五 廊下を走ろうか 1
今度は汗ばんできた。
「木津くん、言ってもいい?」
「いやだ」
即答される。ますます言いたくなってしまう。
「ね、木津くん。どうしてあの突き当たりにたどりつけないんだろ?」
見えているのに、走っても、ものすごくゆっくり歩いても、距離は少しも縮まらない。ためしに戻ってみると、こっちは異常がないみたいで、またあの歌声がかすかに聞こえて来た。
……ポスターが歌ってるだけで、じゅうぶん異常なんだけど。
もう一度引き返して、廊下の端を目指す。やっぱり近づけない。
窓の外の景色もそのまま。グラウンドとすみに作られている小さな花壇が目をこらすと見える。変化するのは、空に浮かぶ月だけ。それも今は雲のなかに入ってしまってる。
「かなり歩いたよね。だってあそこにあった月がこっちに傾いてるもの。今何時ごろなのかな。とっくに日付は変わっちゃってるよね」
「丹は腕時計とか持ってないの?」
「持ってない。ふだんは携帯で見るから」
教室に入ればわかるかもしれないけど、時計を見るためにわざわざそんなことはしたくない。少なくとも廊下は、今のところ伸びている以外はなにも起きていないから安全だ。
「でも今は携帯持ってないんだろ。こんな時間に家にいなくて、親心配しない?」
「心配するから黙って出てきたの。往復四十分くらいだから、大丈夫かなと思ったし」
「けっこう近いんだ。俺、片道だけで一時間はかかるよ。電車とバス使うから大変でさ。特にバス。最終が早いから、いっつも歩いて帰るはめになるんだ」
いくら早いのだとしても、それは間に合わない木津くんのほうに問題がある気がする。今日だってそのつもりだったんだろうから。
「友達、心配してるだろうね」
「人数多いから、一人くらいいなくても気にしないよ。たぶんそのまま帰ったって思われてるんじゃないかな。置きっぱのカバン、明日持ってきてくれるかな、あいつら」
「わたしは化学の宿題が気になるな。帰ってからする気がもうしない……」
「実験レポートだったら俺のを写せばいいよ。どうせどこの班だって似たようなものだろ」
「うわあ、ありがとう! あ、でも写す時間あるかな」
「そう言えば、丹はいつもギリギリに来てたんだっけ。まあ十分早く来れば余裕なんだから、そのくらいはがんばれよ」
「はーい」
こんなふうに木津くんと笑って話してるなんて、朝の時点では信じられないことだよね。早く学校を出たいけど、なんだかまたいてもいい気持ちになってくる。
たったったったったっ。
……余計なこと、思わなければ良かった。
「木津くん」
「うん。走ろうか」
革靴と運動靴がこすれる音が廊下に響く。わたしは木津くんに引っ張られながら、全速力で駆けた。スカートはひらひらするし、汗でブラウスがはりついて気持ち悪いけど、それでも走った。
だけど廊下には果てがない。
バテたのはわたしと木津くんのほうだった。息が思うように吸えなくなって、心臓が爆発してしまいそう。
「くそっ」
木津くんは音に向かい合った。肩越しにわたしも廊下の闇を見つめる。
たったったったったっ。
軽快な足音。誰かが来る。汗が一気に引いて、またぶわっと出てくる。わたしの身体の汗の調節がおかしくなってる。
月の光が廊下に差し込んだ。雲が晴れたみたい。タイミングがいいのか、悪いのか。




