっと待機し続けた。


 今日は会えるだろうか、いいや、絶対に会うことができる。どこからその自信が来るのかはわからないが、僕には確信があった。彼女は間違いなく、僕の視界を左から右へと通り過ぎ、いつものようにして人ごみの中に消え去ってしまうのだ。僕はそうなる前に、何としてでも声をかけようと思った。声をかけたことで何らかの不都合が生じたとしても関係ない。今日こそは必ず彼女の声を聞くのだ。それだけが重要で、あとのことはあとのことだ。どうなるかなんて僕の知るところではない。


 待っているあいだ、頭の中でずっと、あの女の子が妖精のように飛び跳ねていた。彼女の身体は影絵のように真っ黒で、どういう表情を浮かべているのかがわからない。けれどもとにかく、嬉しそうな様子であることは確かだ。彼女はしばらくその運動を続けたあとでふと立ち止まり、こちらに顔を向ける。その顔は笑っているのか、泣いているのか。じっとこちらを見つめ、そしてあるとき、颯爽と走り去ってしまう。そういう謎めいたイメージだ。これが何十回となく繰り返された。まるでテープを何度も巻き戻し、再生しているみたいに。この妄想に意識を奪われそうにもなったが、そうなるたびに、僕は意識を回復することに努め、現実において彼女を見失わないようにと自身を叱咤するのだった。


 椅子に座ってから八分ほどで彼女は現れた。その八分は長くもあり、同時に短くもあった。時間に対する感覚が、相当麻痺していたらしい。身体にしても、ずっと動くのをこらえていたおかげで、座禅したあとみたいに全身が痺れていた。けれど、それは何の苦痛にも感じられなかった。それくらい、僕は彼女の登場に感動していたのだ。


 久しぶりに見た彼女は何一つ変わったところがなかった。美しく舞う黒い髪。青く光る胸元のリボン。短めのスカートは、今日のような風の強い日にはあまり好ましくない。靴音はどこかから流れる曲にリズムを合わせているようだった。その音は僕の体を上から下へと通過していった。心地良いリズムが心の芯まで到達し、そして過ぎていった。


 彼女が視界の中央に来るあたりで、僕は動きだした。椅子から立ち上がって、思うままに足を踏み出した。早くしなければ、彼女はまた、僕の前から消えてしまう。その前に、何としてでも彼女を掴まえなくてはならない。幸いなことに、彼女の歩くスピードはそこまで速くなかった。おかげで僕は、彼女が群衆に紛れ込んでしまう前に、彼女のもとへと到達することができた。


 彼女をどうやって引き止めようかについて考えている余裕などなかった。声をかけようとも思ったのだが、いざ本番になってみると、なかなか声は出ないものだ。そこで僕は、彼女の腕を掴んだ。とっさの判断だった。僕自身、自分のしたことに驚いているほどだ。気がついたときには、彼女の腕は僕に拘束されており、彼女は立ちどまって、僕の方を見ていた。


 僕は息を整えて、声がきちんと出ることを確認した。そして、彼女に向かって口を開いた。


「君と話がしたいんだ」


 あれだけ悩んだにもかかわらず、第一声はひどく率直なものだった。しばらく経ってから僕は後悔した。もっといい声掛けの方法はあったはずなのだ。しかし、腕を無理矢理掴んでしまった以上、どのような気の利いたセリフを言ったところで、台無しになるのは確実である。その意味では、率直な言葉をぶつけたことは、案外正解だったのかもしれない。もともと正解というものがあればの話だが。


 あれだけ強く求めていた彼女がそばにいるということが、あまり実感できずにいた。目の前にいる彼女は、何だかぼやけて見えた。その表情も雲っていてよく見えない。彼女だけでなく、その周囲の背景も、霧がかかったようにしてぼんやりしていた。これはどういうことだろう? 突然この地域で霧が発生したとでもいうのだろうか? でも当然ながら、この問題について考えている余裕など僕にはなかったし、また答えが見出せたとしても、あまり意味などなかった。


 彼女はこちらを向いており、そして微かに笑っているようでもあった。意外なことに、彼女は僕に対してそれほど嫌悪感を抱いていないらしかった。無論、はっきりと表情を見たわけではないから、そういう気がしただけのことだ。しかし、彼女が僕の腕を振りほどかないという状況からしても、まだ僕のことを嫌ったわけではないようだった。僕はそれだけで幸せな気持ちになることができた。というか、彼女が僕の存在していることを認めてくれただけでも、至福の思いだった。


 彼女は何かを言った。何を言ったのかは、景色と同様にぼやけてしまい、うまく聞き取ることができなかった。声もほとんど届いていない。彼女がどういう声をしているのかはまだわかっていない。でも僕は、彼女が何と言ったのかを聞き返す気にはならなかった。それは彼女の言葉がごく短かったこと、そして、その口もとがうっすらと笑っていたことから、好意的なつぶやきであったことに疑いはなかったからだ。僕はとりあえずうなずいておいた。うなずきというのはあらゆる場合において有効なのだ。


「ずっと、君がこちらを振り向いてくれるのを待っていたんだ」と僕は話し始めた。「君にはいい迷惑なのだろうけどね。でも、こうして腕を取ってしまったからには、もう離したくない気持ちなんだ。嫌なら断ってくれて構わない。僕もそれで諦めはつく。でも……もしも、君の同意さえあれば、君が学校に行くまでのあいだ、話がしたいのだけれど……どうだろう?」


 彼女はうなずいたように見えた。にこやかに、若干ためらいがちに。それから彼女は、体を少しだけこちらに近づけた。そして僕の目をまじまじと見つめながら、空いている方の手を、僕の手に重ねてきた。その冷たさは、あなたの気持ちはわかったから、もう腕を掴むのをやめてほしいのだけれどと言ってきているようだった。確かに僕は、女の子の腕を握るにしてはずいぶんと力を入れてしまっていた。僕は慌てて彼女の腕から手を離した。


 そのまま逃げてしまうのではないかと思っていたが、彼女はそこに留まっていた。それどころか彼女は、重ねた手をずっと置いたままにしていた。その手は華奢で、これまで会ったことのあるどんな女の子の手よりも小さかった。そこには確かな血の巡りを感じることができた。彼女は妖精などではない。きちんとこの世界に生きているのだ。そう思うことができた。


 それから彼女は、僕を導くようにして歩きはじめた。彼女の手は、僕の手をしっかり掴んでいる。その手はまだ冷たい。僕はどこへ行こうとしているのかも聞かずに、従順な態度で彼女についていった。そのときはとにかく、彼女という全存在のことで頭がいっぱいだった。まともなことなど一つも考えることができなかった。彼女の手に僕の手を重ねて温めようかとも思ったが、そうすることはできない。手の冷たさのおかげで、彼女は僕のことを認めているのかいないのか、まるっきりわからなくなってしまった。


 その冷たさについて考えを巡らせているうちに、辺りの景色がだんだん鮮明になっていくのがわかった。しかし、それと同時に、目の前にいたはずの女の子の姿も消えていってしまった。一体何が起きているのだろうか? 僕は今、どこにいるのだろう? その疑問には、現実の世界がすぐに答えてくれた。僕は線路に落下した。


 全身を強く打ち、思わず嘆息がこぼれる。身体が二つにぽっきり割れたような痛みだ。その痛みのおかげで、僕は何も考えることができなかった。ただその痛みにもだえ苦しむことしかできなかった。


 けれど、周囲から聞こえるざわめき、喧噪、慌てふためいたような人々の移動によって、僕の意識はだんだんと明瞭さを取り戻していった。そして、自分が今どこにいるのかをようやく認識することができた。急いでここから脱出しようとする。でも体は動かない。かなりの強度で打ってしまったみたいだ。どこかから血も出ていることだろう。ここまでくると、痛いというよりも、吐きそうだった。


 彼女はどこに行ってしまったのか。確かに僕は彼女の手を取ったはずだ。その感触は今でも覚えている。彼女の手は温かくもあり冷たくもあった。そして彼女は、その手でどこかに導こうとしていた。それもはっきりと記憶している。そこからがわからない。どうして彼女は、こんなところに僕を導いたのか。まさか道を誤ったわけではあるまい。線路に向かって歩くなんてとても正気の沙汰だとは思えないからだ。だとしたら、先ほどの出来事は何だったんだろう……?


 しかし、この経験によってあることがわかった。ものごとには、踏み出してよいものと、踏み出してはいけないものとがある、ということだ。それはきっちりと分けられており、一方に属しているものがもう一方に行くことはできない。もしも行ってしまったら、そこにはもはや、絶望しか待っていないのだ。


「せめて、彼女の声を聞きたかったなあ」


 そうつぶやいてみると、自然と涙がこぼれるのだった。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 驚きました。至極良い意味で、「弄ばれた」という感覚です。村上春樹を思わせるような爽やかな比喩や語り口から、「大人の男が女子高生を追う」という物語に違和感なく引き込まれてしまいました。再会を…
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